2025年1月30日

カルティエ 新しいハイジュエリーは自然界の動物たち

 大自然の中で自由を満喫している生き物たち。彼らが瞬間的に示す表情や動きを素早くとらえ、それをモチーフとするカルティエのハイジュエリーコレクション「ナチュール ソヴァージュ」は、インパクトがあると同時にポエティック。時には躍動感にあふれ、時には威厳があり、時にはフレンドリーな態度を示す野生の生き物。

カルティエがそうした野生の動物たちを、ルビーやエメラルド、サファイヤ、ダイヤモンドなどで表現するその姿はファンタスティックで、目にした瞬間に夢想の世界へと導いてくれます。

貴石を使っているのに、動物たちの柔軟な体が見事に表現されているのに、感嘆しないではいられない。例えば、パンテールのネックレスには、首にぴったりと沿うしなやかさがあり、それを付ける人の動きに従って変化に富んだ輝きを発している。かわいいのは、タイガーの手がまるで本物の動物のように小さく動くこと。触ったら温もりが感じられそう。緻密なテクニックを必要とする特別セッティングがそこに潜んでいるのでしょう。

ハイジュエリーの新しいコレクション発表は、リッツパリで開催。
豪華なシャンデリアが、ジュエリーに更なるキラメキを与えます。
優雅に寝そべるパンテール。幸せそうな表情がいい。

しなやかな姿を見せるクロコダイル。
大きいとインパクトがあるけれど、
リングやイヤリングだと優雅で親しみがわきます。

川に生息する小さな生き物も華麗なネックレスになって、
注目を集めます。

タイガーがオーラを放っていて、目も心も奪われます。
個性的でありながら、品位があるのが素晴らしい。

小さなミツバチも時には主役の栄光を。

色鮮やかな本物の植物やフルーツが
会場にエキゾチックな雰囲気を放ちます。

2025年1月25日

マリー・アントワネット自叙伝 45

度重なる不手際

郊外の緑の中を家族そろって馬車で走れるのは、ちょうど気候もいい季節なので快適でした。うれしくてたまらない夫は、馬車から降りて歩いたり、驚いたことに村人と立ち話さえしたのです。変装していたので、身分を見破られることはないと信じ、大胆になっていたのでしょう。私はとてもその気にはなりませんでしたが、時々、馬車を降りて子供たちと歩くことはありました。名もない小さな村の住民たちは、国王や王妃の肖像画を見たこともなかったので、単に旅人だと思っていたのでしょう。それを強調するために、わざと目立つ大きなトランクを重ねて、馬車に積んでいたのです。中が空っぽのトランクさえあったのです。


モーの村を通り、モンミライユ村に着いたのはお昼ころで、あたりはすっかり明るくなっていました。快適な旅に満足していた私たちは、2時間以上の遅れをとっていたことに、全く気が付きませんでした。こじんまりした2つの村の後に通過するシャロンは、今までの村に比べて大きめの町で、その外れのポン・ドゥ・ソム・ヴェスルに、ショワズール公と40人の竜騎兵が待っていることになっていました。それ以降は要所要所に控えている兵士たちが、私たちをしっかり守りながら進むので、何の心配もないと、安心しきっていました。



クロード=アントワーヌ=ガブリエル・ドゥ・ショワズール公爵
王立竜騎兵連隊大佐
王立竜騎兵連隊の章

シャロンで少数の人に身分を疑われたようでしたが、問題もなく通り過ぎ、馬車は快適にシャロンのはずれにあるポン・ドゥ・ソム・ヴェスルに向かいました。そこに待機しているショワズール公が、馬車の音が聞こえたら

「お待ちしておりました」と駆け寄ってくると誰もが信じていました。

それなのに・・・・

予期せぬ出来事が待っていたのです。

ああ、なんてこと! ショワズール公も、竜騎兵もいなかったのです!

