2025年10月12日

マリー・アントワネット自叙伝 58

ルイ・カペーを裁判にかけるべきかどうか

国民公会では、ジロンド派とジャコバン派の勢力争いが、日を追って激しくなっていたようです。私たちは、もちろん、穏健なジロンド派が過激なジャコバン派をおさえることを、心底から願っていたのですが、実際にはジャコバン派が優位に立っていたのです。ブルジョアジー出身が多いジロンド派よりも、庶民出の議員が多いジャバン派の方が、雄弁で説得力があったのです。

ジャコバン派の集会場は
パリのジャコバン修道院にありました。


夫の運命を決める裁判を行うことに、ジロンド派は消極的だったのですが、一般市民になったルイ・カペーは、平民と同じように裁かれなけれならないと、ジャコバン派は強く主張していました。


中でも、25歳の最年少の議員サン=ジュストは、ロマンティックな美しい容姿とは裏腹に、冷酷な意見を国民公会で述べ、議員たちの決断に大きな影響を与えたのです。後年に「革命の大天使」と呼ばれるサン=ジュストは、11月13日の演説で、革命は君主制という過去ときっぱり決別しなければ確立しないと主張。国王として君臨すること自体が大きな罪であり、そうした人物には裁判すら必要ない、直ちに処刑し、その存在を消さねばならないと熱弁をふるったのです。


特に有名なのは彼が発した「人は罪なくして王たりえない」という表現です。つまり、国王の存在自体が罪であり、王は例え何の犯罪をおかさなくても、王であることが悪だというのです。だから裁判にかける必要すらないという発言は、議員たちにとって衝撃で、誰もこの言葉の暴力に逆らうこともなかったのです。夫は裁判にかけられる前に、すでに判決を下されていたと同じです。

ルイ・アントワーヌ・レオン・ドゥ・サン=ジュスト

結局「フランスに対する陰謀及び人類に対する犯罪を犯した」というわかりにくい理由で、裁判が行われることが決定し、夫に関する証拠品が、調査委員たちによって徹底的に集められるようになったのです。


次々と見つけた中でもっとも不利だったのは、チュイルリー宮殿内の「鉄の戸棚」に隠していた多くの秘密書類でした。

「鉄の戸棚」は夫の居室と息子の部屋の間の通路の壁の中に、極秘のうちに造らせた戸棚で、ごくわずかな人しか知りませんでした。その存在を内務大臣ロランに密告したのは、それを造ったフランソワ・ギャマン本人だったのです。


チュイルリー宮殿内に造らせた「鉄の戸棚」
ここには数多くの重要な機密書類が隠されていました。

ヴェルサイユ宮殿時代からギャマンは錠前造りの達人で、宮殿のすべての錠前を担当し夫の信頼を受けていました。

日記を毎日書いていた几帳面な夫は、外国も含め、多くの人とやり取りしていた手紙をすべて大切に保管していました。ヴァレンヌ逃亡失敗の後、刻々と迫る危険から、外国との密通の手紙や書類を隠す必要を感じ、心から信用していたギャマンに「鉄の戸棚」を造るよう依頼したのです。

機械に格別な興味を抱いていた夫は、ヴェルサイユ宮殿の最上階に自分のアトリエを持っていて、考案したり実験したりしていました。そのアトリエにギャマンを招き、数時間一緒に閉じこもり、意見を聞いたり試作していたほど身近な存在の人だったのです。それなのに、一般市民になった夫に、もう用はないとばかりに、政府に密告し、地位と報酬を要求したのです。

夫はヴェルサイユ宮殿の最上階にアトリエを持っていて、
そこで錠前を造ったり、その他、さまざまな実験をしていました。
そこには限られた人しか入れなかったのですが、
信用していたギャマンを数回招き、意見の交換などもしていたのです。

「鉄の戸棚」の中は細かく分かれていて、書類や手紙はそれぞれ引き出しの中に整理されていました。壁の一部を掘ってその中に戸棚をはめ込み、鉄の扉でしっかり閉じられていてために「鉄の戸棚」と呼ばれるのです。

