2025年4月11日

マリー・アントワネット自叙伝 49

チュイルリー宮殿に姿を現したフェルセンさま

亡命貴族たちの指揮をとっていたのは、義理の弟プロヴァンス伯とアルトワ伯です。2人とも無事に国外逃亡に成功し、ドイツのコブレンツで大勢の支持者に囲まれながら、結構裕福な生活をしていたのです。フェルセンさまはそれもお手紙で知らせてくださいました。嫉妬深く自分勝手で野心の固まりの2人は、革命を自分たちの手で押しつぶすなどと豪語していたのですが、それも兄を救うためというより、自分たちが兄の後、国王になりたいからなのです。そんなことは私には見え見えでした。


義理の弟たちや、その他の亡命貴族たちが結束すればするほど、国内の共和制支持者も過激になっていきました。そうした中で怯えながら暮らしている私たちを、これ以上そのままにしておくわけにはいかないと思ったフェルセンさまは、パリにくる決意を固めます。国中があの方を逮捕しようとやっきになっているというのに、それはまさに自殺行為です。私はもちろん大反対、とお手紙を書きました。それにもかかわらず、あの方はチュイルリー宮殿に姿を見せたのです。1792年2月13日でした。


チュイルリー宮殿は左右対称の美しい城館。
庭園は一般に公開されていました。
右端が私が暮らしていたフロール館。
その左の館の2階に夫、娘、息子の部屋がありました。
橋の向こうの背が高い建物がフロール館。
この1階に私の寝室、化粧室などがありました。
横に細長いチュイルリー宮殿の中央の、
ドームがあるこの建物が宮殿の入り口で、
そこを入った右と左にたくさんの部屋があります。
もちろん、大勢の兵が見張っています。

フェルセンさまが無事に宮殿まで来られたのは奇跡でした。道中、見破られないために鬘を被り、変装したばかりでなく、スウェーデン国王からポルトガル女王に宛てた偽の手紙をご自分で準備し、スウェーデン国王のサインも偽造したのです。偽名のパスポートと、ポルトガル女王への特使であることを証明する手紙。そのすべてにスウェーデン王家の紋章を入れたのです。もちろん何もかもあの方がご自分で作ったものです。こうした緻密な準備のおかげでしょう、どこでも誰にも怪しまれることもなかったそうです。パリに到着する前日のフェルセンさまの日記には、

   

   いたる所で人々は丁寧だった。特にペロンヌでは、国民衛兵でさえも

 

と書かれています。几帳面なあの方は毎日詳しい事柄を日記に記していらしたのです。たった1行しか書かない夫と、何て大違いなのでしょう。

 

   パリに到着したのは夕方5時半

   リシュリュー通りのホテルで私の随行人をおろし、

   プルティエ通りのゴグラ家に辻馬車で向かう。

   場所を御者がしらないので、別の辻馬車に乗る。

   ゴグラが留守なので、6時30分まで路上で待つ。

   彼が戻ってきたのは7時。

   私の手紙が当日お昼頃に届いたので、

   もっと早く読むことができなかったのだ・・・

 

このように、詳細に渡って日々の出来事を綴っていらしたのです。パリに到着した2月13日に王妃の所に行った、ともはっきり書かれています。

 

   いつのも道を通って・・・

 

と日記にありますが、賢明なあの方はその「いつのも道」がどこであるかは 書かなかったのです。フェルセンさまがパリに再びいらしたときに会ったゴグラ男爵は、ヴァレンヌのソースの家で ブイエ将軍たちの到着を待っている間に、ショワズール公に続いて階段を駆けあがってきた副官です。


フェルセンさまの日記。
すべてフランス語で書いていらっしゃいました。

貴族の家庭に生まれたフランソワ・ドゥ・ゴグラ男爵は軍人で、私のプライベート秘書になっていました。逃亡は失敗に終わりましたが、王家への忠誠は変わらず、後年に 亡命貴族たちが結成した軍にも加わり 共和国打倒につくします。チュイルリー宮殿で厳しい監視の中で暮らしている間に、何度も秘密の手紙を託し、外国に持参してもらったこともあります。彼はそれに値する、真面目で徹底的な王党派だったのです。