 

計画では、ポン・ドゥ・ソム・ヴェスルで、有能な竜騎兵を導く30歳の若く有能なショワズール公が合流するはずだったのに、その気配がまったくなかったのです。一体どうしたのかと気が気でなかった私は、馬車の窓から少しだけ顔を出して、あたりを見回しました。義理の妹エリザベート王女さまも、護衛の姿が見えないかと、首をのばして外の様子を伺っていました。でも、彼女も「誰も見えないわ」と肩をすくめていました。

比較的大きなシャロン。
この郊外の目立たないポン・ドゥ・ソム・ヴェルスで
ショワズール公爵が竜騎兵たちと待機しているはずでした。


このまま同じ場所に長く留まっているわけにはいかないと判断した夫は、先に行くよう指示しました。次の町にも大勢の兵が待っている手はずが整っているから、さほど心配することはないと、何事も穏便に済ます夫は思っていたのです。夫のその言葉に一応は安心したのですが、なぜショワズール公と竜騎兵連隊が、計画通りに私たちの到着を待っていなかったか不思議だったし、怒りも感じました。後で知ったことですが、ショワズール公は兵たちと私たちの馬車が到着するのを待っていたのですが、あまりにも遅れたために、逃亡の計画に変更があったと勝手に解釈したのです。


武器を手にした大勢の兵士がいるのを、住民たちもいぶかしがっていたようです。それを危険と判断したショワズール公は、竜騎兵にそこから撤退し、ヴァレンヌに急ぐように命じたのです。ヴァレンヌの町から30キロほどの所にある小さな村ステネイに、ブイエ侯爵がドイツ近衛連隊と待機していて、必要な時にすぐにヴァレンヌに行くことになっていたからです。ですからショワズール公も、もちろんヴァレンヌへと向かったのです。


でも、それはパリで決定されたことに反する行為でした。ショワズール公の使命は、竜騎兵たちと共にポン・ドゥ・ソム・ヴェスルで国王一家が到着するまで待ち、次の町サント・ムヌーまで護衛し、そこで待機している兵たちに護衛を引き継ぎ、ショワズール公の軍はしばらくそこに留まり、追手がこないか見張っていることだったのです。それなのに、逃亡の計画に変更があったと自分勝手に判断し、軍人たちを退却させたのです。それだけではないのです。私に仕えていた髪結い師レオナールに、ショワズール公は予定の変更を先々の町に配置している軍に伝えるよう命じたのです。


実はパリを出発する前に、私はいくつかのジュエリーを亡命先に運ぶようにレオナールに頼み、ショワズール公の役に立つこともあるかも知れないと思い、公爵の命令に従うようにと言ったのです。そのためにレオナールはショワズール公と行動を共にしていました。レオナールは3兄弟で、3人とも髪結い師で最初は長男が私の担当だったのですが、彼はその後劇場や美容学校を経営し、末の弟ジャン=フランソワ・レオナールが私専門になっていました。3兄弟そろってレオナールと呼ばれていたので、混同する人が多いのです。

髪結い師レオナール。

髪を彫刻のように結い上げるのがレオナールの好みで、
私もとても気に入っていました。


怒りを覚えながらも、馬車は先に進む他ありませんでした。次の目的地サント・ムヌーでは必ず竜騎兵隊が待機していて、疲れた馬のかわりに元気いっぱいの馬を馬車につけ、それ以降は安心して目的地に行けることを祈りながら。

 

護衛すべき軍人たちがいないまま、馬車は次の町サント・ムヌーに向かいました。レオナールが間違った情報を伝えていたなどと夢にも思っていなかったので、計画通りに竜騎兵が待っているものだと信じていました。けれども、この町にも兵士たちの姿が見えなかったのです。その上、替え馬の手配を各宿場でするヴァロリーも、レオナールの通達を信じたのでしょう、その準備をしていなかったので、取り換える馬もいなかったのです。長時間走り続けてる馬は、もう限界とばかりに呼吸を荒くしていました。


サント・ムヌーに入ったのは夕方7時半頃でした。住民たちが2台の馬車を不思議がり、遠慮がちに近づいてきました。

「外国に亡命したコンデ公が戻ったのかな~」

「こんな立派な馬車だから、きっとそうだ」

などとつぶやく町民の声も聞こえてきました。興味にかられた人々の人数がどんどん増えてきたときには、怖くて椅子の奥に身を潜めたほどでした。そのとき、衛兵指揮官ダンドワン侯爵が馬車にそっと近づき、小声で言ったのです。

「手はずに間違いがあったようなのです。これ以上私がここにいて疑惑を生むといけないので、このまま立ち去ります」

その後ダンドワン侯爵は、馭者に一刻も早く馬車を走らせるようにと命じました。侯爵はレオナールの言葉を信じて軍を退かせましたが、万が一を考え、彼だけ町に残っていたのです。


