2025年4月26日

マリー・アントワネット自叙伝 50

相次ぐ不幸と状況の悪化

不幸は突然やってきました。1792年3月1日に兄レオポルト2世が亡くなったのです。皇帝になってわずか2年後で44歳でした。真相はわかりませんが、あまりにも突然の死だったので、毒殺説がささやかれました。

レオポルト2世


強敵に囲まれて多忙だったにもかかわらず、私の願いを聞いて、亡命貴族たちと反革命運動をしていた義理の弟たちに、自制するよう命じてくださったのです。あの人たちの挑戦的な動きが、革命家に囲まれている私たちに、どれほど危険かわかっていたのです。そうした協力的なお兄さまが亡くなったあとを継いだのは、24歳の長男フランツ1世で、私の甥になります。彼が2歳のときに私が外国に嫁いだので、記憶に残っていないはず。ですから手紙よりも説得力があるし、危険性も少ないと思い、忠実なゴグラ男爵をウィーンに送って、私たちの最悪の状況を伝えさせたこともあります。

フランツ1世

でも、ほとんど知らない叔母の運命など、どうでもいいかのように、何の反応もありませんでした。亡くなったレオポルト2世お兄さまが思慮深かったのに比べて、息子のフランツ1世は、血気盛んで、挑戦的な部分があるのが気がかりでした。実家を以前のようにあてにできないと失望していたのに、それをさらに深める出来事が起きました。


フランスの君主制を誰よりも庇護していたスウェーデン国王グスタフ3世が、暗殺されたのです。レオポルトお兄さまが亡くなったのと同じ月の3月29日でした。グスタフ3世はフランスで起きた革命に率先して反対し、それを押しつぶすために、反革命十字軍の結成を各国に呼びかけてくださったことさえあります。フランスの文化、思想に傾倒していた国王は,ご自分の国に華麗なロココの時代をもたらせました。3月16日、首都のオペラ座で開催された仮面舞踏会にお出でになった国王は、拳銃で撃たれ、それが元で亡くなられたのです。国王亡き後王座に就いてグスタフ4世を名乗った皇太子は、13歳。国を治める年齢ではないので、摂政が置かれ、フランスの内部事情干渉どころではなくなったのです。

グスタフ3世


ロシアのエカテリーナ2世とグルタフ3世。
おふたりともフランスの文芸を高く評価し、影響を受け、
革命に大反対し援助を惜しみませでした。
ストックホルムのこのオペラ座で開催された、
仮面舞踏会に出席した際に、
グルタフ3世が暗殺されたのです。

フランス国内では革命家たちの騒ぎが日に日に大きくなっていました。オーストリア・プロシア軍がいよいよ行動に出ると思われたのです。そしてついに4月20日、革命政府に押されて夫は議会で宣戦布告をしたのです。実は、私たちは内心それを歓迎していました。この戦いで強力な連合軍が勝利を得て、革命がつぶされることを願っていたからです。望んでいた通りに兵士不足や、経験不足のフランス軍は戦いに敗れ、ほっとしました。


けれども革命家たちは、その敗北にさらなる怒りを覚え、国防強化の法令を議会に次々に提出しましたが、国王である夫には拒否権があるので、どれも実を結びませんでした。それがさらなる怒りを呼び、国民は団結してチュイルリー宮殿に押しかけて抗議することにしたのです。6月20日でした。

  

その日は1789年、つまり、革命が始まった年に、ヴェルサイユのテニスコート場で第三身分の議員たちが集まって、憲法制定まで解散しないと誓い合った「テニスコート場の誓い」の日です。そして1791年6月20日は、失敗に終わったヴァレンヌ逃亡をした日でもありました。


1792年6月20日朝、セーヌ右岸のサン・タントワーヌ界隈と、左岸のサン・ジェルマン界隈に群衆が集まり、チュイルリー宮殿から遠くない場所にあった議会を目指して進んで行ったのです。途中から斧や槍、サーベル、銃を手にした民衆が加わり、1万5000人を超え、「国王の拒否権廃止」「自由か死か」「ルイ16世への忠告」「人民は苦しむのにうんざりだ」などと書いたプラカードを振りかざしていました。


この行進の先頭にたっていたのは、ビール醸造業者アントワーヌ=ジョゼフ・サンテールで、バスティーユ監獄襲撃にも加わり、民衆に人気があり、国民衛兵の指揮官になっていたのです。記念日を祝う行進は、その後チュイルリー宮殿に着いたものの、群衆は国王一家が住む宮殿内に入り込むのを躊躇していたのでした。その様子を見ていたサンテールは苛立ち、大声で突撃を命じたのです。武器を手にしていた衛兵たちが宮殿の入り口を守っていたのですが、それを阻止する命令を受けていなかったために、発砲することもなく、群衆はいとも簡単に宮殿内に進入したのです。午後4時ころでした。