そのドアを開けるためにはいくつもの鍵が必要なほど厳重でした。ギャマンから「鉄の戸棚」の存在と、その中に隠されている多くの機密書類を知らされていた内務大臣ロランは、それを共和制が生まれて間もない1792年11月20日に公にしました。ロランはどちらかというと真面目な性格で、利発で雄弁なロラン夫人の方が実行力があり、彼女の内助の功のお蔭で内務大臣になったのです。実際、ロラン夫人は「ジロンド派の女王」と呼ばれていたのです。


内務大臣
ジャン=マリー・ロラン・ドゥ・ラ・プラティエール

「ジロンド派の女王」
ロラン夫人


652 もの機密書類があったことを知った国民は、かつての国王に裏切られていたことに激怒し、革命家たちはこれでルイ・カペーを極刑に追いやれると狂喜したのです。どんなに優秀な弁護士がいようとも、夫が裁判に勝てる希望は始まる前から薄かったのです。動かせない証拠がびっしり詰まっている「鉄の戸棚」が見つかったのは致命的でした。

2025年10月5日

ハンカチはすべて正方形に、ルイ16世の法令じゃ

エジプトの時代から存在していたハンカチは、高貴な人々のみが使用していた贅沢品だった。フランスの王侯貴族が愛用するようになったのは、17世紀、ルイ14世の時代。レース飾りや金糸銀糸の刺繍入りだけでなく、パールを付けたのさえあった。布に関してはシルクや麻で、実用的というより身だしなみのためであり、人目をひくためだった。形もまちまちで、長方形があるかと思うと、円形や驚くことに三角形さえもあった。

ハンカチと言えば、ルイ15世に近づくために、夜会でわざとハンカチを落とし、国王の気を引くことに成功し、ついには公式愛妾になったポンパドゥール夫人を思い出す。

18世紀には、
レースのハンカチが好まれていた。

19世紀になると、
貴婦人のおしゃれの仕上げに、
ハンカチは欠かせなくなった。

特別な感性の持ち主だったマリー・アントワネットは、当時のハンカチの形がエレガントでなく、自分の好みに合わないと嫌っていた。彼女が気に入っていたのは正方形のハンカチで、これはルイ14世の時世に見られたとされている。

内気で真面目なルイ16世

華やかなオーラを放つ
マリー・アントワネット

妃のためなら何でもするルイ16世は、法令を発布する。1784年9月23日、ヴェルサイユ宮殿で王の開封特許状が提出され、1784年12月10日、高等法院で登録された。

ルイ16世が
ヴェルサイユ宮殿で提出した開封特許状

フランスのハンカチはすべて正方形に統一する。縦と横の長さを同じに製作し、違反した場合した場合には300リーヴルの罰金及び没収に処すという厳しい内容だった。

1793年1月21日、ルイ16世がコンコルド広場で処刑される歳に、死刑執行人サンソンが国王の両手を背中で縛ったのは、国王が持っていたハンカチだった。他の処刑者は縄だったが、ルイ16世だけがハンカチだった。

正方形のハンカチは、その後、世界中に広まったのだから、やはりマリー・アントワネットは唯一無二の女性と言える。

19世紀初期の優雅なモチーフ

19世紀半ばのハンカチ

19世紀半ばのフェミニンで
きめ細やかななモチーフ

19世紀末の絵画のようなデザイン

2025年10月1日

ノートル・ダム大聖堂 心打つほど気高く美しい

 パリ発祥地に建築されたノートル・ダム大聖堂が2019年4月火災に見舞われ、世界中の人々を驚愕させて5年後、驚異的な短期間の復興作業のおかげで、再び壮麗な姿を見せたのは昨年末だった。主要国の元首、皇族、多額の寄付をした企業主などが列席する中、盛大なセレモニーが行われ、誰もがフランス人のノートル・ダム大聖堂に対する深い愛を認識した。

