2025年12月21日

マリー・アントワネット自叙伝 62

 永遠の別れ

 役人が私たちの部屋に入って来たのは1月20日夜8時半ころでした。

ドアが乱暴に開けられ、階下にいるルイに会いに行ってよいと、いきなり言われたのです。その言葉に、1秒も早く夫の姿を見たいと、転がるように階段を下りて行きました。息子の手を取った私が先頭に立ち、義理の妹と娘がぴったりくっつくように続きました。


夫との再会の場はダイニング・ルームで、その真ん中に夫がポツンと立っていて、いかなるときにも感情を表すことがなかった夫が、すべてから見放されたような苦しみと寂しさに必死に耐えている表情をしていました。


私たちが急ぎ足で階下に行くと、
夫は無表情で放心したように立ちすくんでいました。

今まで見せたことがない、夫の打ちひしがれた姿を目の前にして、血を一気に失ったかのように体も心も何もかも凍り、しばらくの間、言葉を発することができませんでした。ただ、身を投げ出して、言葉にならないうめき声を上げるばかりでした。まるで、動物のように。エリザベート王女さまも、娘も息子も同じでした。かわるがわる夫の体を抱きしめ、叫び声をあげ、涙が流れるままにするだけでした。

夫が死刑の判決を受けたことは、新聞売りの叫び声ですでに知っていました。このような重要な決定でさえ、路上から聞こえてくる人民の声でしか知ることができないのか、と我が身のみじめさに、全身が震えるほどの怒りを感じないではいませんでした。

「国民公会はルイ・カペーに死刑判決を宣告。処刑は囚人にそれを通告してから24時間以内に行われる」

塔の下から響いてくるその残酷極まりない言葉は、地獄の底から這いあがっているようでした。


夫の、兄の、父の温もりがやがて消えてしまう。この愛情深い気立てのいい人が、もうじき地上から消えてしまう。

なぜ、なぜ、なぜ、なぜ? 

一体何の罪を犯したというのか!

声にならない叫びをくり返していただけでした。


私たちと夫が最後の別れを惜しんでいる間、役人たちはダイニング・ルームから離れ、隣の部屋で様子を伺っていました。それは夫が希望したことで、最後のひとときを、家族だけで過ごせることを国民公会も許可したのです。夫が選んだ告解師フィルモン神父は、私たちより前に夫に会っていましたが、私たち階段をおりる音を耳にすると、静かに隣の部屋に退いたのでした。神父さまはご自分の死を覚悟で、この役目を引き受けたと後に打ち明けています。

言葉を発することも出来ず、
私たちはただ、ただ、うめき声をあげていました。
フィルモン神父さまは、家族だけで最後の時を過ごせるように、
そっと、部屋から出て行かれました。


涙が枯れ、叫び声もあげる力をなくなり、私たちは静寂の中で寄り添っていました。

それを重い声で破ったのは夫でした。夫は落ち着きながら裁判の様子を詳しく話してくれました。その後、息子を引きよせ、父親の温かく、それでいて説得力がある声で言いました。

夫は息子を引き寄せ、優しい声で語りました。

「我が息子よ、余の死の復讐を絶対にしないと誓いなさい」

 ルイ・シャルルがその言葉にうなずくと、夫は息子のブロンドの髪をなでながら

「絶対に復讐をしてはいけない」

 とくり返し、きちんと誓いなさいと催促し、息子は片手をあげ、立派に父の希望通りに誓いをたてたのでした。


鉄格子に囲まれた暗く、陰気で、底冷えがするタンプル塔での別れは、
言葉では表せられないほど冷酷で残虐でした。


時間はあっという間に経ち、夜10時を少し回ったころ、夫に別れを告げました、明日の朝、もう一度会うことを約束して。

夫は、では明日の朝8時にと言ったので、私は7時がいいと主張し、やさしい夫は

「では明日の朝7時に」

 と、言い直しました。

それが私たち最後の会話になってしまったのです。というのは、再び会うと別れがさらにつらくなるとフィルモン神父さまがさとしたのです。夫は神父さまの忠告はもっともだと思い、それに従ったのでした。