あの方が日記にお書きになったように、13日は私のお部屋にいらして時を過ごし、階上にいる夫にはお会いになりませんでした。その理由として「国民衛兵を恐れたために」と日記には書かれています。フェルセンさまと2人だけでいられたひとときは、何物にも変えられないほど貴重で、あふれるほどの幸せに満ちていました。あの方は、その宝物のような時に関して詳しいことは綴っていません。私も詳細は胸の中にそっと閉まっておくとことにします。

翌日、フェルセンさまは夫と会い、再度、逃亡の計画を立てていることを告げました。

私たちのために、
命がけでつくしてくださったフェルセンさま。
軍服姿のあの方が最も魅力的でした。

フェルセンさまが夫に提案した新しい逃亡は、私たち家族が2台の馬車に別れて乗り、ノルマンディー地方に行く計画でした。けれども夫は首都を離れることに頭から反対しました。すでにパリでは、国王が再び逃亡を試みるにちがいないなどと、根も葉もない噂がたっていたので、それを何度も打ち消していたし、国民議会で公に告げたことさえあったのです。でも、夫はあの方に本心も語りました。

「我々だけだから言えることであるが、国民が余の気弱さや優柔不断さを非難していることは知っている。しかしながら、誰一人として余の立場に立ったものはおらぬ。好機を逃してしまったこともわかっている。それは7月14日であった。あのとき去るべきであった」


夫が後悔していることを初めて知って、驚いたし、感動もしました。夫が言うように、バスティーユが襲撃されたことを知ったとき、素早く決断し安全な場所に行き、騒ぎが収まったらヴェルサイユ宮殿に戻ればよかったのです。夫は続けました。

「しかしながら、弟プロヴァンス伯が行かないでほしいと懇願したし、ブログリ元帥にも、メッスに行くことは可能だが、しかしそこで何をしたいのかと言われたのだ」

ブログリ元帥はヴェルサイユ宮殿周辺を守る軍の指揮官でした。


16日には多くの貴族がフランスから外国に逃げて行きました。末弟アルトワ伯夫妻も、いとこで王家の次高位のコンデ公一家も、ポリニャック侯爵夫妻もそうでした。同じ日に、ヴェルサイユ宮殿では大臣たちが集まり、国王がどうするべきか意見が飛び交っていました。その間に、私は主任侍女カンパン夫人に命じて宝飾品をまとめさせ、馬車にいつでも積めるようにしました。亡命先での生活を考えてのことです。こういう場合には宝飾品が役立つのです。かさばらないし、価値があるので、いざというときに高額で売ることができるのです。


国民に嫌われていたことを十分知っていた私は、すぐに宮殿から逃れたいと、そればかり願っていました。ところが結局、国王はこのまま残るべきであると決断したのです。夫はそのときのことを後悔していたのです。

「余は好機を失ってしまい、その後、機会は二度と訪れることはなかった。余はすべての人々から見放されたのだ」

でも味方の方がいるではないですか、私たちの目の前に、とフェルセンさまのことを言いたかったのですが、差し控えました。夫は本当に小心で正直な人だったのです。フェルセンさまもその時感じたことを日記に書いています。

 

   実際、国王は何度も残ると国民に約束したので、

   心をいためていたのだ。

   大変誠実な人であるから・・・


夫はほんとうに誠実な人でした。
他の人を傷つけるより、
自分が犠牲になることを望んでいる温厚な性格だったのです。
 

夫が二度と国民を裏切るようなことをしたくないと知ったフェルセンさまは、ベルギーへと戻って行きました。きっと他の方法で、私たちを救出しようとのお考えがあったのしょう。私はもちろん心の中で泣きましたが、まさかそれがあの方との永遠の別れになるなどと思ってもいませんでした。けれどもその後、思いも寄らない不幸が続いたのです。 

2025年4月8日

マティスとマルグリット展 8月24日まで

 パリ市立近代美術館で開催中の、マティスの視線で見た娘マルグリット展覧会は、とても興味深い。一人娘のマルグリットを描いたデッサン、絵、彫刻、版画など展示作品は110を越え、それに加え家族の貴重な写真もあり、巨匠マティスの知られざる部分に触れたように思える。