パリ発祥地のシテ島に、
ノートル・ダム大聖堂の建築が開始されたのは1163年。
フランスで生まれたゴシック様式の傑作。

建築当時とまったく同じ素材、まったく同じテクニックで復興することに徹底的にこだわったフランス人。そこには、数世紀に及ぶこの大聖堂の建築に携わった人々、そこで繰り広げられた数々の行事、祈りをささげた先祖たちへの、計り知れないほどの敬う心が潜んでいたのだと思う。

5年間、いかに危険が伴おうとも、いかに困難であろうとも、屈しることなく黙々と作業を続けていた人への賞賛の眼差しと拍手は、美しく蘇ったノートル・ダム大聖堂で、長い間続いていた。テレビでセレモニー中継を見ていた私は、作業服に包まれた彼らを、このセレモニーに出席させた心遣いにとても感動した。無名のままで、大聖堂の再建にかかわれたことに、誇り、喜び、生き甲斐を感じていた彼は、輝いていた。彼らは、英雄だった。

蘇ったノートル・ダム大聖堂をいつ訪問しようかと長い間迷った末、自分のバースデイの日にと決めました。私にとって、それは、意義あることに思えたから。火災が起きた翌日朝早く、大聖堂に急いで行き、多くの消防隊の緊張した面持ちの消化活動や、焼け焦げた大聖堂の無残な姿を目前にし、周辺に漂う異様な煙の匂いを感じ、大きな不安を抱いた、あの日。その後も何度か修復工事の進み具合を見て来たし、少額ながら寄付金を文化省に直ぐに送ったし、丁寧なことに礼状を受け取ったし、火災の難を奇跡的に逃れた聖母マリア像や風見鶏が展示されたのを見に行ったし・・・いろいろな忘れられない思い出がある、聖母マリアに捧げるノートル・ダム大聖堂。その蘇った姿を訪れるのは、私にとって記念すべき日であった欲しかったのです。

清らかさが満ち溢れている純白のノートル・ダム大聖堂。
身廊の高さ32,5mの天井、ゴシック建築の特徴の尖塔アーチ、優美で奥深さのある円柱。
心洗われる美しさは、無原罪の聖母マリアに捧げるのにふさわしい。

大聖堂内に入ると、目の前にブロンズの大きな聖水盤が見える。
火災後設けた新時代を感じさせる聖水盤。
ピュアなラインで同時に重厚、生命の強さが伝わってくる。

奇跡的に無傷だったパイプオルガン。1730-1733年製作。
8000本のパイプを一本一本はずし、埃を払い、磨き、調律し、
復興のセレモニーのさいに、感動的な音色を大聖堂に響かせた。
直系13mのバラ窓。煙に包まれたとはいえ、
美しいステンドグラスは無事だった。
幾世紀にも及ぶ汚れをおとしたためか、火災前より透明感がある。

ゴシック様式の大きな特徴のリブヴォルト(穹窿)が、
天井を支えながら、大きな空間を生むことを可能にしている。
その整然とした連なりが、随所に見える。

聖歌隊席。
突き当りにピエタ像と十字架。
どちらも火災に屈しなかったのは、
やはり奇跡だと思わないではいられない。
1723年の大理石のピエタ像。
息だえた息子キリストを膝に抱き、
嘆き悲しむ聖母マリアを二人の天使が見守っている。

右の像はひざまずくルイ13世で、
フランスを聖母マリアに捧げると約束。
左でひざまずくのはルイ13世の意志を引き継いだルイ14世。

聖歌隊席の右側の柱の前に立つ14世紀の聖母子像。
これも火災の難を逃れたのは幸いだった。
聖母マリアの純潔のシンボル、白いユリの花が
常に捧げられている。

聖歌隊席の壁の外側には
キリストの生涯の主だった出来事を表す、
カラフルなレリーフが施されている。
右寄りに最後の晩餐と弟子の足を洗うキリストの姿が見える。

復興の際に新たに加えられた聖遺物箱。
歴代の国王の中で、もっとも信仰心があついルイ9世(聖ルイ王)が、
1239年に財政困難に陥っていた、
ビザンツ帝国のボードワン2世から買い取った茨の冠、
その他、十字架の木片、キリスト受難の釘が収められている。

