ルイ・カペーを裁判にかけるべきかどうか
国民公会では、ジロンド派とジャコバン派の勢力争いが、日を追って激しくなっていたようです。私たちは、もちろん、穏健なジロンド派が過激なジャコバン派をおさえることを、心底から願っていたのですが、実際にはジャコバン派が優位に立っていたのです。ブルジョアジー出身が多いジロンド派よりも、庶民出の議員が多いジャコバン派の方が、雄弁で説得力があったのです。
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ジャコバン派の集会場は パリのジャコバン修道院にありました。 |
夫の運命を決める裁判を行うことに、ジロンド派は消極的だったのですが、一般市民になったルイ・カペーは、平民と同じように裁かれなけれならないと、ジャコバン派は強く主張していました。
中でも、25歳の最年少の議員サン=ジュストは、ロマンティックな美しい容姿とは裏腹に、冷酷な意見を国民公会で述べ、議員たちの決断に大きな影響を与えたのです。後年に「革命の大天使」と呼ばれるサン=ジュストは、11月13日の演説で、革命は君主制という過去ときっぱり決別しなければ確立しないと主張。国王として君臨すること自体が大きな罪であり、そうした人物には裁判すら必要ない、直ちに処刑し、その存在を消さねばならないと熱弁をふるったのです。
特に有名なのは彼が発した「人は罪なくして王たりえない」という表現です。つまり、国王の存在自体が罪であり、王は例え何の犯罪をおかさなくても、王であることが悪だというのです。だから裁判にかける必要すらないという発言は、議員たちにとって衝撃で、誰もこの言葉の暴力に逆らうこともなかったのです。夫は裁判にかけられる前に、すでに判決を下されていたと同じです。
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ルイ・アントワーヌ・レオン・ドゥ・サン=ジュスト |
結局「フランスに対する陰謀及び人類に対する犯罪を犯した」というわかりにくい理由で、裁判が行われることが決定し、夫に関する証拠品が、調査委員たちによって徹底的に集められるようになったのです。
次々と見つけた中でもっとも不利だったのは、チュイルリー宮殿内の「鉄の戸棚」に隠していた多くの秘密書類でした。
「鉄の戸棚」は夫の居室と息子の部屋の間の通路の壁の中に、極秘のうちに造らせた戸棚で、ごくわずかな人しか知りませんでした。その存在を内務大臣ロランに密告したのは、それを造ったフランソワ・ギャマン本人だったのです。
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チュイルリー宮殿内に造らせた「鉄の戸棚」 ここには数多くの重要な機密書類が隠されていました。 |
ヴェルサイユ宮殿時代からギャマンは錠前造りの達人で、宮殿のすべての錠前を担当し夫の信頼を受けていました。
日記を毎日書いていた几帳面な夫は、外国も含め、多くの人とやり取りしていた手紙をすべて大切に保管していました。ヴァレンヌ逃亡失敗の後、刻々と迫る危険から、外国との密通の手紙や書類を隠す必要を感じ、心から信用していたギャマンに「鉄の戸棚」を造るよう依頼したのです。
機械に格別な興味を抱いていた夫は、ヴェルサイユ宮殿の最上階に自分のアトリエを持っていて、考案したり実験したりしていました。そのアトリエにギャマンを招き、数時間一緒に閉じこもり、意見を聞いたり試作していたほど身近な存在の人だったのです。それなのに、一般市民になった夫に、もう用はないとばかりに、政府に密告し、地位と報酬を要求したのです。
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夫はヴェルサイユ宮殿の最上階にアトリエを持っていて、 そこで錠前を造ったり、その他、さまざまな実験をしていました。 そこには限られた人しか入れなかったのですが、 信用していたギャマンを数回招き、意見の交換などもしていたのです。 |
「鉄の戸棚」の中は細かく分かれていて、書類や手紙はそれぞれ引き出しの中に整理されていました。壁の一部を掘ってその中に戸棚をはめ込み、鉄の扉でしっかり閉じられていてために「鉄の戸棚」と呼ばれるのです。
そのドアを開けるためにはいくつもの鍵が必要なほど厳重でした。ギャマンから「鉄の戸棚」の存在と、その中に隠されている多くの機密書類を知らされていた内務大臣ロランは、それを共和制が生まれて間もない1792年11月20日に公にしました。
![]() 内務大臣 |
ジャン=マリー・ロラン・ドゥ・ラ・プラティエール |
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「ジロンド派の女王」 ロラン夫人 |
652 もの機密書類があったことを知った国民は、かつての国王に裏切られていたことに激怒し、革命家たちはこれでルイ・カペーを極刑に追いやれると狂喜したのです。どんなに優秀な弁護士がいようとも、夫が裁判に勝てる希望は始まる前から薄かったのです。動かせない証拠がびっしり詰まっている「鉄の戸棚」が見つかったのは致命的でした。