その夜、夫はフィルモン神父さまと
静かに祈りを捧げ、翌日を迎えたのでした。

翌朝7時に会うのが最後かと思うと心が騒ぎ、着替える気力さえも失い、昼間の服のままベッドに倒れ、まんじりともしない夜を過ごし、夫の処刑の日の朝を迎えたのです。

2025年12月7日

マリー・アントワネット自叙伝 61

判決

 夫の運命を決定する決議は1793年1月14日に行われました。当時の議員数は749人で、それぞれが壇にのぼり、自分の意見を述べましたが、欠席した人もいました。議長に選ばれたのは、革命家であり法律家のピエール・ヴィクトリアン・ヴェルニオで、ロべスピエールと意見がぶつかり合っていた人です。

夫の運命は
国民公会の裁判に委ねられました。


決議の内容は四つありました。

 

1、ルイ・カペーは人民の自由に関して有罪か。

2、国民公会によるルイ・カペーの判決を人民の正式承認にかけるべきか。

2、ルイにいかなる刑を科すべきか。

4、ルイ・カペーの死刑判決に猶予をつけるかどうか。  

 

1月15日から19日にかけて、それぞれの投票が行われました。誰が賛成し誰が反対したか、その明細が法務省に保管されているそうです。


もっとも重要な処刑に関する投票は1月17日で、投票の結果によると361人が死刑賛成、反対334。賛成者の中に執行猶予に関して協議すべきだという意見が出たために、18日夜から19日早朝にかけて、死刑判決に執行猶予をつけるかどうかの最後の投票が行われることになりました。その結果、出席した690人の議員の内、310人が賛成し380人が拒否したのです。このように、夫の処刑は大きな差で決定されたのでした。


夫の3人の弁護士はすぐに控訴を提起したのですが、即座に断られました。これで最悪の運命を回避する希望は、完全に断たれたのです。


議会で投票が行われている間、夫は侍従クレリーとひっそり苛酷な時を過ごしたようです。

1月20日、法務大臣ドミニク・ジョゼフ・ガラ、副検事エベール、夫の弁護士マルゼルブがタンプル塔に足を運びました。前日の判決の結果を伝えるためです。


マルゼルブ弁護士は夫の姿をみると、こらえきれなくなり大粒の涙を流しました。そうした弁護士に夫は声をかけたのです。「余は、あなたの涙が私に判決告げると思っていた。元気を出したまえ、新愛なるマルゼルブ

マルゼルブ弁護士は、夫の姿を見るやいなや、ひざまずき、
言葉を発することも出来ず、粒の涙を流しました。


夫は、死の判決を告げられても少しの動揺も見せず、毅然とした態度を少しもくずさず、静かに聞いていたそうです。その姿には威厳があり、あまりにも気高く、偉大で、目頭が熱くなるほどだったと、副検事エーベルは感動を綴ったそうです。エーベルは過激派で国王処刑を激しく要求していた恐るべき人物だったのですが、そうしたエーベルでさえも心を打たれるほど、夫は立派だったのです。夫はその翌日に処刑されることも、知らされました


自分の死刑判決を告げる用紙を、几帳面な夫は丁寧にたたんだ後、ポケットに入れました。どこまでも律義で真面目な夫。いかなる時にも国民を愛し続けていた国王が、このような残酷な判決を受けるなど理解できません。一体彼は何をしたというのでしょう。

裁判の結果を静かに聞く夫。


その後、夫は最後の願いを法務大臣宛てに書きました。

1793年1月20日の日付けで始まり、最終行にルイとサインを入れています。

その主だった願いは

「神の前に行く準備のために、3日間の猶予が欲しい」

「家族に会わせて欲しい」

「国民公会が今後も家族を見守って欲しい」

「告解師はエッジワース・ドゥ・フィルモンにしたい」


夫が法務大臣に渡した最後の願い。

夫の最後の願いのうち、3日間の猶予だけ拒否されたのでした。
夫が告解師選んだエッジワース・ドゥ・フィルモンは、アイルランド生まれで。後にフランスに亡命し、神学校で学び、パリ教区の総代理になった方。最後まで夫に連れ添ってくださいました。
最後の瞬間まで夫の心の支えとなって下さった、
エッジワース・ドゥ・フィルモン神父様

2025年12月4日

ナポレオン戴冠式を祝う会食

ノートルダム大聖堂でのナポレオン1世の戴冠式。
出席していない皇帝の母まで描いていて、
ナポレオンは大変お気に入り。
抜け目がないことで有名な画家ダヴィッドは
自分も描いている。