高さ3,6m、幅9,6mの杉で作られた聖遺物箱。
杉はキリストの十字架を表している。
聖遺物箱には360の茨のとげで覆われた透かし模様の切込みがある。
その中央に396個の金色を背景としたガラスのカボションが並ぶ光輪。
そのひとつひとつに十字架が描かれており、
眩しいほどの後光をさしている。

重要な記念すべき日には茨の冠が中央の小さい円の中に置かれ、
それ以外は、手前の棺の形のカラーラ産大理石の金庫に保管されている。
その中央には十字架が刻まれている。


再現された椅子。
ひとり用椅子1500、膝付き台170、ベンチ40。
すべてオーク材で手作り。
体が疲れないように、座る部分の後ろがわずかに下がっている。
明るい色合いが純白の壁と爽やかなハモニーを奏でている。

どの角度から見ても気高く、美しい。
地上に生きるすべての人の祈りが
神に届くように感じられる。

蘇ったノートル・ダム大聖堂を訪れ、
経験したことがないほどの高揚感を味わい、
幸せいっぱいでした。

2025年9月21日

マリー・アントワネット自叙伝 57

 タンプル塔で本格的な生活がはじまりました

タンプル塔の1階には、4人の役人用のベッド、事務机、タンスなどがあり、役人は国民衛兵とそこで食事もとっていました。2階には40人ほどの衛兵が詰めていて、野戦用のベッドが置かれていたようです。3階は夫と息子用で、4階には女性たち、つまり私、娘、夫の妹エリザベート王女さまのお部屋がありました。

②夫と息子の部屋 ③侍従クレリ―の部屋 ④ダイニングルーム
⑨私と娘の部屋 ⑪夫の妹の部屋 ⑬世話係ティソン夫妻の部屋

塔での生活は毎日同じことの繰り返しでした。どの家庭でも同じでしょうが、家族そろってお食事をし、子供たちに勉強を教え、時にはゲームをしたり、お散歩したり、と。私は義理の妹エリザベート王女さまと刺繍をしたり、楽器を奏でたりすることもありました。嬉しいことに、私が大好きなクラヴサンを塔の中に入れてくれたのです。子供の頃からお風呂好きの私のために、バスタブもありました。


夕食は毎回、家族そろっていただいていました。
とは言え、監視員がすぐ近くで見ているので、
たいした話も出来ず、静かなひとときでした。

時にはお散歩もしました。
子供たちにとっては、
それが一番たのしい時間だったようです。

タンプル塔に来た時にはとにかくすべてが急に決まったので、充分な服がなく、4枚のシュミーズと4枚のスカート、バスローブ、ロングコートくらいしかなったのです。それではあまりにも可愛そうだと思ったのか、洋服のオーダーは寛大でした。数人のデザイナーが服を仕立ててくれましたが、ヴェルサイユ宮殿で私の「モード大臣」だったローズ・ベルタンのが一番気にいっていました。彼女は私に似合う服を自分のアトリエで作って、タンプル塔まで納品してくれたのです。


王妃お抱えのデザイナーだった彼女は、当然、革命家たちから捕らえられる運命にあったのでしょう。でも、アトリエの人は、皆、生活のために働かざるを得ない一般国民なので、ベルタンを捕えたらそうした人が仕事を失うことになるので、控えたようです。

私だけでなくエリザベート王女さまにも寛大で、私と同じ服を何度もオーダーしていました。彼女はヴェルサイユ宮殿にいたときから、いつも私と同じドレスを注文していました。きっと好みが同じだったのでしょう。タンプル塔で夫や娘、息子の身に付ける品も注文していたので、出費は多かったと思います。