マルグリットはマティスが20代半ばの若い頃に、恋人キャロリーヌ・ジョブローとの間に生まれたが、2人は結婚せず、マルグリットは、当初、母親の名を語っていた。その後マティスがアメリー・パレルと結婚し、アメリーの希望で5歳のマルグリットはマティス家に迎られ、それ以降マルグリット・マティスとなる。それから2年後にジフテリアにかかり大手術をし、その傷跡を隠すために、彼女はハイネックの服や黒いリボンを首に巻くようになる。今回の展覧会でも、黒いリボンを首に巻いた肖像画が多いのが目立つ。

その後、2人の弟が生まれるが、マティスは一人娘に格別な愛を注ぎ、彼女はアメリー同様にマティスのお気に入りのモデルになる。地中海の寛大な太陽に魅了されたマティスは、家族と離れニースに暮らすことにする。一方、パリに住むマルグリットは結婚し、息子クロードが生まれ、第二次世界大戦の際にレジスタンス運動に加わり、逮捕され、奇跡的に生還。

このように父娘の間は数年間途切れるが、戦後、マルグリットは父の展覧会を開催したり、作品保護に全力をつくし、1954年、マチスがニースで84歳の生涯を閉じたときには、その傍らに娘がいた。マルグリットは1982年に世を去るまで、フォービスムの巨匠アンリ・マティスの作品管理を情熱を込めてこなしていたのだった。

手術後の暗い表情のマルグリット。
首の傷跡を隠すために、ハイネックの服を着ている。
体が弱かったマルグリットは、通常の学校生活を送れず、
父のアトリエで学んだり、母から多くのことを教えてもらったりいた。
室内で読書にふけるマルグリット。12歳頃。

体は弱かったが、精神的強さを感じさせる作品。
これは未完成の絵と見られている。

マティスが描いた娘の絵や素描は100点をこえている。
マルグリットで埋まるマティスのデッサン帳

一時期画家を目指したマルグリットの自画像。
1915-1916年の作品。

マティスのキュービズムへの関心が見える作品。
マルグリットのジャケットの縞模様が
顔に影響を与えている1914年の作品で、
当時はまったく理解されず、買い手がなく、
マティスは世を去るまで自分の住まいに置いていた。

1921 年からしばらくの間ニースに暮らしていたマルグリットは、
プロのモデル、アンリエットと度々マティスのためにポーズをとっていた。
ホテルのバルコニーから花の祭典を見る2人
1923年、マルグリットは作家で美術評論家ジョルジュ・デゥツイユと結婚。
2人は一時期マティスのニースの家に暮らす。
家のバルコニーから見える「天使の湾」を描いた
マルグリットの1925年の作品。

画家になるのを諦めたマルグリットは、
服のデザイナーになる決心をする。
1935年にロンドンでコレクションを発表、
その時の作品のひとつ、オーガンジーのドレス。
デザイナーとしての活躍は、その後見られなかった。
  
結婚、息子誕生、離婚、
レジスタンス運動、逮捕、拷問・・・
多くの出来事を力強く生きて来たマルグリット。

老いて、健康を損なっていた父を見守る娘は、
以前の厳しい表情から抜け出て、温和で平和な表情をしていた。
マティスによる最後のマルグリット肖像画。1945年作。

2025年4月5日

華やぐパリ・デザイン=アート展

 

快晴が続き、木々が若葉を誇らしげに見せる爽やかな気候の中で、
恒例のパリ・デザイン=アート展を開催中。
インテリア大好きの人にとって、待ちに待った催しとあって、大賑わい。

今回は特に照明器具が目立ち、いかにフランス人が明かりに気を配り、重視しているか、伝わってきます。全体的にコンテンポラリーな作品が多く、あちらこちらのブースで商談している姿を見かけました。外国出展者も多く、それだけ変化に富んだアートに触れることが出来、感性がおおいに刺激されました。訪問者もオシャレで、エレガントで、礼儀正しく、大変心地よいアート展。

