2025年1月14日

マリー・アントワネット自叙伝 44

 待ちに待った逃亡

馬車の準備が整い、それぞれの旅人のパスポートの名前も決まりました。

馬車に乗っているのはフランクフルトに向かうドゥ・コルフ夫人一行で、主役となるドゥ・コルフ男爵夫人は子供たちの養育係りのトゥルゼル夫人にお願いしました。夫はその執事でデュランという名前。私は男爵夫人の子供たちの養育係りロッシュで、夫の妹は男爵夫人の付き添いロザリー。娘と息子は男爵夫人の子供で息子は女の子になる。これがフェルセンさまがお決めになったことで、パスポートの申請もして下さいました。

執事に変装した夫が、
私の髪を結っている場面を描いた
侮辱きわまりないデッサン。私はコルフ夫人の子供の
養育係りとなっています。


当初フェルセンさまは、モンメディまで私たちの馬車の御者として同行したいと思っていました。その後も必要なときに役立ちたいからと、モンメディでの住まいまで準備していらしたのです。けれども夫がそれを反対したのです。あの方が逃亡のために奔走していたことが発覚したさいに、危険が降りかかると懸念したためです。


護衛は、王家に忠実なダグー伯爵の意見を取り入れながら、夫が自ら選びました。私たちの命を預かる人たちですから慎重だったのです。いろいろ考えた後選んだのは3人で、フランソワ=メルショワール・ドゥ・ムスティエ、フランソワ=フロラン・ドゥ・ヴァロリー、ジャン=フランソワ・ドゥ・マルデンでした。3人とも10月6日に私たちがヴェルサイユ宮殿からチュイルリー宮殿に移されるまで、護衛を務めていました。ですから経験も豊富なので安心だと思ったのでしょう。でも脱出計画がもれるといけないので、直前まで何も知らせませんでした。その他、2人の侍女も同行することになりました。私たちの馬車の他に、侍女たちや荷物を積む馬車も必要なので、それもフェルセンさまが手配してくださいました。


チュイルリー宮殿の中庭に、逃亡で使用する大型馬車を待たせるわけにいかないので、それはパリのはずれで待機させ、宮殿からそこまではシンプルな辻馬車で行くこともあの方が計画し、その馬車も準備してくださいました。


1563年に、幼い国王の母として摂政を務めていた、
カトリーヌ・ドゥ・メディシスが建築させたチュイルリー宮殿。
完成までに100年ほどかかった宮殿。

チュイルリー宮殿から脱出する日は、いろいろな変更があった後、6月19日と決まり、モンメディまでの要所要所に、私たちを守る兵の手配もなされました。それを担当したのはブイエ侯爵です。ところが土壇場で一日遅らせることになったのです。というのは、宮殿で私たちに仕えていたマダム・ロシュルイユは、19日が非番だったのに、急に20日に変更されたのです。噂によるとマダム・ロシュルイユは革命派なので、彼女がいる日では危険が大きすぎるから、一日ずらした方が無難だと決まったのです。それを知ったブイエ侯爵はかなり動揺しました。衛兵たちはすでに持ち場に派遣されているので、そのままそこに留まると、住人たちの不審をかうというのです。


でも結局20日に実行と決まりました。その日を待っている間に、夫は国民に宛てた長い宣言書を書きました。夫はそれを書き終えると、自分たちがチュイルリー宮殿から去った後、すぐに目に止まるように机の上に置いたのです。夫はこのように律義な人だったのです。理由もなくパリを離れるのではないことを、国民に知らせる義務があると思っていたのです。

脱出直前に、真面目な夫は国民に宛てた
宣言書を書きました。

 

6月19日。いつものようにチュイルリー宮殿でお夕食を取った後、通常を装うために、ゲームをしたりして時を過ごし、夫の弟プロヴァンス伯夫妻は、当時暮らしていたリュクサンブルク宮殿に戻って行きました。実はプロヴァンス伯夫妻も、同じ20日に逃亡することになっていたのです。