過激な革命家jジャン=バティスト・ドルーエ。

夫の肖像画が描かれている紙幣。

28歳の過激な革命家であり駅長のドルーエがそうした場に来て、たくさんの荷物を積んだ2台の馬車の旅人が、ただ者ではないと直感的に思ったようです。そういえば、馬車の唯一の男性が、紙幣で見かけた国王の肖像画に似ている、とも思ったようです。紙幣には、確かに夫の顔が描かれていました。替え馬を村や町で準備する役目を果たしていたヴァロリーが、馬の購入の際にその紙幣を使用していて、それをドルーエが見たのでしょう。後年、彼は紙幣は以前から自分が持っていて、ポケットに入れていたと語ったそうです。いずれにしてもドルーエは、紙幣で見た王の顔が、馬車の中にいる男性にそっくりだと疑ったのです。それでも確信がなかったので、ドルーエはその場では何も行動を起こさず、同じように熱烈な革命家ギヨームと連れ立って、見つからないように私たちの後をつけ、クレルモンまで行き、そこでその後ヴァレンヌへ向かうことを偶然耳にしたのです。馭者たちがヴァレンヌへ、と言っていたのを聞いたのだと思います。


静かで平和なヴァレンヌ。
この小さな町が歴史に残るなどと、誰も思ってもいませんでした。

馬車の人物を調べるのはそのヴァレンヌでだ、と決意を固めたドルーエとギヨームは、近道を通り、急ぎます。もしもクレルモンでヴァレンヌ行きを知ることがなかったら、彼らは国王一家はヴェルダンに向かうと思っていたようです。ヴェルダンはフランス東北部にあるロレーヌ地方の大きな都市だからです。


こうした出来事が続いてる間に、パリでは大騒ぎが起きていました。私たちの逃亡が発覚されたのです。

2025年1月19日

ユトリロの母、シュザンヌ・ヴァラドン展(5月26日まで)

 個性的な顔で多くの画家たちを魅了し、長年モデルをつとめ、自らも特有な絵を描いていたシュザンヌ・ヴァラドンのポンピドゥーセンターでの展覧会は、とても興味深い。息子モーリス・ユトリロは繊細な感性を持ち、詩情あふれる風景画を多く手掛けたのに比べ、その母シュザンヌ・ヴァラドンは人体の力強さがひしひしと伝わってくる、色彩豊かな人物画が多い。

シュザンヌ・ヴァラドン
(1865-1938)
1898年の自画像
息子モーリス・ユトリロが7歳の時の貴重な写真。

父親が誰かはっきりわからない子供として生まれ、10代初期から洗濯や給仕、サーカの曲芸など苦労連続の生活が続いていた。生活の場は常にモンマルトルだった。その後、そこに集まる画家たちの注目を集めるようになり、モデルとして生計を立てる一方、画家たちのモデルをつとめながら絵を描く方法を学び取り、絵筆をとるようになる。

ルノワール作「都会のダンス」
モデルになったヴァラドンは17歳だった。

今回の展覧会では、特に、人物の裸がいかに素晴らしいか、強烈なタッチで描いたのが深く印象に残る。しかも、女性だけでなく、男性の裸体もあり、彼女がいかに勇気ある女性で、時代に先駆けていたかわかる。

「アダムとイヴ」1900年
「生きる喜び」1911年

「綱を打つ人」1914年
「青い部屋」1923年

独学で画家になったヴァラドンの作品は、テーマも画風も自由で、力強い線、鮮明な色が衝撃的。そこには、体の奥まで響くような激しさがある。当時は女性画家が少なく、しかもタブーとされていた裸体を描いたヴァラドンは、稀に見る強靭な精神の持ち主だったにちがいない。

2025年1月14日

マリー・アントワネット自叙伝 44

 待ちに待った逃亡

馬車の準備が整い、それぞれの旅人のパスポートの名前も決まりました。

馬車に乗っているのはフランクフルトに向かうドゥ・コルフ夫人一行で、主役となるドゥ・コルフ男爵夫人は子供たちの養育係りのトゥルゼル夫人にお願いしました。夫はその執事でデュランという名前。私は男爵夫人の子供たちの養育係りロッシュで、夫の妹は男爵夫人の付き添いロザリー。娘と息子は男爵夫人の子供で息子は女の子になる。これがフェルセンさまがお決めになったことで、パスポートの申請もして下さいました。

