2025年3月1日

マリー・アントワネット自叙伝 47

 パリへの屈辱の旅

 パリに向かう私たちの馬車の周囲は、4000人ほどの人に囲まれていました。後ろ髪をひかれる思いでパリに向かって馬車が動き始めても、ブイエ侯爵が軍隊と現れる望みを失いたくなくて、窓の外ばかり見ていました。でもその期待は、はかなく崩れました。10数分の差でヴァレンヌ近郊に到着したブイエ侯爵は、大勢の国民衛兵や村人たちに取り囲まれた私たちの馬車がパリに向かっているのを見て、国王が首都に戻る決心をしたと思ったのです。


ヴァレンヌとその近郊を流れるレール川。


ブイエ侯爵が率いる軽騎兵と、私たちの馬車の間にはレール川が流れていました。その川を横切るのは、危険が大きすぎるとブイエ侯爵が判断したのはわかります。でもその少し先に行けば道路が交差していて、水にぬれることもなく馬車に近づけたのです。優れた軍人たちが国民衛兵や群衆を追い払い、夫に事の次第を確かめ、馬車を彼らの手から救出することができたのです。けれでもブイエ侯爵は、いとも簡単に軍の退却を命じ、ご自身は逃亡計画の首謀者であることが発覚されたときのことを恐れ、そのまま馬を走らせ、ベルギーのアルロンへ亡命したのです。

ベルギーのアルロン。
この町でフェルセンさまは、逃亡が失敗に終わったことを
ブイエ侯爵から知らされたのです。


そこにはあの方がいました。その町で、ブイエ侯爵逃亡が失敗に終わったとフェルセンさまに告げたのす。6月23日だったそうです。ブイエ侯爵はその亡命先で、ヨーロッパ各国の君主に、フランス国王一家救出を積極的に頼んでいたそうです。ヴァレンヌで取るべき行動をとらなかった後悔が、きっと大きかったのでしょう。6月22日朝、ヴァレンヌを離れた馬車は、サント・ムヌーで食事のためにいったんとまり、その後シャロンに到着し、その夜をその町で過ごすことになりました。

この町にはなつかしい思い出があります。
1770年、皇太子ルイとの結婚のために
フランス入りした私を歓迎するために、
立派な凱旋門を建築し「皇太子妃門」と名付けて下さったのです。

 

翌日、シャロンを過ぎて少ししたころ、国民議会が派遣した3人の議員が馬車に乗り、お互いに窮屈な思いをしながらパリに向かうことになりました。国民議会から派遣された特使たちは、パリまで私たちの護衛にあたるようにとの命令を受けていたのです。3人とも身なりもきちんとしていて礼儀正しく、私たちを監視するのではなく、群衆から守るために来たことがよくわかりました。ラ・トゥール=モブールは由緒ある貴族出身ですが、革命に賛成した自由、平等主義者。ペティオンは弁護士で堅い性格。バルナヴはブルジョア出身でデリケートな性格。こうした3人の議員でしたので、安心感を持てました。

ラ・トゥール=モブール

ペティオン

バルナヴ


私たち6人が乗っている同じ馬車で、3人が護衛にあたるのがいいと思ったようですが、さすがに9人が座る場所はなく、いろいろ考えた末、ラ・トゥール=モブール男爵は侍女たちの馬車に同乗するとご自分で決めました。それでも2人の議員の席が充分ないので、息子を私の膝の上に乗せ、夫との間にバルナヴが座り、娘を脚の間に挟んだトゥルゼル夫人と義理の妹との間に、ペティオンが座りました。


身動きできない状態でしたが、結構、会話がはずみました。当初、議員たちは国王一家と直接言葉を交わすことに、緊張していましたが、時間が経つに連れて、まるで普通の家族のように気さくな一家だとわかったようで、驚いていました。3人の議員の中で、バルナヴが一番若く、私より11歳年下で、王妃と会話ができることにとても感動していたようです。彼は徐々に、私たちが置かれている境遇に心を動かされるようになり、何とかしたいと思っていることが感じられました。女性はこうした心の動きに敏感で、それはちょっとした言葉つかいや顔の表情でわかるものです。パリに戻ったら、秘密の内に私たちのために役立てようと決めたほどでした。23日はドルマンで一夜を過ごすことになりましたが、群衆の騒ぎが大きいために、ほとんど眠れませんでした。次の宿泊地モーの町に着いたのは夕方8時ころで、パリには翌25日早朝に向かうことになりました。モー市では司教館に泊まることができ助かりました。

モーの立派な司教宮殿。

夫と息子が泊まった部屋。


いよいよパリに向かう日はさすがに緊張しました。過激な革命家がうようよしていて、いつ危険に襲われるかわかりません。国民衛兵が護衛にあたっているとはいえ、突発事故が起きる可能性は高いのです。案の定、群衆は馬車の行く手をさえぎり、罵倒の声が四方からとんできました。ですから、ラ・ファイエット将軍が白い愛馬に乗ってパリの入り口で待機しているのを目にしたときには、心からほっとしました。


パリ市内に入ると、群衆がさらに多くなり、その中をエトワール広場、シャンゼリゼ大通り、ルイ15世広場をゆっくり通りながら、チュイルリー宮殿に到着しました。馬車を降り、宮殿の居室に入り、ほこりにまみれた帽子と服を脱いだ時、この5日間の短い間に、何年も年をとったような疲れがどっと押し寄せました。

国民を見捨て亡命を図った国王一家に対する憎悪は、
想像以上に大きく、身の危険をはっきり感じました。

群衆の憎しみがこもった声を浴びながら、
あちこちまわされ、チュイルリー宮殿に引き戻されたのです。
ルイ15世広場にも、ご覧の通り多数の群衆が押し寄せていました。
チュイルリー宮殿に戻される私たちの、
屈辱的な絵まで描かれたのです。


2日後、私はフェルセンさまにお手紙を書かずにはいられませんでした。逃亡が失敗に終わったことを知って、あの方がどれほど私の身を心配しているかと思うと気が気ではなかったのです。