プロヴァンス伯夫妻の逃亡は、ダヴァレイ伯爵が計画を立てました。その実行を私たちと同じ日にしたのは、片方の逃亡が発覚したとき、パリに残っている王家の人の身が危ないからです。ダヴァレイ伯爵は2人一緒では危険が大きすぎるので、別々にパリを離れることを主張したのです。伯爵夫人は侍女と簡素な馬車に乗り、ベルギーに向かい、ダヴァレイ伯爵とプロヴァンス伯は、イギリス人になりすまし、暗闇の中を徒歩で宮殿を離れ、待たせてあった辻馬車に乗り、ある程度走ってから、乗り心地がいい馬車に乗り換え、ベルギーで夫人と落ち合うという筋書きでした。幸運なことに、不審に思われることもなく、無事に目的地に到着し、その後、亡命貴族が多数住んでいたドイツのコブレンツに向かったのでした。

夫の弟プロヴァンス伯。
ずっと王位を狙い、
私に意地悪ばかりしていた最悪の性格の人。

チュイルリー宮殿では私たちの脱出の準備が予定通りに進められていました。20日夜9時ころ、夫は3人の衛兵のひとり、マルデンを自分の部屋のドア近くにある戸棚の中に隠し、後の2人のムスティエとヴァロリーは、フェルセンさまの御者バルタザールと一緒に、クリシー通り25番地に向かいました。エレオノールさまが住んでいたお屋敷から、大型馬車を引き取り、フェルセンさま指摘の場に移すためです。その間にフェルセンさまは、ご自分の館で御者の服を身に付け、辻馬車に乗ってチュイルリー宮殿へと向かい、10時少し前に到着しました。

1789年の娘と息子。
私が大好きな「愛の神殿」が後方に見えます。
幸せな日々を過ごしていた時代でした。
この数カ月後に革命が起きたのでした。


その数分後、私は1階のサロンを離れ2階に上がっていきました、まず娘の部屋に入り、侍女ブリュニエに素早く事情を説明し、息子の侍女ドゥ・ヌヴィルと一緒にクレイエ・スイイに向かい、そこで私たちの到着を待つようにと指示しました。彼女たちには逃亡に同行してもらうつもりでいたのですが、計画がもれるといけないので、最後の瞬間まで黙っていたのです。娘の後は、息子の身支度です。ドゥ・ヌヴィルにもその場で逃亡を打ち明け、息子に服を着せるよう指示しました。


娘は、ブルーの花柄のインド更紗の簡素な服を問題なく着たのですが、女の子に変装させるために、息子にドレスを着させようとすると、すっかり不機嫌になってしまいました。眠っているところをいきなり起こすので、泣きじゃくったりすることを恐れた私は、

「兵隊さんがたくさんいる所に行くのよ」

と、楽しそうに言って起こしたのです。

息子はすっかりその気になって、軍服を着てブーツをはき剣を持つのかと思ったら、いきなりドレスを見せられたのですから、彼の気持ちもよくわかります。我が子ながら感心したのは、劇を演じるのだからドレスなんだねと、自分で女の子になる理由をすぐに見つけたのです。


子供たちの支度が整い、次の行動に移るとき、何度も何度もうまく事が運ぶようにと、祈らないではいられませんでした。計画ではまず娘と息子をフェルセンさまの手に委ね、宮殿から脱出することになっていたのです。


フェルセンさまに従って、チュイルリー宮殿の中庭から
小さな辻馬車に向かいました。


宮殿から出るのは、以前ヴィルキエ男爵が暮らしていたお部屋から、とフェルセンさまは決めてました。ヴィルキエ男爵は、懐剣騎士の事件の後、宮殿を離れ、身を潜めていたのです。お部屋は当時誰も使用していなかったし、衛兵もいなく、しかもそこから小さい「プリンスの中庭に」出られるので、条件がそろっていたのです。先頭に私が立ち、その後ろに娘、そして息子の手を引いた養育係りのトゥルゼル夫人が続きました。


家具も人もいないガランとした男爵のお部屋に入り、ドアを開けて中庭の様子を見ました。それを合図にフェルセンさまが、素早く私たちがいる部屋に入り、息子の手をとり、トゥルゼル夫人は娘の手を取り、その後ろに私が続き、無言のまま階段を降り、中庭に出ました。数段の階段でしたが、とても長いように思え、心臓が激しくなっているのが自分ではっきりわかりました。