執事に変装した夫が、
私の髪を結っている場面を描いた
侮辱きわまりないデッサン。私はコルフ夫人の子供の
養育係りとなっています。


当初フェルセンさまは、モンメディまで私たちの馬車の御者として同行したいと思っていました。その後も必要なときに役立ちたいからと、モンメディでの住まいまで準備していらしたのです。けれども夫がそれを反対したのです。あの方が逃亡のために奔走していたことが発覚したさいに、危険が降りかかると懸念したためです。


護衛は、王家に忠実なダグー伯爵の意見を取り入れながら、夫が自ら選びました。私たちの命を預かる人たちですから慎重だったのです。いろいろ考えた後選んだのは3人で、フランソワ=メルショワール・ドゥ・ムスティエ、フランソワ=フロラン・ドゥ・ヴァロリー、ジャン=フランソワ・ドゥ・マルデンでした。3人とも10月6日に私たちがヴェルサイユ宮殿からチュイルリー宮殿に移されるまで、護衛を務めていました。ですから経験も豊富なので安心だと思ったのでしょう。でも脱出計画がもれるといけないので、直前まで何も知らせませんでした。その他、2人の侍女も同行することになりました。私たちの馬車の他に、侍女たちや荷物を積む馬車も必要なので、それもフェルセンさまが手配してくださいました。


チュイルリー宮殿の中庭に、逃亡で使用する大型馬車を待たせるわけにいかないので、それはパリのはずれで待機させ、宮殿からそこまではシンプルな辻馬車で行くこともあの方が計画し、その馬車も準備してくださいました。


1563年に、幼い国王の母として摂政を務めていた、
カトリーヌ・ドゥ・メディシスが建築させたチュイルリー宮殿。
完成までに100年ほどかかった宮殿。

チュイルリー宮殿から脱出する日は、いろいろな変更があった後、6月19日と決まり、モンメディまでの要所要所に、私たちを守る兵の手配もなされました。それを担当したのはブイエ侯爵です。ところが土壇場で一日遅らせることになったのです。というのは、宮殿で私たちに仕えていたマダム・ロシュルイユは、19日が非番だったのに、急に20日に変更されたのです。噂によるとマダム・ロシュルイユは革命派なので、彼女がいる日では危険が大きすぎるから、一日ずらした方が無難だと決まったのです。それを知ったブイエ侯爵はかなり動揺しました。衛兵たちはすでに持ち場に派遣されているので、そのままそこに留まると、住人たちの不審をかうというのです。


でも結局20日に実行と決まりました。その日を待っている間に、夫は国民に宛てた長い宣言書を書きました。夫はそれを書き終えると、自分たちがチュイルリー宮殿から去った後、すぐに目に止まるように机の上に置いたのです。夫はこのように律義な人だったのです。理由もなくパリを離れるのではないことを、国民に知らせる義務があると思っていたのです。

脱出直前に、真面目な夫は国民に宛てた
宣言書を書きました。

 

6月19日。いつものようにチュイルリー宮殿でお夕食を取った後、通常を装うために、ゲームをしたりして時を過ごし、夫の弟プロヴァンス伯夫妻は、当時暮らしていたリュクサンブルク宮殿に戻って行きました。実はプロヴァンス伯夫妻も、同じ20日に逃亡することになっていたのです。


プロヴァンス伯夫妻の逃亡は、ダヴァレイ伯爵が計画を立てました。その実行を私たちと同じ日にしたのは、片方の逃亡が発覚したとき、パリに残っている王家の人の身が危ないからです。ダヴァレイ伯爵は2人一緒では危険が大きすぎるので、別々にパリを離れることを主張したのです。伯爵夫人は侍女と簡素な馬車に乗り、ベルギーに向かい、ダヴァレイ伯爵とプロヴァンス伯は、イギリス人になりすまし、暗闇の中を徒歩で宮殿を離れ、待たせてあった辻馬車に乗り、ある程度走ってから、乗り心地がいい馬車に乗り換え、ベルギーで夫人と落ち合うという筋書きでした。幸運なことに、不審に思われることもなく、無事に目的地に到着し、その後、亡命貴族が多数住んでいたドイツのコブレンツに向かったのでした。