このように、最初の間は寛大だったのです。もしかしたら、国王一家ではなくなったけれど、そうせざるを得ないような雰囲気が、私たちにあったのかも知れません。

真面目な夫は、将来国王になるかもしれない息子に、熱心に勉強を教えていました。フランス語の読み書きはもちろん、ラテン語、数学、歴史、地理など、いろいろな科目を教えていて、夫が博学な人であることに改めて関心しました。私は主に躾に気を配りました。侍従だけでなく、コミューンの役人たちにも、きちんと挨拶するよう注意していました。

真面目な夫は息子にさまざまな科目を教えていました。
彼がこれほど博学だったのかと、私は驚くと同時に、尊敬しました。
国王になるより、
学者として研究に生涯を捧げるほうが合っていたような人だったのです。

ほとんどの家具は小塔に暮らしていた古書保管バルテルミー所有のもので、かなり上等なものばかりでした。夫のベッドは四本の柱が付いたグリーンのダマスのカバーがあるシックなもので、安楽椅子、ソファも同じグリーンのダマス張り。大理石をあしらったタンスがあったし、置時計も立派なものでした。私たちの椅子もソファも同様にグリーンのダマス張りで、クッションが厚く座り心地がいいものでした。

監視人が常にいたとはいえ、家族そろってのお食事は心和むひとときでした。ベテランの料理人が担当していたので、お料理も美味しく、宮殿時代と大きな変わりはありませんでした。


お食事に関しては特別に気をつかってくれて、チュイルリー宮殿での料理人が、タンプル塔でも担当するよう計らってくれたので、私たちの好みに合ったお料理ばかりでした。

複数のスープ、複数の肉料理、お野菜もフルーツも豊富でした。ワインを飲まない私のために、ヴェルサイユ宮殿近郊のヴィル・ダヴレーのお水をわざわざ運んでくれました。その地のお水のクオリティーは一番いいとされていて、フランスに嫁いでから私はヴィル・ダヴレーのお水しか口にしませんでした。


タンプル塔での生活は監視が厳しく不自由で、それが大きな不満でしたが、家族そろっての日々は大した変化もなく落ち着いたものでした。

けれども日が経つに連れて、世の中が変わっていく様子は、私たちにも伝わっていました。侍従クレリーの妻がときどき塔を訪れ秘かにクレリーに語っていたのです。クレリ―夫人のマリー・エリザベスは私に音楽の手ほどきをしていた音楽家で、私たちがタンプル塔に暮らし、ご主人も侍従として同じ塔に暮らすことになると、すぐ近くに部屋を借り、私たちを慰めるために、きれいな曲を奏でて下さったのです。でも、それも禁止されてしまい、寂しい思いをしました。


夫の唯一の侍従クレリ―。
彼はルイ・シャルルが生まれたときには、その侍従となり、
チュイルリー宮殿に暮らすようになったときから、
夫の侍従になり、タンプル塔には自らすすんで侍従を続けたいと
パリ市長に頼んだのでした。

何よりも驚いたのは、ヴァレンヌ逃亡を失敗に追いやったサント・ムヌー駅長ジャン=バティスト・ドルーエが、1792年9月に国民公会の議員になったことです。ドルーエはもっとも急進的で危険とされていたジャコバン派に属していました。過激なダントンやロべスピエール、マラーと同じ派です。

このジャコバン派と穏健なジロンド派が、勢力を争っていたのです。私たちの運命はどちらの派が実権を握るかにかけられていました。詳しい事柄はわかりませんでしたが、役人たちの態度から、あまりいい方向に向かっていないことは察知していました。

2025年9月14日

ヴィクトル・ユゴーの遺書

フランス国民に圧倒的に愛された、ロマン主義を代表する詩人であり、小説家であり、劇作家であり、後年には政治家となったヴィクトル・ユゴーが世を去ったのは140年前。人生100年時代が語られる今日では、まるで、最近のことのように思える。