12月2日は、ナポレオンがノートルダム大聖堂で絢爛豪華な戴冠式を行った日。1804年、ナポレオンは35歳の若さだった。毎年、史学会主催の趣向をこらした会食があり、今年は19世紀半ばに創業されたレストランが会場。しかも、インペリアル・ルームとあって、それを知った時にはざわめきが起きたほど、皆、大喜び。なるほど、インテリアも重厚で品格がある。

出席したのは125人。丸テーブルを囲んで会話は途切れることなく続き、おしゃべり好きなフランス人のこと、隣の人の声でさえもよく聞こえないほど賑やか。フランス各地からこの日のために集まったのだから、無理もない。長い食事が終わってアパルトマンに戻った時には、声がかれていたほど。ナポレオン万歳の乾杯も、ひときわ熱ががこもっていた日でした。

ナポレオン戴冠式をお祝いするのにふさわしい、
インペリアル・ルーム。
品格あるインテリアは19世紀半ばの面影を残している。

お祝いの日だから、女性は華やかな服装、
男性はダークスーツ。

第一帝政時代を彷彿させる
こだわりの服装の人もいる。
私は彼女をジョゼフィーヌと呼んでいる。
去りがたいほど楽しいひととき。

いつかノートルダム大聖堂で、特別ミサをあげてもらおう、セント・ヘレナ島にみんなで行こう、などと大きな話も出て最高に盛り上がった日でした。

2025年12月1日

クリスマス ジュエリーのショーウインドーに魅せられる

 ハイ・ジュエリーは何が何でも手が届かない、だから、ショーウインドーを見るだけ。ジュエリーそのものより、ディスプレイが凝っていて興味はそちらにある。個性的なショーウインドーをお届けします。

自然や生き物をテーマにすることが多い
ヴァン・クリーフ&アーペル。

華やかさ満開のルイ・ヴィトン。

永遠のアイコン、パンテールが可愛すぎる。
カルティエのレッド・ボックスはみんなの夢。

星とカメリアはもちろんシャネル。
気品がほとばしるディスプレイ。

宮殿のように華麗なディオール。

たくさんの星が煌めくブルガリ
未来のジュエリーと語られているアンセイド。
そのディスプレイはどれもインパクトがある。最近パリにオープンしたばかり。

クリスマスはやはり華やかで楽しい。
この後は、クリスマスケーキを求めて歩き回らなくては・・

2025年11月27日

思わず立ち止まったほど、美しい光景

ナポレオン皇帝は、才知と勇気を糧に、無名の青年からフランス最高峰の地位を自分の手で勝ち取った。そうした人にふさわしく、ヴァンドーム広場中央の青銅の円柱の頂上に君臨しながら、誇らしげに上から人々を見ている。

ある晴れた日の夕方、黄金色の空の中で、円柱の頂上でひときわの輝きを放っているナポレオンの銅像が見えた。まるで後光がさしているようだった。神々しかった。彼の周囲だけが、輝いている。眩しいほど輝いている。それ以外は、存在していないかのように影が薄い。やはりはナポレオンは破格の人物だ。唯一無二の人物だ。銅像でさえも、オーラを散りばめるのだから。

思わず足を止めてしまうほど、印象深い光景

2025年11月25日

クリスマス、競い合う華やかさ

 華やかなのはデパートだけではない。街のあちらこちらが輝いていて、キレイ、キレーイ、ステキ、わぁ、すごい、夢みたい・・・1オクターヴ高い感激の声が飛び交うパリです。やはり、パリのセンスは飛びぬけていい。

宝飾商の王者、カルティエ本店。
ひときわの輝きが遠くからも視線をとらえます。

バレーの衣装がトレードマーク。
もちろん、レペット。

大好きなディオールのジュエリー店
メルヘンの世界にいるような気分にしてくれる。

ひと目でシャネルとわかる装飾。
これをココ・シャネルの時代から継続しているのだから、
やはりグラン・メゾンと呼ぶのにふさわしい。


妖精の国に来たような、緑豊かなディオール。
クリスチャン・ルブタンの回転する意表をついたショーウインドー。

ほ~ら、ご覧の通り一挙に変わって、
歓声が沸き起こる。

街角の装飾もパリのエスプリたっぷり。

この続きは後日に・・・

2025年11月20日

クリスマス いつまでも見ていたいツリー

 いつも通り、デパートのクリスマス装飾が華やかで、心が浮き立つばかり。やはり、ギャラリー・ラファイエットのツリーを見ないと気分が出ない。華やかな画像をたっぷりお届けします。

