リヴォリ通りのルーヴル美術館北側近くに、コリニー提督に捧げる立派なモニュメントがあるのは知っていたが、そのすぐ後ろにプロテスタント教会があるのは、意外だった。
ある日、たまには裏通りを歩いてみようと、そのモニュメントの横の狭い道路に入ると、薄汚れた壁が見えた。壁の厚さと、頑固にこびりついた汚れから見ると、4~5世紀前の建物かも。だけど、一体の建物? 教会みたいだけれど、こんなところに教会?
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ルーヴル礼拝堂のプロテスタント教会。 17,18世紀の歴史的建造物。 |
それで、その先に向かい、建物の正面をみると、確かに教会。屋根の上に十字架がたっているから、間違いない。しかし・・・なんて目立たない祈りの場。不思議に思いながら、近寄って簡単な説明を見て、プロテスタントの教会であることが判明。そのとき、あっと思った。コリニー提督のモニュメントとこの教会のつながりが、わかったからだ。
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ルーヴル美術館の北に面したリヴォリ通りにある, コリニー提督のモニュメント。 |
フランスでは1562年~98年に、カトリックとプロテスタントの間の激しい宗教戦争があった。プロテスタントはユグノーと呼ばれ、その指導者がコリニー提督だった。戦いはフランス全土で繰り広げられ、1572年8月24日、「サン・バルテルミの虐殺」の際にコリニー提督は刺殺される。
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名門貴族のコリニー提督 1519-1572 |
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暗殺者に毅然と立ち向かうコリニー提督。 当時、宮廷はルーヴル宮に置かれていて、 22歳の国王シャルル9世は、 母后カトリーヌ・ドゥ・メディシスの影響を受けていた。 提督はベティジー通りの貴族館に滞在していて、そこで刺殺された。 現在のリヴォリ通りの北寄りの小さな通りで、ルーヴル宮近くなので、 館から徒歩で宮廷に赴いていた。 |
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館の中で刺殺された提督の遺体は、 窓から外に放り投げられた。 |
コリニー提督の長女ルイーズ・ドゥ・コリニーは、父が亡くなった約10年ほど後に、オランダのオラニエ公ウィレム1世と結婚。コリニー家はフランス各地に膨大な領地を持ち、いくつもの爵位に輝く歴史ある貴族なので、オランダでもこの結婚は祝福された。
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ルィーズ・ドゥ・コリニー 1555-1620 父と同じようにプロテスタント。 |
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オラニエ公ウィレム1世 1533-1584 |
二人の間にフレデリック・ヘンドリック王子が生まれ、軍事にも外交にもたけ、オランダ総督として国に大々的貢献をする。彼の息子がウィレム2世となり、さらに孫がウィレム3世を名乗る。その後を継いだのは王女ウィルヘルミナで、18歳でオランダ女王になる。
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1898年、 18歳でオランダ女王になったウィルヘルミナ。 |
彼女が女王だった1912年6月2日、パリを訪問した際に、先祖のコリニー提督に敬意を表すために、ルーヴル礼拝堂のプロテスタント教会を訪れた。その後教会の裏手にあるコリニー提督のモニュメントで、牧師たちの祈りに迎えられ献花した。そのウィルヘルミナ女王の曾孫が現在のオランダ国王ウィレム=アレクサンダー。このように、コリニー提督の血はオランダ王家の人々に引き継がれているのだ。こうした事実を知ると、オランダ王室への関心が一挙に深まる。
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オランダ女王ウィルヘルミナ 1880-1962 |
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