チュイルリー宮殿に姿を現したフェルセンさま
亡命貴族たちの指揮をとっていたのは、義理の弟プロヴァンス伯とアルトワ伯です。2人とも無事に国外逃亡に成功し、ドイツのコブレンツで大勢の支持者に囲まれながら、結構裕福な生活をしていたのです。フェルセンさまはそれもお手紙で知らせてくださいました。嫉妬深く自分勝手で野心の固まりの2人は、革命を自分たちの手で押しつぶすなどと豪語していたのですが、それも兄を救うためというより、自分たちが兄の後、国王になりたいからなのです。そんなことは私には見え見えでした。
義理の弟たちや、その他の亡命貴族たちが結束すればするほど、国内の共和制支持者も過激になっていきました。そうした中で怯えながら暮らしている私たちを、これ以上そのままにしておくわけにはいかないと思ったフェルセンさまは、パリにくる決意を固めます。国中があの方を逮捕しようとやっきになっているというのに、それはまさに自殺行為です。私はもちろん大反対、とお手紙を書きました。それにもかかわらず、あの方はチュイルリー宮殿に姿を見せたのです。1792年2月13日でした。
![]() |
チュイルリー宮殿は左右対称の美しい城館。 庭園は一般に公開されていました。 右端が私が暮らしていたフロール館。 その左の館の2階に夫、娘、息子の部屋がありました。 |
![]() |
橋の向こうの背が高い建物がフロール館。 この1階に私の寝室、化粧室などがありました。 |
![]() |
横に細長いチュイルリー宮殿の中央の、 ドームがあるこの建物が宮殿の入り口で、 そこを入った右と左にたくさんの部屋があります。 もちろん、大勢の兵が見張っています。 |
フェルセンさまが無事に宮殿まで来られたのは奇跡でした。道中、見破られないために鬘を被り、変装したばかりでなく、スウェーデン国王からポルトガル女王に宛てた偽の手紙をご自分で準備し、スウェーデン国王のサインも偽造したのです。偽名のパスポートと、ポルトガル女王への特使であることを証明する手紙。そのすべてにスウェーデン王家の紋章を入れたのです。もちろん何もかもあの方がご自分で作ったものです。こうした緻密な準備のおかげでしょう、どこでも誰にも怪しまれることもなかったそうです。パリに到着する前日のフェルセンさまの日記には、
いたる所で人々は丁寧だった。特にペロンヌでは、国民衛兵でさえも
と書かれています。几帳面なあの方は毎日詳しい事柄を日記に記していらしたのです。たった1行しか書かない夫と、何て大違いなのでしょう。
パリに到着したのは夕方5時半
リシュリュー通りのホテルで私の随行人をおろし、
プルティエ通りのゴグラ家に辻馬車で向かう。
場所を御者がしらないので、別の辻馬車に乗る。
ゴグラが留守なので、6時30分まで路上で待つ。
彼が戻ってきたのは7時。
私の手紙が当日お昼頃に届いたので、
もっと早く読むことができなかったのだ・・・
このように、詳細に渡って日々の出来事を綴っていらしたのです。パリに到着した2月13日に王妃の所に行った、ともはっきり書かれています。
いつのも道を通って・・・
と日記にありますが、賢明なあの方はその「いつのも道」がどこであるかは 書かなかったのです。フェルセンさまがパリに再びいらしたときに会ったゴグラ男爵は、ヴァレンヌのソースの家で ブイエ将軍たちの到着を待っている間に、ショワズール公に続いて階段を駆けあがってきた副官です。
![]() |
フェルセンさまの日記。 すべてフランス語で書いていらっしゃいました。 |
貴族の家庭に生まれたフランソワ・ドゥ・ゴグラ男爵は軍人で、私のプライベート秘書になっていました。逃亡は失敗に終わりましたが、王家への忠誠は変わらず、後年に 亡命貴族たちが結成した軍にも加わり 共和国打倒につくします。チュイルリー宮殿で厳しい監視の中で暮らしている間に、何度も秘密の手紙を託し、外国に持参してもらったこともあります。彼はそれに値する、真面目で徹底的な王党派だったのです。