アッと驚くほどの天井への反射が印象的。
フランス人が数世紀もの長い間、重視している左右対称。
その中央で、コンテンポラリーな作品が、現代の息吹を放っています。

脚に特徴がある家具。
エキゾチックな雰囲気がいっぱい。

フランス人がもっとも好む、
ルイ16世様式の影響が見られるテーブル。

ドラマチックな色とフォルム。かなり個性的。

薄い木の皮を微妙なテクニックで実現した
独創的なコンソール。

高価なジュエリーを散りばめているような、ゴージャスな家具。
これにあうのは、やはりシャトーとか広いリビングでしょうか。

見ているだけで楽しい電気スタンド。
これを囲んで会話がはずむこと間違いなし。

インテリア展でオシャレな女性を見かけるのも楽しい。若い女性は圧倒的に黒。
パリジェンヌはインテリアが一番重要で、服装はその次。
日々の生活を美しくするために、住まいにお金とアイディアと時間をたっぷりかけます。

ステキなステキな二人のマダム。
きっと、自宅のための家具とかオブジェを見にいらしたのでしょう。

2025年4月3日

パリの犬たち 261


夏時間になり、一時間早く起き、気温も上がり春の気配があちこちに感じられるこのごろ。
誰もが待ち構えていたようにダウンコートから軽いコートかジャケットに衣替え。ワンちゃんも同じ。目が覚めるような鮮やかな服を着たワンちゃんに出会い、思わず歓声をあげてしまいました。
個性的な服のワンちゃんを見つけて、
思わず走りより、バッチリ写真を撮らせてもらえて、
とっても嬉しかった快晴の日。


顔も体も何となく気品がある。
歩道のシルエットも絵になる。

だけど、かなり凝ったお洋服。どうやらツーピースらしい。材質も良さそう。
きっと、広いアパルトマンに、優雅に暮らしているのでしょうネ。


2025年4月1日

パリジェンヌが一番好きな色は、黒

 パリの女性たちがもっとも好きな色は、季節を問わず、年齢を問わずに黒。しかも、アクセサリーをつけずに、黒だけというのが圧倒的に多い。それは、街中でも、レストランでも、ソワレでも同じ。ココ・シャネルが語っていたように、多くの人がいる中で、黒い装いの女性が圧倒的な注目を集める。

たしかに、黒には、顔も体も引き締め、引き立たせるマジックがある。絶対的な存在感がある黒は、デザインがいかなるものであっても、際立つエレガンスを放つ。どのデザイナーも黒を使用することを躊躇していた時代に、シャネルはリトルブラックドレスを発表し、世に衝撃を与え、街中でも着れる色にしたのだから、やはり、彼女の業績は革命的。

イヴ・サンローランも黒をこよなく愛したデザイナー。彼の黒のタキシードは、女性に男性に負けない権力、強さを与え、究極のアイコンになっている。そこには、時空を超えるフランスのシックがまばゆいほど輝いている。

絵のような光景。
ノーブルな黒一色を着こなすステキなパリジェンヌ。

日常のさりげない動きにも、
黒がエレガンスを放ちます。

ヤングジェネレーションも黒を愛用。
オールマイティの黒は、
昼も夜もパリジェンヌたちの心をとらえています。


黒のコートと黒のバッグ。
ベージュ色の建造物が立ち並ぶパリに、
シックな装いはぴったり。

若々しいコーデ。
ブランド品にこだわらず、自分の感性で魅力的な装いをするのが、
本物のパリジェンヌ。このマドモワゼルのように。

2025年3月26日

オランダ王家とフランスのコリニー提督の関係

リヴォリ通りのルーヴル美術館北側近くに、コリニー提督に捧げる立派なモニュメントがあるのは知っていたが、そのすぐ後ろにプロテスタント教会があるのは、意外だった。

ある日、たまには裏通りを歩いてみようと、そのモニュメントの横の狭い道路に入ると、薄汚れた壁が見えた。壁の厚さと、頑固にこびりついた汚れから見ると、4~5世紀前の建物かも。だけど、一体の建物? 教会みたいだけれど、こんなところに教会? 