「プリンスの中庭」の壁伝いに馬車が何台も止められ、長い陰ができていたので、その中に隠れながら、フェルセンさまが止めておいた辻馬車が待ってる大きめの庭に向かいました。幸いなことに、一日の仕事を終えた衛兵たちは、大声を上げながら騒いでいたので、暗闇の中をこっそり移動する私たちに気が付く人は誰もいませんでした。


辻馬車に子供たちと養育係りが乗り、フェルセンさまが御者の席に着いたのを見届けた私は、急いで自室に戻りました。この後は、自分が上手く脱出しなければならないのです。あの方が立てた計画は、このように子供たちが最初に宮殿から脱出し、御者に扮したフェルセンさまが操る辻馬車でレッシェル通りまで行き、そこで私たちを待ち、全員揃ったら、パリの東で待機している大型馬車に乗り変えることでした。夫、義妹、私はそれぞれ別々に宮殿を抜け出て、徒歩でレッシェル通りの辻馬車まで行くのです。


子供たちが乗る馬車が遠ざかるのを見届けた私は、部屋に戻ると、侍女たちに床に入る着替えを手伝ってもらい、明日の朝のお散歩の準備をするように指示しました。ひとりになるとすぐに起き上がり、逃亡の計画を知っているティボー夫人を部屋の中に入れ、支度にかかりました。彼女は私にグレーの服を着せ、黒い短めのケープをかけ、顔が隠れるように、長いヴェールがついた大きな帽子を被せました。時計は夜11時20分をさしていました。


支度が整った私は、見張り人が後ろを向いたすきを狙って部屋から出て、廊下を通りヴィルキエ男爵のお部屋に入ったときには、ほっとしました。そこには夫が選んだ衛兵のひとりマルデンが待機していて、彼の陰に隠れるようにしながら「プリンスの中庭」を横切り、子供たちが待っている辻馬車へと急ぎ足で向かいました。


義理の妹は徒歩で辻馬車に向かい、夫は12時10分に到着。マルデンが道を間違え、私が遅れていたので、夫は探しに行こうと思ったようですが、12時35分に到着。家族そろって無事に宮殿から脱出できたことを、声を潜めながら喜び合いましまた。そうした様子を見ていたフェルセンさまも微笑みを浮かべ、次の瞬間、馬車を走らせました。

 

私たちが乗った辻馬車は、パリの東にあるサン・マルタン関門に向かうことになっていました。革命が始まる直前に、パリを囲む城壁の数ヵ所に、市内に入る商品の税金を取りたてる関税徴収所を建築したのです。そのひとつがサン・マルタン関門で1784年から1788年にかけて建築されました。逃亡用の大型馬車はそこを出た直ぐの所で、私たちの辻馬車が着くのを待機している手配がなされていたのです。パリ中心にサン・マルタン門と呼ばれる凱旋門があり、それと混同する人も多いようですが、それではありません。


パリの東にあるサン・マルタン関門。

サン・マルタン関門は東にあるので、その方向に進んでいると思っていたのに、馬車が北のクリシー通りに向かったので、パリに詳しい夫はびっくりしたようです。フェルセンさまは、エレオノールさまが住んでいたクリシー通りの館に預けておいた大型馬車が、彼が命じたようにそこから出発したかを確かめたかったのです。それを知って夫は安心したようです。パリの地理に明るくない私はフェルセンさまを心から信頼していましたので、まったく気になりませんでした。


サン・マルタン関門に着いたのは朝方1時半ころで、その日、そこで働いている役人の結婚式があり、ワインを飲んだり踊ったり大声を張り上げて大騒ぎしていて、私たちの馬車に気が付く人はいませんでした。関門を抜けた直ぐの所には、大型馬車が待機していて、それに乗り換え、そのまま真っ直ぐに目的地に向かうのですから、何だか家族そろってヴァカンスを楽しめるようで、心が躍ったほどでした。


ところが到着して驚いたことに、大型馬車が見えないのです。あわてたフェルセンさまは辻馬車から素早く降り、探しに行きました。きっとすぐに戻ると思っていたのですが、なかなかあの方は姿を見せません。時が経つに連れて心配が大きくなり、いたたまれなくなった夫が、私たちを残して、大型馬車とフェルセンさまを探しに行った時には、心細くて、子供たちにしがみついたほどでした。