あの方が日記にお書きになったように、13日は私のお部屋にいらして時を過ごし、階上にいる夫にはお会いになりませんでした。その理由として「国民衛兵を恐れたために」と日記には書かれています。フェルセンさまと2人だけでいられたひとときは、何物にも変えられないほど貴重で、あふれるほどの幸せに満ちていました。あの方は、その宝物のような時に関して詳しいことは綴っていません。私も詳細は胸の中にそっと閉まっておくとことにします。
翌日、フェルセンさまは夫と会い、再度、逃亡の計画を立てていることを告げました。
![]() |
私たちのために、 命がけでつくしてくださったフェルセンさま。 軍服姿のあの方が最も魅力的でした。 |
フェルセンさまが夫に提案した新しい逃亡は、私たち家族が2台の馬車に別れて乗り、ノルマンディー地方に行く計画でした。けれども夫は首都を離れることに頭から反対しました。すでにパリでは、国王が再び逃亡を試みるにちがいないなどと、根も葉もない噂がたっていたので、それを何度も打ち消していたし、国民議会で公に告げたことさえあったのです。でも、夫はあの方に本心も語りました。
「我々だけだから言えることであるが、国民が余の気弱さや優柔不断さを非難していることは知っている。しかしながら、誰一人として余の立場に立ったものはおらぬ。好機を逃してしまったこともわかっている。それは7月14日であった。あのとき去るべきであった」
夫が後悔していることを初めて知って、驚いたし、感動もしました。夫が言うように、バスティーユが襲撃されたことを知ったとき、素早く決断し安全な場所に行き、騒ぎが収まったらヴェルサイユ宮殿に戻ればよかったのです。夫は続けました。
「しかしながら、弟プロヴァンス伯が行かないでほしいと懇願したし、ブログリ元帥にも、メッスに行くことは可能だが、しかしそこで何をしたいのかと言われたのだ」
ブログリ元帥はヴェルサイユ宮殿周辺を守る軍の指揮官でした。
16日には多くの貴族がフランスから外国に逃げて行きました。末弟アルトワ伯夫妻も、いとこで王家の次に高位のコンデ公一家も、ポリニャック侯爵夫妻もそうでした。同じ日に、ヴェルサイユ宮殿では大臣たちが集まり、国王がどうするべきか意見が飛び交っていました。その間に、私は主任侍女カンパン夫人に命じて宝飾品をまとめさせ、馬車にいつでも積めるようにしました。亡命先での生活を考えてのことです。こういう場合には宝飾品が役立つのです。かさばらないし、価値があるので、いざというときに高額で売ることができるのです。
国民に嫌われていたことを十分知っていた私は、すぐに宮殿から逃れたいと、そればかり願っていました。ところが結局、国王はこのまま残るべきであると決断したのです。夫はそのときのことを後悔していたのです。
「余は好機を失ってしまい、その後、機会は二度と訪れることはなかった。余はすべての人々から見放されたのだ」
でも味方の方がいるではないですか、私たちの目の前に、とフェルセンさまのことを言いたかったのですが、差し控えました。夫は本当に小心で正直な人だったのです。フェルセンさまもその時感じたことを日記に書いています。
実際、国王は何度も残ると国民に約束したので、
心をいためていたのだ。
大変誠実な人であるから・・・
![]() |
夫はほんとうに誠実な人でした。 他の人を傷つけるより、 自分が犠牲になることを望んでいる温厚な性格だったのです。 |
夫が二度と国民を裏切るようなことをしたくないと知ったフェルセンさまは、ベルギーへと戻って行きました。きっと他の方法で、私たちを救出しようとのお考えがあったのしょう。私はもちろん心の中で泣きましたが、まさかそれがあの方との永遠の別れになるなどと思ってもいませんでした。けれどもその後、思いも寄らない不幸が続いたのです。