ルーヴル礼拝堂のプロテスタント教会。
17,18世紀の歴史的建造物。

それで、その先に向かい、建物の正面をみると、確かに教会。屋根の上に十字架がたっているから、間違いない。しかし・・・なんて目立たない祈りの場。不思議に思いながら、近寄って簡単な説明を見て、プロテスタントの教会であることが判明。そのとき、あっと思った。コリニー提督のモニュメントとこの教会のつながりが、わかったからだ。

ルーヴル美術館の北に面したリヴォリ通りにある,
コリニー提督のモニュメント。

フランスでは1562年~98年に、カトリックとプロテスタントの間の激しい宗教戦争があった。プロテスタントはユグノーと呼ばれ、その指導者がコリニー提督だった。戦いはフランス全土で繰り広げられ、1572年8月24日、「サン・バルテルミの虐殺」の際にコリニー提督は刺殺される。

名門貴族のコリニー提督
1519-1572

暗殺者に毅然と立ち向かうコリニー提督。
当時、宮廷はルーヴル宮に置かれていて、
22歳の国王シャルル9世は、
母后カトリーヌ・ドゥ・メディシスの影響を受けていた。
提督はベティジー通りの貴族館に滞在していて、そこで刺殺された。
現在のリヴォリ通りの北寄りの小さな通りで、ルーヴル宮近くなので、
館から徒歩で宮廷に赴いていた。

館の中で刺殺された提督の遺体は、
窓から外に放り投げられた。

コリニー提督の長女ルイーズ・ドゥ・コリニーは、父が亡くなった約10年ほど後に、オランダのオラニエ公ウィレム1世と結婚。コリニー家はフランス各地に膨大な領地を持ち、いくつもの爵位に輝く歴史ある貴族なので、オランダでもこの結婚は祝福された。


ルィーズ・ドゥ・コリニー
1555-1620
父と同じようにプロテスタント。

オラニエ公ウィレム1世
1533-1584

二人の間にフレデリック・ヘンドリック王子が生まれ、軍事にも外交にもたけ、オランダ総督として国に大々的貢献をする。彼の息子がウィレム2世となり、さらに孫がウィレム3世を名乗る。その後を継いだのは王女ウィルヘルミナで、18歳でオランダ女王になる。


1898年、
18歳でオランダ女王になったウィルヘルミナ。

彼女が女王だった1912年6月2日、パリを訪問した際に、先祖のコリニー提督に敬意を表すために、ルーヴル礼拝堂のプロテスタント教会を訪れた。その後教会の裏手にあるコリニー提督のモニュメントで、牧師たちの祈りに迎えられ献花した。そのウィルヘルミナ女王の曾孫が現在のオランダ国王ウィレム=アレクサンダー。このように、コリニー提督の血はオランダ王家の人々に引き継がれているのだ。こうした事実を知ると、オランダ王室への関心が一挙に深まる。

オランダ女王ウィルヘルミナ
1880-1962

2025年3月19日

マリー・アントワネット自叙伝  48

耐え難い日々

 フェルセンさまがブイエ侯爵と綿密に逃亡計画を立てたことは、すでに国民に知れ渡っていました。だからこそ、あの方の安否が心配だったのです。それに、私たちがヴァレンヌで捕らえられ、パリに引き戻されたことをフェルセンさまが知っていらっしゃると確信していたので、無事であることを伝えたかったのです。


   ご安心ください。私たちは生きています・・・

手短に無事でいることだけを伝えましたが、6月29日に、また書かないではいられませんでした。

愛する人よ、私は生きております。あなたのことが心配で仕方ありませんでした。
私 たちに関する情報がまったくなく、そのためにあなたが苦しんでいらしゃることにとても心を痛めております。
どうかこのお手紙があなたに届きますように。
私にはお手紙をお書きになりませんように。私たちを危険にさらすことになるでしょうから。     
どんな口実であっても、ここには絶対にお出でにならないでください。
人々は、私たちの逃亡をあなたが計画したことを知っています

本当はどれほどあの方に会いたかったことか。数分でいいから、ご無事な姿を見かたったことか。そしてできれば、あの方の胸にしっかりと抱きしめてほしかった。それがかなわないことは十分わかっていましたが、心はそう叫んでいたのです。

 

私たちは一日中監視されています。あなたがここにいらっしゃらないのですから、そんなことはどうでもいいのです。
でもご安心ください、何事も起きないでしょうから。
アデュー、もっとも愛する人よ。
あなたにもうお便りを差し上げられないかもしれませんが、誰も私の最期の日まであなたを愛するのを妨げることはできないのです