夫の弟プロヴァンス伯。
ずっと王位を狙い、
私に意地悪ばかりしていた最悪の性格の人。

チュイルリー宮殿では私たちの脱出の準備が予定通りに進められていました。20日夜9時ころ、夫は3人の衛兵のひとり、マルデンを自分の部屋のドア近くにある戸棚の中に隠し、後の2人のムスティエとヴァロリーは、フェルセンさまの御者バルタザールと一緒に、クリシー通り25番地に向かいました。エレオノールさまが住んでいたお屋敷から、大型馬車を引き取り、フェルセンさま指摘の場に移すためです。その間にフェルセンさまは、ご自分の館で御者の服を身に付け、辻馬車に乗ってチュイルリー宮殿へと向かい、10時少し前に到着しました。

1789年の娘と息子。
私が大好きな「愛の神殿」が後方に見えます。
幸せな日々を過ごしていた時代でした。
この数カ月後に革命が起きたのでした。


その数分後、私は1階のサロンを離れ2階に上がっていきました、まず娘の部屋に入り、侍女ブリュニエに素早く事情を説明し、息子の侍女ドゥ・ヌヴィルと一緒にクレイエ・スイイに向かい、そこで私たちの到着を待つようにと指示しました。彼女たちには逃亡に同行してもらうつもりでいたのですが、計画がもれるといけないので、最後の瞬間まで黙っていたのです。娘の後は、息子の身支度です。ドゥ・ヌヴィルにもその場で逃亡を打ち明け、息子に服を着せるよう指示しました。


娘は、ブルーの花柄のインド更紗の簡素な服を問題なく着たのですが、女の子に変装させるために、息子にドレスを着させようとすると、すっかり不機嫌になってしまいました。眠っているところをいきなり起こすので、泣きじゃくったりすることを恐れた私は、

「兵隊さんがたくさんいる所に行くのよ」

と、楽しそうに言って起こしたのです。

息子はすっかりその気になって、軍服を着てブーツをはき剣を持つのかと思ったら、いきなりドレスを見せられたのですから、彼の気持ちもよくわかります。我が子ながら感心したのは、劇を演じるのだからドレスなんだねと、自分で女の子になる理由をすぐに見つけたのです。


子供たちの支度が整い、次の行動に移るとき、何度も何度もうまく事が運ぶようにと、祈らないではいられませんでした。計画ではまず娘と息子をフェルセンさまの手に委ね、宮殿から脱出することになっていたのです。


フェルセンさまに従って、チュイルリー宮殿の中庭から
小さな辻馬車に向かいました。


宮殿から出るのは、以前ヴィルキエ男爵が暮らしていたお部屋から、とフェルセンさまは決めてました。ヴィルキエ男爵は、懐剣騎士の事件の後、宮殿を離れ、身を潜めていたのです。お部屋は当時誰も使用していなかったし、衛兵もいなく、しかもそこから小さい「プリンスの中庭に」出られるので、条件がそろっていたのです。先頭に私が立ち、その後ろに娘、そして息子の手を引いた養育係りのトゥルゼル夫人が続きました。


家具も人もいないガランとした男爵のお部屋に入り、ドアを開けて中庭の様子を見ました。それを合図にフェルセンさまが、素早く私たちがいる部屋に入り、息子の手をとり、トゥルゼル夫人は娘の手を取り、その後ろに私が続き、無言のまま階段を降り、中庭に出ました。数段の階段でしたが、とても長いように思え、心臓が激しくなっているのが自分ではっきりわかりました。


「プリンスの中庭」の壁伝いに馬車が何台も止められ、長い陰ができていたので、その中に隠れながら、フェルセンさまが止めておいた辻馬車が待ってる大きめの庭に向かいました。幸いなことに、一日の仕事を終えた衛兵たちは、大声を上げながら騒いでいたので、暗闇の中をこっそり移動する私たちに気が付く人は誰もいませんでした。


辻馬車に子供たちと養育係りが乗り、フェルセンさまが御者の席に着いたのを見届けた私は、急いで自室に戻りました。この後は、自分が上手く脱出しなければならないのです。あの方が立てた計画は、このように子供たちが最初に宮殿から脱出し、御者に扮したフェルセンさまが操る辻馬車でレッシェル通りまで行き、そこで私たちを待ち、全員揃ったら、パリの東で待機している大型馬車に乗り変えることでした。夫、義妹、私はそれぞれ別々に宮殿を抜け出て、徒歩でレッシェル通りの辻馬車まで行くのです。


