2024年5月29日

マリー・アントワネット自叙伝 29

 世継ぎの王子が生まれました

お母さまがお亡くなりになって悲嘆にくれた日々を送っていましたが、その翌年には嬉しい出来事があり、元気づけられました。

 

1781年10月22日、長年待ち望んでいた世継ぎの王子が生まれたのです。ルイ=ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワと名付けられた皇太子の誕生は、国中に喜びを放ち、その熱狂ぶりにブルボン朝が永遠に続くのではないかと思ったほど。私も王妃の役目を果たして、嬉しさと自信が頂点に達しました。

1781年10月22日、待望の王子が誕生。

王子は女官に抱かれ、
私はベッドの中で心ゆくまで幸せを味わっていました。

王子の最初のデッサンです。
かわいくて、かわいくて、一日中見ていたいほど。


全国の教会の鐘が鳴り響き、その音にどれほど喜びを感じたことでしょう。でも、ふと、お母さまが存命中だったら、と、ちょっと感傷的になったこともあります。「お母さまが心配していた末娘も、このように、国に跡継ぎを授ける立派な王妃になったのです」と自慢もしたかった。


国民は大変な喜びようでしたが、義理の弟、特に、プロヴァンス伯はかなりがっくりしたようで、数日間、浮かない顔をしていました。彼は常に王位を狙っていた野心の固まりの人で、国王に世継ぎが誕生したので、その可能性がなくなってしまったのです。ほんとうに嫌な人。


色鮮やかな花火も華々しくあげられました。パリではあちらこちらでワインが無料で配られ、大喜びで乾杯。国民がこれほどの喜ぶのなら、もう一人王子をなどと思いました。私のフランス王妃としての自覚も立派になったものです。


フランス全土で王子誕生をお祝いしていましたが、パリの華やかさは格別でした。特にパリ市長舎では、翌年に2度にわたって大規模な祭典を催してくださいました。このように出産からかなりの時間を置いたのは、私の体が元に戻ることを配慮したのだと思います。何しろ舞踏会が大好きな私は、踊り始めたら時間が経つのをすっかり忘れ、朝まで踊り続けるからです。そうした趣味がない夫は早めに引き上げ、宮殿のベッドで深い眠りにおちいるのです。


久しぶりに着飾って出席した祭典は1月21日と23日。どちらもパリ市長舎のグランサロンでした。以前の体を取り戻した私は、嬉しくて嬉しくて思う存分楽しみました。ヴェルサイユ宮殿でも、もちろん皇太子誕生のお祝いがあり、その舞台になったのは宮殿内のオペラ劇場。祭典を楽しんだだけではありません。世継ぎが生まれた感謝の祈りを捧げるために、ノートル・ダム大聖堂にも参りました。王女と王子を国に授け、王妃の役目を理想通りに果たした私は、どこでも賞賛の熱い眼差しを受け、この上ない幸福感に浸っていました。

ノートル・ダム大聖堂で着飾った貴族、聖職者に
華やかに迎えれらました。

娘と息子の母親になり、
王妃としての自信を持つようになりました。

王子誕生の翌年1月21、22日に
パリ市庁舎でお祝いの祭典。仮面舞踏会もありました。

パリ市がプレゼントして下さった
タフタの産着入れ。

ただひとつ、アメリカに行ってしまったあの方、フェルセンさまにお会いできないことが、さみしかったのは事実です。これほど素晴しい出来事の喜びを、あの方と分かち合いたかったのです。それがかなわず心の中でフェルセンさまのご無事を祈ったり、一日も早くフランスに戻ってヴェルサイユ宮殿にいらしてほしいと願っていました。このような秘め事は誰にも打ち明けることはできません。それは王妃の運命です。何て孤独な人生でしょう。

夫、私、王女、王子、
4人揃った幸せに包まれた家族初の絵。