フェルセンさまにお手紙を書くのは、
大きな喜びでした。
離れていても、あの方の存在を身近に感じていました。
本はあまり読みませんでしたが、
時には、気晴らしに手にとることもありました。

ヴァレンヌから戻り、再びチュイルリー宮殿で暮らす私たちの日々は、ますます厳しくなっていました。当初は、私の寝室の中に監視人を置くことさえ提案されましたが、さがにそれはあまりにもプライバシーを損ねると、反対されほっとしました。宮殿に入る人のチェックも厳しく、許可書を見せることが義務づけられるようになりました。


それまで妹一家の身に起きたことに、さほど危険を感じていないようだった私の兄、神聖ローマ皇帝レオポルト2世が、やっと動きを見せ、プロセイン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム2世との共同宣言を発布したのは、1791年8月でした。ザクセン王国のピルニッツ城が舞台だったので「ピルニッツ宣言と呼ばれ、フランス国王の地位の安定を求めることを要求し、それが、ヨーロッパ諸国の君主にとっても重要なことであると説き、万が一の場合には、軍事介入する準備もあるという内容でした。

「ピルニッツ宣言」が発表され、
夫の国王としてに地位が安泰となったのです。

ザクセン王国のピルニッツ城。


この宣言は亡命貴族や反革命派を喜ばせましたが、後に革命家たちの激しい反感をかうようになるのです。「ピルニッツ宣言のおかげかどうかはっきりわかりませんが、9月3日には憲法が設定され、9月14日に新憲法の宣誓を国王が正式に行いました。立憲君主政になり、夫は国王の地位を保てるのです。でも、今までのように絶対的な権利はなく、憲法の支配下に置かれることになったのです。


これによって革命が一段落したように思われました。その実現に大活躍したのは、ヴァレンヌからパリに戻る際に、私たちの馬車に乗り国王一家の身に同情した、あの若い議員バルナヴです。あのとき彼の好意を感じたので、いざというときには役に立ってくれると確信し、チュイルリー宮殿に戻ってから意見を求めたり、秘密の手紙を外国に送る仲介を頼んだりしていました。彼は誰よりも私に忠実でした。


ヴァレンヌ事件前までは、国の改革を求める多くの議員と同じように、共和派のジャコバン派に所属していたバルナヴでしたが、ヴァレンヌ逃亡以後、共和政を主張する過激なジャコバン派と対立するようになって、ラ・ファイエット将軍やパリ市長バイイなどとフイヤン派をつくり、立憲君主政を守ってくださったのです。国民議会で、反対派議員たちに立憲君主政の重要性を力強く説いたのも、チュイルリー宮殿にずっと暮らすことを国民に知らせるために、家具の注文をすすめたり、王妃が健在であることを示すために、オペラ座に行くことをすすめたのもバルナヴでした。若いのにいろいろといい考えを持っているのですが、全面的信頼は寄せていませんでした。こうした激動の時代には、いつ心変わりをするかわからないからです。そういう私も同じです。自分でも何をしたいのか、考えがまとまらないことが多かったのです。


お手紙を差し上げられません、などとフェルセンさまに書いた私でしたが、結局、心を落ち着かせるために、筆を取らないではいられなく、何通も書き、特別なルートで送っていました。誰もがだまし、だまされていた時代に、心から信頼できるのはあの方だけでした。ただ、あの方がそのすべてを手にしたかはわかりません。フェルセンさまも私宛にお手紙を書いて下さったかもしれませんが、一向に届かず、心配が日に日に大きくなるばかりでした。