ヴィクトル・ユゴー
1802-1885

彼の代表作「レ・ミゼラブル」や「ノートルダム・ド・パリ」は何度も劇や映画、ミュージカルになり、どれも好評をはくし、今でも話題にのぼるほどの人気。特に、ミュージカル「ノートルダム・ド・パリ」は、あまりにも話題になるので、これは観なくてはと気づいた時には遅く、希望の日の席がとれず、パリで見逃したので、ロンドンに行って英語版を観ることに。

ヴィクトル・ユゴーは10代半ばからすでに詩人として才能を発揮し、それから間もなくして、詩だけでなく、劇、小説を立て続けに発表。後年には共和派として、民衆の味方となったユゴーは、ナポレオン3世の独裁政治を激しく非難し、亡命生活を送るはめに陥るが、ナポレオン3世失脚と共にフランスに戻り、凱旋将軍のように熱狂的に迎えられる。ベルギーやイギリス領の島などで、19年の長い間亡命生活を続けていたが、その間にも執筆活動は衰えることはなかった。後に、政治家として活躍するが、執筆の意欲もユゴーから去ることはなかった。

20歳のヴィクトル・ユゴー

文豪が波乱に富んだ生涯を閉じたのは、1885年5月22日で、83歳。広く国民に愛されていた人にふさわしく、国葬が執り行われ、パンテオンに手厚く埋葬される。ユゴーは綴っていた。「人生最大の幸福は、愛されているいう確信である」

ヴィクトル・ユゴーの国葬。
黒いヴェールに包まれた棺は一晩凱旋門の下に置かれ
翌、6月1日10時30分にセレモニー開始。
アンヴァリッドで21の大砲が空高く発射され、
19人の各代表の演説の後、霊柩車はシャンゼリゼ、コンコルド広場、
サン・ミッシェル大通りを通り、パンテオンへと向かう。

学校や劇場は閉まり、沿道には約300万人が集まり、
フランスが誇る文豪に最後の別れる告げていた。

シャンゼリゼを通りコンコルド広場に向かう
ユゴーの霊柩車。

その数年前、1881年8月31日、ユゴーは遺書を書いた。その後、1883年8月2日に、先に書いた遺書の貧しい人々への寄付金を、4万フランから5万フランとしている。このために寄付の金額がまちまちに報道されることがある。この貴重な遺書を保管している国立公文書館が、4カ月間展示を決定し、光栄なことにヴェルニサージュに招待された。文豪の肉筆の遺書を目前にし、そこに書かれている文に心が打たれ、ただ、ただ、見つめるのみ。

・・・・神。
    魂。
    責任。

    この3つの概念は人間に取って充分であり、
    私に取っても充分だった。
    これは真の宗教である。 私はその中で生き、その中に死ぬ。
    私は、地上の目を閉じる;けれども霊的な目は開かれたままだ。
    今まで以上に大きく。

    私のすべての原稿、
    発見されるであろう書いたりデッサンしたそのすべてを  
    パリ国立図書館に寄贈する。

ユゴーは魂の存在を信じ、彼にとって愛は魂の一部で神聖なものだった。

  ・・・・ 私は貧しい人々に4万フランス寄付する。
       彼らの霊柩車で、墓地まで運んもらうことを願う。
       すべての教会の祈りを拒否する。
       すべての魂に祈りを捧げてほしい。 
       私は神を信じている。


国立公文書館のガラスケースの中に展示されている
ヴィクトル・ユゴーの遺書。(中央)


展示されているのはユゴーの最後の遺書。
生涯に5回遺言を書いたという記録がある。

遺書が入っていた封筒

自ら自由思想家だと語っていたヴィクトル・ユゴーは、カトリック教会の権威や制度に抗議していた。神を心から信じていたが、教会は信じなかった。神と人間の間にはキリストのみがいる。貧しい人、不幸な人、虐げられる人・・・神の愛はこうした恵まれない人々の中にいるとユゴーは信じていたのだった。

