2024年8月25日

アラン・ドロン、フランスの誇り

 8月18日朝3時に88歳の生涯を閉じたアラン・ドロンへのオマージュは、一週間たった今でも続いていて、彼がいかにフランス映画界の破格のレジェンドだったか伝わってくる。とくに、長年暮らし世を去った屋敷の門の前に捧げられた花束の山をテレビで見るだけで、彼の死を惜しむ人がいかに多いかわかる。アラン・ドロンの3人の子供たちも、捧げられた花束や記帳に訪れる人々が後を絶たず、非常に感激しているとコメントを発表。末っ子のアラン=ファビアンは何度も涙をぬぐいながら、今は亡き父に捧げられた花の山の前に立ちつくしていたという。

キオスクではアラン・ドロンが表紙を飾る雑誌を
一番目立つところに置いている。

多くの雑誌が特集を組んでいる。

病院はイヤだ、自宅でこの世に別れを告げたい、葬儀は近親者だけによる静かなのものであって欲しい。それがアラン・ドロンの最後の望みだった。彼は家族に見守られながら、緑豊かな小さな村ドゥシーで、多くの人を魅了したブルーの瞳を閉じた。

8月24日夕方4時に始まった葬儀に参列したのは約40人。その人数は彼が自ら決めていたし、自宅の庭に建築させた小さな礼拝堂でミサを行うことも、司祭も決めていた。生前に依頼していたのはディ・ファルコ元教区司祭で現在82歳。この日、早朝から屋敷周辺の道路は閉鎖され、上空飛行も禁止。約100人の警官が周囲を固め、ミサに参列する人の携帯も礼拝堂には持ってはいれないという。もちろん、すべての報道機関も禁止。葬儀が始まる前に息子2人が屋敷の前に集まっている人々の前に姿をあらわし「皆さんありがとう。父はここにいます。私たちを見ています」とお礼を伝え、捧げられた花束の山をじっと見つめていました。

愛犬家のアラン・ドロンはこれまでに約50匹の犬を飼っていて、世を去るたびに庭に葬り名前を書いていた。20年ほど前に礼拝堂をそのすぐ近くに造らせたのも、忠実だった犬たちに、いつまでも囲まれていたかったからだろうか。

1971年に購入したドゥシーの120ヘクタールの敷地内にあった古いシャトーを取り壊し、自分好みの館を建築させ暮らしていたフランス映画界の寵児は、ときにはスイスに滞在することもあったが、彼にとってドゥシーの高い塀に守られた家はパラダイスだった。広いサロンには大きな暖炉があり、室内プ-ル、ゲーム室があり、庭に大きな湖を掘った。

晩年のアラン・ドロンはバッハを聴き、歴史書を読み、数多くの絵画とブロンズの彫刻に囲まれ犬と共に暮らしていた。孤独だと語ることも度々あったという。彼が亡くなったのは聖母マリア昇天日の3日後だった。小さい頃から聖母マリアを尊愛し祈りを捧げていたと知って、聖母マリアに導かれる幸せそうな顔のレジェンドの姿が、絵を見るように目に浮かぶ。4歳のときに両親が離婚し、それぞれ再婚したために、きちんとした居所を長い間見つけられなかったアラン・ドロン。母は再婚し子供が生まれると、アランがいることも忘れほったらかしで、母親の愛に浸ることもなく成長。庭に礼拝堂を建築させたのは、誰にも邪魔されることなく、一人静かに聖母マリアに祈りを捧げたかったからだろうか。「信じられるのは聖母マリアだけだ。だから祈りを捧げることが多い」とインタヴューに答えたこともあった。彼は友人が少ないとも語っていた。

ド・ゴールを英雄と称え、尊敬し、いつまでも心の中に生き続ける人と語っていたアラン・ドロンもまた、フランス映画界に旋風を巻き起こし、その価値を世界に広めた歴史に残る人。激動の人生を生きた彼は去っていった。けれども、数々の名作映画は私たちにその唯一無二の存在を語り続ける、いつまでも・・・