デパートの外観を見るだけで心が躍ります。

花飾りの下を歩くのは、とてもいい気分。

クリスマスは赤が圧倒的に多い。
お祝いだから当然。

クーポール下のこのツリーが目的。
圧倒的な存在感。楽しさと喜びがはち切れそう。

30分ごと(多分)に音楽が鳴り、
それに合わせて色を変えながら動く極上ツリー。
もう、文句なしにメルヘンの世界。

プレゼントが山のようにある
不思議な国に来たみたい。

抵抗し難い美しさ。何もかも輝いている。

デパート全体が
大きなリボンに包まれてるような錯覚を起こします

2025年11月17日

マリー・アントワネット自叙伝 60

 最後のクリスマスの日、夫は遺言を書きました

 弁護士が伴う尋問が行われる前日の12月25日クリスマスの日、夫は遺言を書きました。厚い壁に囲まれ、家族の吐息が全くない寒々しい部屋で、ひとり机に向かって最後の言葉を綴っていたことを後で知って、身も心も引き裂かれるほどでした。その遺言は処刑の翌日に公開されました。

家族そろって楽しく過ごすクリスマスの日、
夫はひとり机に向かい、遺言を書いていたのです。
鉄格子に囲まれた厚い壁の中で、冬の厳しい寒さをこらえながら・・・

本来ならば家族そろってお祝いするクリスマスの日に書いた夫の遺言は、長いものでした。すてに心の準備をしていたようで、数日前に役人に紙とペンを要求していたとクレリー侍従は後に語っています。遺言は敬虔なカトリック信者の言葉で始まります。

 

   三位一体、父と子と聖霊のみ名によって。本日、1792年12月25日 

 

   フランス国王ルイ16世である余は、

   かつて臣下であった者たちによって、

   家族ともどもパリのタンプル塔に4か月以上前から幽閉され、

   11日からは家族との連絡さえも禁止されている。

   その上、

   人民の熱情によるものであるがために、

   解決策を予想することが不可能な裁判にかけられている。

   現存するいかなる法に、口実も手段も見出すことができないのである。

   余の見解の証人は神のみであり、

   余が訴えられるのは神のみであるがために、

   余はここに、神の立ち合いのもとに遺言と思いを表明する。


 

今までに犯した罪と自分の欠点を、神に許しを請う文がその後続き、敵となった人々を心から許すことまで神に願い、妻、子供たち、妹、叔母たち、弟たちの加護を神に求めたのです。

 

   神よ、

   長い間、余と共に苦しんだ妻、子供たち、妹に特別な慈悲の目を向け、

   余を失うことがあったら、

   この、はかない世にいる間ずっと支えてくださるように。

 

幼い息子にも父親として、国王としての言葉を残しました。

 

   不幸にも国王になったなら、国民たちの幸福のために、

   自分の全てを捧げる義務があることを思うべし。

   特に、余の不幸と悲しみに関するすべての憎しみ、

   すべての恨みを忘れなくてはならぬ。

   国民の幸せは、

   法に従って統治することのみによってなされるのである。

 

それだけでなく、自分を捕らえ、ひどい扱いをした人々を許すとくり返し、自分に対して主張されている罪を、自ら咎むべきところがないことを神の御前に誓い、神の前に現れる準備ができているという言葉で遺言を終えています。

夫が残した遺言

この遺言書を書いた翌日12月26日、夫は国民公会議場に出頭しました。夫の傍らには3人の弁護士がいました。その中の一番若いド・セーズが夫の弁論をしました。


・・・フランス人民によって裁判にかけられているルイが、

   自らの立場を説明する時が来たのです。

   あなた方はルイの運命に関する判決を下し、

   あなた方の見解はヨーロッパ中に広がるのです。

   ルイには法もなけれが形式もない。

   過去に存在していた条件も、

   現在の条件も受けることもできないのである。

   何と奇妙で不可解な運命だ。 

 