私がユゴーの本に出会ったのは小学生の時だった。学校の図書室で見かけた「ああ無常」というタイトルに惹かれ、本を開いた記憶がある。「レ・ミゼラブル」の子供むけの翻訳本で、キリスト教ヒューマニズムあふれる内容に、小さな心が震えたのを今でも覚えている。


国立公文書館の豪華な階段。
もとは大富豪の貴族の館だった。
その時代のロココ様式の名残りが随所にある。

2025年9月11日

フランス全土で「すべてをストップしよう」デモ

政府の 政策に反対、あるいは、マクロン大統領への積もり積もった不満が爆発し、9月10日を「すべてをストップする」日とし、フランス全土でデモやストライキがあり、400人を越える人が拘束されました。

高速道路なども閉鎖され、日常生活に支障をきたすかもしれないと、スーパーは仕入れを倍増。ガソリンが不足する可能性もある、とガソリンスタンドも行列。でも、市民たちは、こうした運動に慣れているからか、ちっともあわてない。デモやストライキはフランス人が好きなスポーツだという人さえいる。

「こういう日は休めばいい。何も無理することはない」

「コロナでテレワークに慣れたから、それにする」

「幼稚園が閉鎖されるから、家で子供の世話を」

暴徒の手にかかると大変だからと、高級品を扱うブティックは、前日からバリケードを張り巡らしたり、臨時休業。カフェやレストランも人出が少ない。閉鎖した美術館もある。多くの人があこがれるパリにも、こういう日があるのです。余波が続くかも、と心配になった私も、食料品を多めに買いました。

閉店だけでは心配。
バリケードが守ってくれる。
頑丈そうなバリケードが全てのウインドーに。
もちろんエントランスもガッチリ防御。
パラソルを飾っていい感じ。
でも、誰もいなく、ちょっとかわいそう。

きちんとセッティングしたテーブルと
座り心地よさそうな椅子。
でも、人の姿が・・・ない。
9月10日はブラックデイでした。

2025年9月10日

ゲランの香水「シャリマー」誕生100年記念

 香水の老舗ゲランの「シャリマー」が世界の注目を浴び、センセーションを巻き起こしたのは、100年前の1925年。この年にパリで装飾美術産業博覧会が開催され、ゲランは「シャリマー」を発表。それは、ジャック・ゲランが1921年から手掛けていたオリエンタル系香水で、インスピレーションの源はインドにあった。

1925に発表された「シャリマー」

17世紀のムガル帝国皇帝が、最愛の亡き妃のために建築させたタージ・マハルは、インド・イスラム文化の代表的建築物。白亜の大理石の典雅な霊廟はユネスコ世界遺産に登録されているほど重要。その庭園シャリマーに想いを馳せてジャック・ゲランがクリエイトしたのが、不朽の香水「シャリマー」。

ムガル帝国皇帝シャー・ジャハーン
1592-1666

妃ムムターズ・マハル
1593-1631
総大理石のタージ・マハル

じつは、私が数10年前から愛用しているのがこの香水。いろいろな機会に、いろいろな人から香水をプレゼントされますが、それらは親しい人に差し上げ、私自身は「シャリマー」以外はつけません。愛に満ちた美しい伝説にひかれているからではなく、香り自体に魅了されているから。軽やかで、甘く、エキゾチックで、細胞をよろこばせるマジックが潜んでいるように思えるのです。清らかな水の流れを彷彿させるカーヴを描くライン、タージ・マハルの庭園の泉を思わせるブルーのキャップ、高貴なフォルムのボトルにも心が惹かれる。

ギャラリー・ラファイエットのクーポルの下の、
「シャリマー」誕生100年記念を祝う特別スタンド

「シャリマー」誕生100年を記念して、ギャラリー・ラファイエットの高いクーポルの真下に特別コーナーを設け、華やかにお祝い。魅惑的な品格ある香りがあたり一面に放たれていて、インドの「愛の神殿」タージ・マハルへ誘います。