2024年3月1日

マリー・アントワネット自叙伝 21

 ルイ15世、ご逝去

1774年4月末のことでした。ルイ15世は朝から体の不調を感じていましたが、いつもの通り狩猟に行かれました。でも長くは続けられず、早めに引き上げ、グラン・トリアノンに戻られました。そこではデュ・バリー夫人が待っていました。 

ルイ15世が気に入っていたグラン・トリアノン。
ヴェルサイユ宮殿の庭園内にあります。

休養をとりましたが体調は一向によくならず、その夜のお食事は召しあがれず、翌日、主治医ラ・マルティニエールがグラン・トリアノンに駆け付けます。診察を終えた主治医は、国王を直ちにヴェルサイユ宮殿に移すように命令しました。


フランスでは、国王は居城の寝室以外の場で病の床についてはいけないことになっているのです。ましてや、最期を迎えるなどとはもってのほか。そのようなことは許されないのです。そうはいっても、どこでいつ何が起きるのかもわからないのに・・・と未熟な私は思いました。でも規則は規則、守らなければならない。それでルイ15世は、部屋着に包まれてヴェルサイユ宮殿に運ばれたのです。ということは国王の健康状態がかなり悪化していると、主治医は即刻わかったのにちがいありません。


国王は、お子様の王女さまたちには会いたくないと告げました。でも、デュ・バリー夫人には傍に付き添っていて欲しいとおっしゃったのです。それを知って国王は心の底から夫人を愛しているのだと、とても感動しました。彼女は国王につきっきりで元気づけていたそうです。


29日には14人もの医者が国王の寝室に集まり、それぞれ診断しました。様々な意見が出た結果、国王は天然痘にかかっていらっしゃると結論が出ます。天然痘はおそろしい伝染病なので、私たちはお部屋に入ることを禁止されました。世継ぎの皇太子さまと私に伝染したら一大事だからです。


日に日に衰弱する国王の傍らで、デュ・バリー夫人は一日の大半を過ごしていました。でも、ついに、国王がデュ・バリー夫人に会いに来ないように告げる日がきたのです。馬車に乗って即刻宮殿を離れるように、と。それを知った夫人は泣き崩れました。それはルイ15世の最期を意味していたからです。彼女は自分の恵まれた華やかな人生が、国王逝去と共に崩れ去ることを切実に感じたことでしょう。


5月10日午後3時15分、国王の寝室の窓辺でほそぼそ揺れていたキャンドルの炎が消されました。それを見て、宮廷人も国民もルイ15世が、今、神に召されたことを知ったのでした。それが、フランス宮廷が国王逝去を告げる伝統だったのです。

59年間、フランス国王の座にいたルイ15世。


国王のりりしい騎馬像を中央に置いた
パリのルイ15世広場(現在のコンコルド広場)。


ルイ15世が世を去った時、皇太子さまと私はヴェルサイユ宮殿の一階のお部屋にいました。夫が極度に緊張しているのが、よくわかりました。国王に万が一のことがあったら、皇太子さまはその後を継いでフランス国王になるのですから、当然です。私たちはまだ若く、大国を導いていく教育を十分受けていなかったし、気が優しい皇太子さまは、権力を振りかざすような人柄ではないのです。簡単に言うと、国王になるのに向いていない性格。


突然、嵐のような足音が上の階から響いてきました。ルイ15世が逝去され、新たに国王になる夫に一刻も早く挨拶したいと、貴族たちが先を争いながら鏡の回廊を走る音だったのです。それが出世に響くことを知っていた彼らは、私たちの部屋に入るとひれ伏し、

「新国王おめでとうございます」

 などと口々に言うのです。

彼らの運命はひとえに夫にかかっているのですから、何とか気に入られたいと必死だったのです。押し合いながら部屋に入ってくる貴族たちの姿があまりにも醜く、いい気分ではありませんでした。


戴冠式は後年に行いますが、この日から私たちは国王夫妻になったのです。夫は19歳で私は18歳で、あまりにも若すぎる年齢でした。ルイ15世が世を去って約2時間後、私たちは馬車に乗りました。夫の弟と妹も馬車に乗り、パリ郊外にあるショワジー城へと向かいました。亡き人と同じ宮殿にいてはならないという規則があったからです。その後もしばらくの間、ラ・ミュエット城やマルリー城などを転々としていました。その間に亡き国王は棺に横たえられ、王家のお墓のサン・ドニ大聖堂に葬られたのです。


フランスでは国王が逝去されると、心臓を摘出して壺に納め、パリ市内の教会に安置し、遺体はサン・ドニ大聖堂に葬るという慣習があるのですが、ルイ15世は天然痘で体がかなり腐敗していたためにそれもできず、そのまま王家のお墓に埋葬されたのでした。心臓を付けたまま葬られたのはルイ15世だけだそうです。


亡き国王が最期まで案じていたデュ・バリー夫人は、直ちにヴェルサイユ宮殿から追放され、ポン・ト・ダム修道院に送られました。その後ヴェルサイユ近くのルーヴシエンヌの館に暮らようになりますが、それはルイ15世が生前に彼女にプレゼントしたシャトーです。

1771年9月2日、デュ・バリー夫人はルーヴシエンヌのシャトーで、
ルイ15世を迎えて盛大な祭典を催しました。