夫はフェルセンさまを見つけることはできませんでしたが、私たちが心配だったようですぐに戻ってきました。幸い大型馬車の居所がわかったようで、あの方もそれから間もなくして姿を現しました。私たちの到着が遅れたので、いつまでも目立つ馬車を置いておくわけにはいかない、きっと住民の不審をかうと思ったフェルセンさまの御者バルタザールと護衛のムスティエが、機転をきかせて離れた場所で待っていたのです。

 

大型馬車が待機している所に着くと、フェルセンさまは、巧みに馬を操って辻馬車がぴったり大型馬車につくようにしました。そのために、私たちは土の上に足をつけることなく、馬車から馬車に乗り移ることができたのです。何から何までスマートに事を運ぶあの方は、質素な馭者の服を身に付けていたとはいえ、体の奥から漂ってくる気品あふれる香りは、高貴な貴族ならでは。私はまたまた胸が熱くなるのでした。


フェルセンさまが馭者になって、家族そろって馬車で郊外を走る。そのような日がくるなどと想像もしていなかったので、心が華やぎ、とても幸せでした。順調に走る馬車は、とても乗り心地が良かったし、素朴な景色も新鮮で美しく、ずっと幸福感に満たされていました。いつもは大勢の取り巻きがいて、儀式ばかりに追われていた夫にとって、小人数で馬車で郊外を走るなどということは、きっと考えも及ばなかったことでしょう。ご機嫌で笑顔を振りまきながら

「余は今後、異なった人になるであろう」

と言っていたほどでした。そうしている間に、ボンディに到着しました。パリから北東に向かった8キロくらいの所にあり、住民は400人ほどの平和な村でした。ヴェルサイユ宮殿時代から忠実な衛兵だったヴァロリーは、ボンディに先に行き、疲れた馬と交換する丈夫な馬を準備し、私たちの到着を待っていたのです。彼はその後も各村に先に行き、馬を手配する役目を果たすのです。後の2人の衛兵ムスティエとマルデンは、馬に乗りながら私たちの馬車を守っていました。

革命が起きる3年前の1786年の夫の肖像画。
国王ルイ16世としての、貴重な肖像画です。

このボンディでフェルセンさまとお別れすることは、当初から決まっていました。でも、最終目的地のモンメディに到着したら、お会いできると信じていましたから、別れはつらいものではありませんでした。あの方も同じ思いだったのでしょう。

「アデュー、マダム・ドゥ・コルフ」

と、ハツラツと別れを告げた声が、今でも耳の奥に残っています。

フェルセンさまとお別れしたボンディは、素朴で平和な村。
ここでのお別れが最後になるとは思ってもいませんでした。

その後、フェルセンさまはベルギーへと向い、私たちは次の目的地クレ・スジを目指して馬車を走らせました。フェルセンさまの代わりに馭者になったのは、主にムスティエでしたが、時にはムスティエに交代することもありました。


1775 年6月11日のランスでの戴冠式からわずか16年後に、
家族そろって秘かに逃亡するなど、思ってもいませんでした。


旅はどこまでも順調で、時折、気分転換のためにおりることもありました。ピクニックをすることもあり、子供たちも大喜びではしゃいでいました。これほど自由で楽しい時を過ごしたのは初めでした。クレイエ・スイイでは、侍女のブルニエとドゥ・ヌヴルが待っていました。子供たちの2人の侍女は、私たちがチュイルリー宮殿から抜け出す前に、すでに別の馬車でそこに向かったのです。パリやその近郊を大人数で移動するのは目立ち過ぎるので、ある程度離れたクレイエ・スイイが選ばれたのです。


クレイエ・スイイで合流した侍女たちは、小さめの馬車に乗り、私たちの大型馬車に続くので、2台の馬車が連なりながら移動するのです。最初は目立つのではないかと心配したのですが、この界隈の村は住民が少なく、何の危険もないと、ブイエ侯爵もフェルセンさまも判断し、騎兵隊の護衛なしで進んで行きました。確かにのどかな田園光景が続くだけで、平和そのものでした。