2024年9月11日

マリー・アントワネット自叙伝 35

迫ってきた危険と太子の死

 国の経済が加速度的に悪化し、それを解決するために財務総監をチュルゴー、ネケール、ブリエンヌと何度も変えましたが、一向に解決しませんでした。国民たちの生活は日に日に悪くなり、パンも買えないと騒いでいたようです。ブリエンヌが、それでは貴族たちにも税金を払わせたらどうかと、とんでもない提案をしたのです。当然、それは強い反発を受け、ブリエンヌは辞任させられ、ネケールが再度財務を手がけることになりました。


彼は夫に三部会を開くことを進言します。三部会というのは、第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の平民で構成された身分制議会で、ルイ13世の時代の1614年から開催されていませんでした。なぜかというと絶対王政が続いていたので、王の一存ですべて決定されていたからです。

1614年、ルイ13世の時代の三部会

ネケールの提案を受けた夫は、それではと175年ぶりに三部会を召集したのです。1789年5月4日、ヴェルサイユで三部会が開会される前日に、ヴェルサイユのノートルダム大聖堂でミサを受け、サン・ルイ教会まで1200人もの人が行進しました。夫も私も、もちろん参加しました。誰もが華麗に着飾っていたので、まるで祭典のような華やかさでした。この様子を見たいとパリから大勢の人がヴェルサイユまで来たそうです。175年ぶりなので見逃したくないと思ったのでしょう。その行進の間、気になることがありました。多くの人々が私に冷たい視線を投げていたことです。中には冷たいを通り越して、憎しみがこもった恐ろしい目つきの人もいました。

三部会前日、1789年5月4日の行進。

三部会が開会された5月5日朝8時ころ、まず、第三身分の平民が会議の会場に入りましたが、横手の入り口を使用するようにと命令されたのです。その後、第一身分の聖職者、第二身分の貴族が立派な服装で正面入り口から堂々と入場。全員が揃ったころ、国王、つまり夫が会議場に入ったのでした。


開会を告げる国王の言葉は大変立派で、多くの人が感動したとのことです。

「余が待ち望んでいた日がついに到来した。国民に新たな幸福をもたらせることになればと思い、この度三部会開催を決意したのである」

という内容でした。それに続いて財務総監ネケールによる、経済状態の悪さをあげる数字ばかりの報告がありましたが、解決策には一切触れず、第三身分が期待していた、不公平な投票方法の改善も皆無。


1789年5月5日の三部会。
これがその後も悲劇を生むとは誰も思ってもいませんでした。

それまでの投票は、三つの身分の違う階級がそれぞれ1票ずつとなっていました。議決するときに第一身分が一票、第二身分が一票、第三身分も一票です。第一身分と第二身分は特権階級なので同意することがほとんど。つまり二票になります。それに対する第三身分は一票のみだから、二対一で負けてしまう。これは時代に即していないと、平民が反発したのです。議決は身分ごとではなく、それぞれの議員の個別投票で決めるべきだと主張。第一身分は291人、第二身分は270人、第三身分は578人で、平民の議員数の方が多いので、勝つ見込みが多かったのです。


聖職者の中に、第三身分の議員たちの意見に賛成する人が出てきて、日に日にその人数が増えていきました。平民側についた司祭たちは、貴族たちに働きかけ、自分たちと同じように、第三身分の味方になるようにと説得していました。政治にまったく関心がなかった私ですが、世の中に不安な空気が流れていたことを感じていました。こうした最中に、再び悲劇が私たち家族を襲ったのです。

  

未来の国王の座が確約されていた皇太子ルイ=ジョゼフは、とても賢い子で、将来立派な王になると誰もが期待を寄せていました。性格が穏やかで従順な子供で、夫も私も溺愛していました。夫も王子が自慢で、自ら教育をほどこすことがあったほどでした。それまでのフランス国王夫妻は、子供の養育も教育も側近任せが多かったのですが、私たちは別でした。二人とも子煩悩で、できるだけ多くの時間を、子供たちと過ごすよう心がけていました。

美しい顔の皇太子ルイ=ジョゼフ

国王になる皇太子には、それなりのお妃を、と早い時期からあれこれ考えていました。私が長男にふさわしいと思っていたのは、ナポリ王国フェルディナンド四世に嫁いだ姉、マリー・カロリーヌの王女マリー・アメリーです。皇太子より1歳年下で、おだやかな性格で、頭もいいし、未来の王妃にぴったり。何よりも私が一番好きで仲が良かった姉の子供なので安心なのです。


1784年のことでした。3歳の息子が急に高熱を出したのです。大あわてでパリ近郊にあるラ・ミュエット城に連れて行き、そこで静養させたところ、幸いなことに回復しました。でも、その翌年から健康状態が悪くなる一方でした。1786年に再び高熱が続き、背骨が曲がったようでした。複数の医師の診断を受けたのですが、高熱の原因は判明しなかったのです。

大好きな姉と一緒のルイ=ジョゼフ
ふたりはとても仲良しで、一緒の遊んでいる姿を見るのは
私にとって大きな喜びでした。

トリアノンの庭園を子供たちと連れ立ってお散歩。

皇太子が7歳になると、宮廷の習慣に従って、それまで仕えていた女性たちの代わりに、男性の手に委ねられることになりました。威厳ある殿方たちに囲まれ、幼いながらも自分が将来国王になることを知っていた息子は、体がすぐれなくても、課せらる義務を懸命にこなしていました。主治医プティ医師から、息子が脊椎カリエスにかかっていると告げられたのは1788年1月でした。その言葉は、地球がひっくり返ったほどの衝撃でした。プティ医師の説明によると、結核菌が脊椎をおかしていたのです。当時は治療の手立てもなく、ただ死を待つことしなかいと言われた瞬間、周囲の全ての物から色が消えうせ、全ての音が消え、暗黒の世界に突き落とされたようでした。


日に日に衰弱した王子は、もはや歩くこともできなくなりました。元気に飛び回りたい年齢なのに、それもできない息子がかわいそうで、胸をかきむしられる思いでした。それでも何とかしてあげたいと、大きな3つの輪がついた、移動できる椅子を作らせました。座るところには赤いビロードをしき、外側にブルーの波が勢いよく描かれ、元気そうなイルカの彫刻をほどこしました。皇太子はフランス語でイルカという意味もあるのです。その椅子を、息子はどれほど気に入っていたことでしょう。

歩けなくなった息子のため特別馬車。

1789年5月4日の三部会が開催される前日の行進を、ルイ=ジョゼフはヴェルサイユ宮殿の前方にある厩舎の窓から見ていました。華麗な行列に大変喜んでいた、と側近から伺いました。その数日後、澄み切った空気があたり一面に漂うムードンのシャトーに移しました。ムードンはヴェルサイユ宮殿から遠くなく、かつての狩猟の館を拡大したシャトーがあったのです。夫も私も毎日息子に会いに行っていました。そのたびに、今日が最後になるかも知れないと、ルイ=ジョゼフと一緒にいる一秒一秒が貴重でした。


息子が7歳半の短い生涯を閉じたのは、三部会開催から約1ヵ月後の1789年6月4日でした。6月8日には三部会に出席した三つの身分の代表が、ムードンのシャトーにいらしてお別れを告げ、6月13日、かわいそうな息子は王家のお墓のサン・ドニ大聖堂に葬られました。国民たちは子を失った私たちの身を引き裂かれるほどの苦しみに、少しの同情を示すことなく、不満は刻一刻と増大していったのでした。