子供たちが乗る馬車が遠ざかるのを見届けた私は、部屋に戻ると、侍女たちに床に入る着替えを手伝ってもらい、明日の朝のお散歩の準備をするように指示しました。ひとりになるとすぐに起き上がり、逃亡の計画を知っているティボー夫人を部屋の中に入れ、支度にかかりました。彼女は私にグレーの服を着せ、黒い短めのケープをかけ、顔が隠れるように、長いヴェールがついた大きな帽子を被せました。時計は夜11時20分をさしていました。


支度が整った私は、見張り人が後ろを向いたすきを狙って部屋から出て、廊下を通りヴィルキエ男爵のお部屋に入ったときには、ほっとしました。そこには夫が選んだ衛兵のひとりマルデンが待機していて、彼の陰に隠れるようにしながら「プリンスの中庭」を横切り、子供たちが待っている辻馬車へと急ぎ足で向かいました。


義理の妹は徒歩で辻馬車に向かい、夫は12時10分に到着。マルデンが道を間違え、私が遅れていたので、夫は探しに行こうと思ったようですが、12時35分に到着。家族そろって無事に宮殿から脱出できたことを、声を潜めながら喜び合いましまた。そうした様子を見ていたフェルセンさまも微笑みを浮かべ、次の瞬間、馬車を走らせました。

 

私たちが乗った辻馬車は、パリの東にあるサン・マルタン関門に向かうことになっていました。革命が始まる直前に、パリを囲む城壁の数ヵ所に、市内に入る商品の税金を取りたてる関税徴収所を建築したのです。そのひとつがサン・マルタン関門で1784年から1788年にかけて建築されました。逃亡用の大型馬車はそこを出た直ぐの所で、私たちの辻馬車が着くのを待機している手配がなされていたのです。パリ中心にサン・マルタン門と呼ばれる凱旋門があり、それと混同する人も多いようですが、それではありません。


パリの東にあるサン・マルタン関門。

サン・マルタン関門は東にあるので、その方向に進んでいると思っていたのに、馬車が北のクリシー通りに向かったので、パリに詳しい夫はびっくりしたようです。フェルセンさまは、エレオノールさまが住んでいたクリシー通りの館に預けておいた大型馬車が、彼が命じたようにそこから出発したかを確かめたかったのです。それを知って夫は安心したようです。パリの地理に明るくない私はフェルセンさまを心から信頼していましたので、まったく気になりませんでした。


サン・マルタン関門に着いたのは朝方1時半ころで、その日、そこで働いている役人の結婚式があり、ワインを飲んだり踊ったり大声を張り上げて大騒ぎしていて、私たちの馬車に気が付く人はいませんでした。関門を抜けた直ぐの所には、大型馬車が待機していて、それに乗り換え、そのまま真っ直ぐに目的地に向かうのですから、何だか家族そろってヴァカンスを楽しめるようで、心が躍ったほどでした。


ところが到着して驚いたことに、大型馬車が見えないのです。あわてたフェルセンさまは辻馬車から素早く降り、探しに行きました。きっとすぐに戻ると思っていたのですが、なかなかあの方は姿を見せません。時が経つに連れて心配が大きくなり、いたたまれなくなった夫が、私たちを残して、大型馬車とフェルセンさまを探しに行った時には、心細くて、子供たちにしがみついたほどでした。


夫はフェルセンさまを見つけることはできませんでしたが、私たちが心配だったようですぐに戻ってきました。幸い大型馬車の居所がわかったようで、あの方もそれから間もなくして姿を現しました。私たちの到着が遅れたので、いつまでも目立つ馬車を置いておくわけにはいかない、きっと住民の不審をかうと思ったフェルセンさまの御者バルタザールと護衛のムスティエが、機転をきかせて離れた場所で待っていたのです。

 

大型馬車が待機している所に着くと、フェルセンさまは、巧みに馬を操って辻馬車がぴったり大型馬車につくようにしました。そのために、私たちは土の上に足をつけることなく、馬車から馬車に乗り移ることができたのです。何から何までスマートに事を運ぶあの方は、質素な馭者の服を身に付けていたとはいえ、体の奥から漂ってくる気品あふれる香りは、高貴な貴族ならでは。私はまたまた胸が熱くなるのでした。