こうした日々に耐えられず、ある日、心から信頼できる、ハンガリー人のエステルハージ伯爵に重要なお願いをしました。

ヴァランタン・エステハージ伯爵。
フランス王家に忠実で、
心から信頼していたハンガリー貴族。

エステルハージ伯爵は、以前からフェルセンさまと私のことを知っていらした方なので、伯爵には誰にも知られたくない事も頼めたのです。エステルハージ家はハンガリーでもっとも重要な貴族で、ハンガリーとオーストリアにいくつもの豪奢なシャトーを持っていて、ハプスブルク家にとても忠実でした。大家族なのでいくつかの分家がありますが、私たちと親しかったのはヴァランタン・エステルハージ伯爵です。私より15歳年上で有能な軍人でもありました。実は、結婚前に、夫になるルイ・オーギュスト皇太子の肖像画を、オーストリアの私に届けてくださったのも、エステルハージ伯爵だったのです。ですからその時から数えると20年ほどのお付き合いです。1784年に伯爵がご結婚なさったときには、夫と揃って結婚式に出席しました。幸せな時代のとても懐かしい思い出です。


そうした伯爵に頼んだ秘め事は、フェルセンさまにリングを渡して欲しいことでした。そのリングは、革命時に数人の王党派の人が持っていたもので、表面にフランス王家の紋章の3つのユリの花が、そして裏面には「彼らを見捨てるのは臆病者」という言葉が刻んでありました。暗黙のうちに、王党派の連帯を意味するようなリングだったのです。あの方の指のサイズを知っていた私は、それを受け取ってから、自分の指にはめ、温もりを逃がさないように紙にくるみ、手紙と一緒にエステルハージ伯爵に託しました。


エステルハージ伯爵にはそれ以前にも、フェルセンさま宛てのお便りを託したことがあります。

 

   どれほど距離があろうとも、どれほど国々が隔てていようとも、

   心を離ればなれにすることは絶対にできません。

   私はそれを日に日に強く感じております・・・

 

あの方に、偽りのない私の気持ちを伝えたかったのです。エステルハージ伯爵にあの方へのリングを託すとき、お手紙を添えました。

 

紙に包んであるのがあの方へのリングです。
私のために持っているようにとお伝えください。
あの方にぴったり合うサイズで、包装する前に、2日間自分の指にはめていました。
あの方に私からだと、必ずお伝えくださいませ。
あの方がどこにいらっしゃるのか私にはわかりません。
愛する人から何の連絡も受けられず、

どこに暮らしているかを知ることができないのは、恐ろしいほどの苦悩です


「あの方」は、大文字にしました。万が一を考えてお名前を書くわけにはいかないので、知恵を絞ってそうしたのです。フェルセンさまからのお便りが私の元に無事に届くようになったのは、9月末ころで、それ以降、あの方の様子が手に取るようにわかるようになりました。私たちが置かれている状況を伝えたり、考えを綴ったり、意見を求めたりしていました。お手紙はあぶり出しインクや、レモン汁を使って書いていました。火であぶったときに、初めて文字が見えてくるので、当時、秘密の通達に使っていたのです。帽子の折り返しの中に入れたり、クッキーの箱の中に入れたり、本の間にはさんだり様々な方法でお手紙を送っていました。1791年に私からフェルセンさまに送った手紙は11通で、フェルセンさまから受け取ったのは10通でした。あの方からのお手紙から、亡命貴族にお会いになったり、私のお兄さまに援助を求めるためにウィーンに行ったり、スウェーデン国王とコンタクトを取ったりして、積極的に動いていらしたことがわかりました。


フェルセンさまが愛用していたパリ最古の薬局。
1715年にすでに存在していて、
1762年に科学アカデミー会員のカデ・ドゥ・ガシクールの時代に、
大評判になりフェルセンさまも利用していたのです。

夫が新憲法の宣誓を行ったために、外国元首たちは、フランス国王は国民の決定に従う弱腰、と見るようになったのは予期せぬ出来事でした。でもヴァレンヌ逃亡の失敗で、私たちの立場が弱くなったので、仕方なかったのです。信頼を取り戻すために、私がそれぞれの君主宛てにお手紙を書くことを、フェルセンさまが提案され、ロシアのエカテリーナ2世女帝やスペイン国王、イギリス国王に援助を依頼しましたが、どなたも自国のことでいっぱいで、フランスの国王一家の運命など、どうでもよかったようでした。それに反して、亡命貴族たちはますます結束し、いつでもフランスに攻め入る準備があるような脅しをし、革命家たちを刺激していました。それに大きな危険を感じた私は、兄レオポルト2世に、自重する命令を出すようにと頼んだほとでした。