   革命は推し進められた。

   しかし、人道的な精神を弱まらせてはいないはずである。

   ルイは20歳で国王になった。

   それ以来、常に人民に近い人であった。

   倹約家であり、正義、道徳の人であった。

   人々が苛酷な税や束縛からの解放を望むとそれを実行し、

   刑法の改革も実現し、自由を求めると、それを与えたのである。


   歴史が、あなた方の判定に判断を下すであろう。

   しかも、数世紀にも及ぶ判断を。それを考慮するように・・・


ドゥ・セーズはまた、1791年の憲法制定以前は、夫は国王で不可侵性の立場にあった。従ってそれに関する告発は無効であり、それ以降の諸々に関しては、大臣たちに法的責任があるとも訴えました。

12月26日に発言する夫


弁護士に続いて夫に発言の権利が与えられましたが、自分の弁護の言葉はすべて述べられ、それに加えることは何もないと答え、その後短い言葉を発したのです。

「おそらく、これがあなた方に語る最後になると思うが、余は罪悪感を感じることはまったくなく、また、弁護士たちは真実のみを語ったことをここに宣言する」

その後、タンプル塔に戻った夫ですが、あいかわらず私たちと会うことも許されず、祈りの日々を過ごし、判決が下される日を待っていたのです。家族が再会できたのは翌年1月でした。

2025年11月7日

ルーヴル美術館 回収された王冠のお話

10月19日にアポロンのギャラリーから盗難されたフランス王家の宝飾品は、今でも連日ニュースで報道。用心のために、アポロンのギャラリーの数点の宝飾品をフランス銀行に移したそう。貴重な歴史を刻んだ品がいくつもあるから、賢明な判断だと評価されている。

盗難された8点の宝飾品の行方はいまだに不明。けれども、ナポレオン3世のお妃ウジェニー皇后の冠は、逃げる途中で落としたのか、破損しているものの、近くで見つかっている。修復は非常に困難だが、不可能ではないとルーヴル美術館館長が発表。この冠だけが盗まれた宝飾品の中で、唯一、回収され貴重な王家の宝物。

ナポレオン3世のお妃の王冠。1855年作。
ダイヤモンド1354個、エメラルド56個。
8羽のゴールドの鷲と8 つの植物模様が交互に連なるアーチの上に、
エメラルドとダイヤモンドの円形のドーム、
その上にダイヤモンドの十字架がある個性的な王冠。
   photo David Liuzzo


君主の偉大さを国民に見せるために王冠を考え出したのは、16世紀のフランソワ一世。それ以降、その伝統がずっと守られ、第二帝政のナポレオン3世もお妃も王冠を持っていた。ところが1870年、プロセインとの間に普仏戦争が始まり、貴重な宝飾品はまとめてフランス最大の軍港ブレストに運ばれ、その後は財務省の地下で保管するようになる。その後多くの王家の宝飾品はオークションで世界に散らばったが、皇后の王冠はそれを逃れたのだった。今回の盗難でも、奇跡的に取り戻せたのだから、運が強い王冠と言える。

1920年の皇后亡き後、彼女が名付け親になったマリー・クロチルド・ボナパルト王女に贈られるが、1988年に競売にかけられ、落札した人がルーヴル美術館に寄贈し、アポロンのギャラリーに展示されていたのだった。このように、ひとつひとつのジュエリーに貴重な物語がある。
ウジェニー皇后の右手の下にこの王冠が見える。
直系16,5cm  高さ13cm  幅15cm
皇后がつけてるティアラは今回盗難され、
いまでも行方がわからない。

2025年11月4日

マリー・アントワネット自叙伝 59

 夫の尋問が始まりました

ルイ・カペーと呼ばれるようになった夫が、尋問のために国民公会の議場に出頭した最初の日は1792年12月11日でした。 

カペーという苗字はカペー王朝を築いたユーグ・カペーから選んだのです。ユーグ・カペーは10世紀のフランス国王で勢力をのばしましたが、直系が絶えたために、カペー家分家のヴァロア家が跡を継ぎました。その直径も絶えると、今度は、同じカペー家一族のブルボン家に引き継がれたのです。私たちはそのブルボン家です。ヴァロアもブルボンもカペーの分家なので、夫はその本家の名で呼ばれることになったのです。