フェルセンさまが馭者になって、家族そろって馬車で郊外を走る。そのような日がくるなどと想像もしていなかったので、心が華やぎ、とても幸せでした。順調に走る馬車は、とても乗り心地が良かったし、素朴な景色も新鮮で美しく、ずっと幸福感に満たされていました。いつもは大勢の取り巻きがいて、儀式ばかりに追われていた夫にとって、小人数で馬車で郊外を走るなどということは、きっと考えも及ばなかったことでしょう。ご機嫌で笑顔を振りまきながら

「余は今後、異なった人になるであろう」

と言っていたほどでした。そうしている間に、ボンディに到着しました。パリから北東に向かった8キロくらいの所にあり、住民は400人ほどの平和な村でした。ヴェルサイユ宮殿時代から忠実な衛兵だったヴァロリーは、ボンディに先に行き、疲れた馬と交換する丈夫な馬を準備し、私たちの到着を待っていたのです。彼はその後も各村に先に行き、馬を手配する役目を果たすのです。後の2人の衛兵ムスティエとマルデンは、馬に乗りながら私たちの馬車を守っていました。

革命が起きる3年前の1786年の夫の肖像画。
国王ルイ16世としての、貴重な肖像画です。

このボンディでフェルセンさまとお別れすることは、当初から決まっていました。でも、最終目的地のモンメディに到着したら、お会いできると信じていましたから、別れはつらいものではありませんでした。あの方も同じ思いだったのでしょう。

「アデュー、マダム・ドゥ・コルフ」

と、ハツラツと別れを告げた声が、今でも耳の奥に残っています。

フェルセンさまとお別れしたボンディは、素朴で平和な村。
ここでのお別れが最後になるとは思ってもいませんでした。

その後、フェルセンさまはベルギーへと向い、私たちは次の目的地クレ・スジを目指して馬車を走らせました。フェルセンさまの代わりに馭者になったのは、主にムスティエでしたが、時にはムスティエに交代することもありました。


1775 年6月11日のランスでの戴冠式からわずか16年後に、
家族そろって秘かに逃亡するなど、思ってもいませんでした。


旅はどこまでも順調で、時折、気分転換のためにおりることもありました。ピクニックをすることもあり、子供たちも大喜びではしゃいでいました。これほど自由で楽しい時を過ごしたのは初めでした。クレイエ・スイイでは、侍女のブルニエとドゥ・ヌヴルが待っていました。子供たちの2人の侍女は、私たちがチュイルリー宮殿から抜け出す前に、すでに別の馬車でそこに向かったのです。パリやその近郊を大人数で移動するのは目立ち過ぎるので、ある程度離れたクレイエ・スイイが選ばれたのです。


クレイエ・スイイで合流した侍女たちは、小さめの馬車に乗り、私たちの大型馬車に続くので、2台の馬車が連なりながら移動するのです。最初は目立つのではないかと心配したのですが、この界隈の村は住民が少なく、何の危険もないと、ブイエ侯爵もフェルセンさまも判断し、騎兵隊の護衛なしで進んで行きました。確かにのどかな田園光景が続くだけで、平和そのものでした。

2025年1月8日

オペラ・ガルニエ、華やかに祝う150周年

 1875年1月5日に落成したオペラ・ガルニエは、フランスでは通常「ガルニエ宮」と呼ばれています。建築家シャルル・ガルニエの名を冠しているこのモニュメントは、150年経った今でも、そして今後もずっと彼の名で呼ぶのだから、この上ない名誉なこと。建築家の名が建造物に付けられている例は、他にはエッフェル塔くらいなのもので、非常に少ない。1923年には歴史的建造物に認定されている。


パリ・オペラ座建築家シャルル・ガルニエ
1825-1898
ガルニエの立派な胸像が西のファサードにあります。

これが西のファサードで、
ほぼ中央でガルニエの胸像が君臨しています。

パリに新しいオペラ座建築を命じたのはナポレオン3世。経済的に豊かで、文芸が栄え、パリ大改造で老朽化した建物が次々と取り壊され、広く機能的な道路やロンポワンがパリ中につくられ、街路樹が豊富に植えられ、高さと色を統一したアパルトマンが隅々に至るまで建てられた、華やかで美しい良き時代ベル・エポックだった。

そうした時代に建築されたオペラ座は、壮麗という表現がぴったりの、豪華極まりない折衷様式。建築にあたりコンクールを催し、170もの提案の中からシャルル・ガルニエの案が勝利に輝いたのです。1861年5月29日で、ガルニエは36歳で栄誉を獲得。

工事中のオペラ座 1866年

建築の最初の石が置かれたのは1862年で、完成は1875年。
建築を命じたナポレオン3世は普仏戦争で敗れ、
ロンドンに亡命し第二帝政が崩れ、
自分の栄華のために建築させた殿堂を見られなかった。

誰も彼もを驚嘆させる大階段。
1875年のオペラ座完成を祝うガラ・パーティは、文字通り絢爛豪華。
現在もガラの日は同じように正装で、女性はロングドレス、男性はタキシード。
大階段にはフランス共和国親衛隊が立ち並び出迎えます。

150年記念の今年、数多くのイヴェントが計画されています。1月24日のアニヴァーサリー・ガラは、オペラ座の全アーティストが参加する豪華なイヴェントだし、その他コンサート、バレーの特別公演、オペラ座の歴史がわかる展覧会、衣装の展覧会、討論会など一年中稀に見る催しが続きます。

私も数回ガラ・コンサート、ガラ・ディナーに出席しましたが、
べル・エポックに生きているような、忘れがたい思い出ばかり。
他では味わえない煌びやかな空気が満ちあふれています。

2025年1月6日

ガレット・デ・ロワを食べなくては

 カトリックの公現祭(エピファニー)は1月6日です。12月25日にキリストが生まれ、東方の三人の博士が参拝し、世の救い主の生誕を公にした重要な日。 この日を祝ってガレット・デ・ロワをいただくのが、フランスでは習慣になっています。

「東方三博士の礼拝」ルーベンス作

ガレット・デ・ロワを公現祭にいただくようになったのは、17世紀ころとされています。パイ生地にアーモンドやオレンジなどを入れたガレット・デ・ロワは、サクサクしていて後を引くおいしさ。フランスでは10人の内9人が毎年食べていて、フランス全土で作るガレット・デ・ロワは約6000万。ということはフランスの人口にほぼ等しい。2024年の発表では総人口は約6800万人。

ガレット・デ・ロワの中にはフェーヴが入っていて、切り分けたときに、どんなフェーヴかわかるのも大きな魅力。フェーヴはそら豆という意味で、古代から生命のシンボルとされていたそう。形が胎児に似ているからというのが、その理由。当初はそら豆の形の陶器のフェーヴだったのが、今では何でもいいといった感じで、車、家、人形、動物など種類豊富。それをコレクションしている人も結構いる。

華やかで、楽しそう。フェーヴは何でしょうね。
種類豊富で、どれにしようか迷ってしまう。

王冠を被っているような、豪華なガレット・デ・ロワ。
背が高いのは珍しい。

黒いのを見るのは初めて。
ヴァニラをたくさん使用しているそうで、それならおいしいに決まっている。

アフリカのお面も登場。
彫刻のようでこのまま取っておきたい。

こんなゴージャスな箱に入れてくれるメゾンもある。

どれもこれもおいしので、今年は3つも買ってしまったワタシ。この後、数か月はケーキなしにしようと決心。

3つのガレット・デ・ロワに入っていたフェーヴ。
星の王子さま、王冠、大阪万博のためのお相撲さん。

2025年1月5日

パリの犬たち 259

年がかわったんだってね。
でも,ボクには何のことか、さっぱりわからないワン。
新しい年になったと言っても、
人間はいつもと同じに人間だし、
ボクたち犬は犬のまま。

そう言えば、最近ちょっと目が不自由になった感じ。
だからメガネをかけてるの。
リボンとメガネのおかげて、ちょっとした人気者になっているボク。
うれしいから、目がやさしくなっているでしょ。
やさしい心は、やさしい顔を作るんだよ。
いくつになっても、身だしなみには気を配らないとね。

2025年1月1日

新しい年、きっとたくさんの幸せが待っている

 

明けましておめでとうございます!
2025年が
健康に恵まれ、多くの希望、楽しい出会い、発見がいっぱいあり、
世界の隅々まで幸せの温かい空気が届く年になりますように。