カペー王朝を築いた
ユーグ・カペ―(940-996)

その日の朝、太鼓が鳴り響き、塔の周りに大砲を取り付けてあるのが見えました。正午ちょっと前に夫の部屋に役人が2人入り、息子とゲームを楽しんでいた夫に向かって冷たく言ったのです。

「今後、カペーの息子は、母親と暮らすことになった」

驚いた夫が言葉を発する間もなく、2人の役人はルイ・シャルルを夫から引き離し、部屋の外へと連れて出したのでした。


最愛の息子を取り上げられた衝撃で、しばらくの間、意気消沈して座り込んでいた夫のもとに、今度はパリ市長、検事、役人が大きな足音を響かせながら入り、尋問のために議会に向かうと告げたのです。


尋問を受けるために議会へ向かう夫。

息子を取り上げられてから議会に向かうまでの間、たとえわずかな時間であっても、息子をこの胸に抱いていたかったと、夫は涙を浮かべながら不満を訴えたそうです。ところが、例え王であろうとも、一般国民と同じように子供への愛を持っていることも理解されないまま、議会に連れて行かれ、議長ベルトラン・バレールから数多くの尋問を受けたのでした。


国民公会議長の
ベルトラン・バレール。

そのひとつひとつに、誤解を招かないようにこたえるのは並大抵なことではありません。雄弁からほど遠く、説得力に欠け、自分を守るすべを知らないあまりにも純粋な夫は、四面楚歌をどのように耐えていたのか。その時は、夫を援護する弁護士もいなかったのです。


国民公会議長バレールは、当時37歳で飛びぬけて雄弁だったそうです。書記が33もの起訴状を読み上げた後、1歳年長の夫を目の前にしながら、バレールは短い言葉を発しました。

「ルイ・カペー。国民公会はあなたを裁判にかけることを決定したのである」

議長の乾いた冷たい言葉が終り、それまで立たされていた夫が椅子に腰かけ、尋問が始まりました。

 

尋問を受ける夫

「1789年6月に、誕生したばかりの憲法制定国民議会の解散を試みたか」

「数人の議員の買収を試みたか。特にミラボーを」

「1789年6月20日にヴァレンヌに逃亡したか」

「チュイルリー宮殿防御の衛兵の強化を図ったか」

「1791年7月17日に、王政廃止を求めてシャン・ド・マルスに集合した民衆虐殺を命じたか」

「ヨーロッパ強国の軍事援助を得て、絶対君主制復活を準備したか」

「コブレンツに駐屯する亡命貴族軍と連絡を取っていたか。援助資金の調達をしたか」

「パリ市内の反革命派の便宜のために二重スパイを雇っていたか」

   ・・・・・・・・                   

       ・・・・・・・・

 

小心な夫は矢継ぎ早の尋問に丁寧にこたえていたそうですが、説得力には欠けていたのです。弁護士を付けて欲しいという夫の唯一の願いは受け入れられ、後日の尋問のために3人の有能な弁護士が選ばれました。ドゥ・セーズ、マルゼルブ、トロンシェでした。

ドゥ・セーズ  1748年ボルドー生まれ

マルゼルブ 1721年パリ生まれ
トロンシェ 1726年パリ生まれ


尋問が始まった12月11日から夫は家族と離ればなれで、侍従クレリーとふたりで暮らすことになりました。私たちは同じ塔にいながら会うことが許されなかったのです。クレリーは私たちに近づいてはならないと命令されていたので、夫の消息を知ることはできませんでした。新聞売りがときどき大きな声でその日の出来事を告げていたので、それで塔の外の様子をわずかに知ることができただけでした。

孤独な日々をひたすら耐えていた夫。

12月19日は娘のお誕生日でした。その日でさえも、夫は娘に会えなかったのです。夫は大きな瞳に涙を浮かべながら、役人たちがいる前でクレリ―に「今日は娘の誕生日だ。それなのに、会うことも許されない・・・」と細い声で言ったそうです。役人たちは、すべての父親も抱く子供への愛に心を打たれたでしょうが、誰もが黙っていました。夫への同情が恐ろしい結果を招くことを恐れ、お互いに警戒していたからでしょう。残虐極まりないことです。

娘のマリー・テレーズ・シャルロット
私たちの最初の子供でした。