アントワーヌ=ジョゼフ・サンテール

群集はいとも簡単に宮殿に入ってきました。

あまりにも多くの群衆が宮殿になだれ込んできたので、
私たちはどうしたらいいのかわからず、立ち往生しました。
血走った群衆たちと対決の恐ろしい瞬間。

ドアを打ち破る音や叫び声が聞こえ、恐怖にかられながら、私は息子の部屋へと急ぎました。するとどうでしょう。息子の姿が見えないのです。いったいどうしたのかと、抑えきれないほど大きな不安にかられながら娘の部屋に行くと、何とそこに息子ルイ・シャルルがいたのです。異常な物音におののいた側近が、皇太子に危害が加えられたら大変と、いち早く息子を連れ出し、娘の部屋へと急いだのです。2人の子供の無事な姿を見て、どれほど嬉しかったことか。

  

でも、そこも安全とはいえないので、息子と夫の部屋の間にある細い通路に移り、身を潜めました。夫はどうなったかと、その身が気になり部屋に行こうとすると、今はお子さまたちの近くにいらっしゃるべきだと、侍従たちに説得されました。そうしている間に、壁やドアを激しくたたいたり壊す音が近くで聞こえ、避難の場所を変えなければならなくなり、「会議の間」に急ぎました。


そこに入り、壁際によると、側近たちが恐怖で震えてる私たちの前に、重いテーブルを置き、群衆たちが触れないようにし、その手前に三列に並んだ兵が立ち、何とか身の安全を保てるようになりました。けれども、群衆がそこに押し寄せるのに、大した時間はかかりませんでした。群衆の先頭に立っていたのはサンテールです。大きなテーブルの後ろにいる私たちを見つけたサンテールは、誇らしげな声で兵たちに命じました。

「民衆が中に入って、王妃を見れるように場所を作るのだ」

私たちを守るべき兵たちでしたが、あまりの剣幕に言われる通りにし、サンテールが目の前に立ったときには、体が硬直しました。私が一番心配したのは息子のことでした。この子の身に何かあったらと、ルイ・シャルルの肩に置いていた手に力を込めました。このような人々に負けてはならないと心の中でくり返し、毅然とした態度を崩さないようにすることしか考えていませんでした。

宮殿の会議の間で、テーブルで身を守りながら震えるばかり。
この危険な状態から、子供たちを守らなければと、
そればかり考えていました。

夫の妹は毅然とした態度を保っていました。


幸いなことに、危害を加えるつもりはないとサンテールが言いましたが、好奇心や嫉妬、嫌みにあふれた無数の視線を目の前にしているのは、さらし者になっているようで、耐えられないほど自尊心が深く傷つけられました。サンテールが私に言った他の言葉も覚えています。

「マダム、あなたは迷わされているのだ、騙されているのだ。人々はあなたが思っている以上にあなたを愛しているのだ」

その言葉に優越感が感じられたので、否定しないではいられませんでした。

「私は迷わされていないし、騙されてもいません。このような立派な兵に囲まれているのですから、何の心配もありません」


その間、夫は武器を手にした群衆に囲まれていたのです。彼らが要求する拒否権撤回は、何があろうと受け入れられないと、頑固にはねつけていたのだそうです。けれども革命家たちの象徴になっていたフリジア帽子を差し出されると、それを素直にかぶり、国のために民衆と一緒に乾杯したのです。3時間ほどたってやっとパリ市長ペティオンが役人たちを伴って宮殿に入り、市長の命令で群衆を追い出し、恐怖と緊張から解放されました。ペティオンはヴァレンヌからパリに戻される際に、私たちの身を守るために派遣された3人のひとりで、その後パリ市長になっていたのです。


群集に取り囲まれていた夫でしたが、落ち着いた態度を崩さず、
国王の拒否権をずっと主張していたそうのです。


群集がフリジア帽を差し出すと、夫は
それを被って国民のためにカンパイしたそうです。

恐怖から解放された私は、早速フェルセンさまにお手紙を書きました。

 

私はまだ生きております。でもそれは奇跡なのです。

6月20日は怖ろしい一日でした。今や夫の命にかかわることになっているのです。

人民はもはやそれを隠さなくなっています。

今のところ夫は確固たる態度と権力を示しています。

危険はいつでも起きる可能性があるのです・・・

 

実際、危険性は日に日に強くなる一方でした。

2025年4月22日

パリの犬たち 262

 

お散歩に最適な春。
背が高いペットカートだから見晴らしがサイコー。

エッ、なんか言った?

あまり前にのり出さないようにだって。
大丈夫、大丈夫、ちゃんと目を大きく開いてみているからね。
何があぶないか、わかっているワン。

2025年4月16日

チョコがいっぱい、もうじきイースターだから

何もかも値上がりが続いてるこの頃。4月20日のイースターを目指して、スーパーも専門店もアイディアを発揮したチョコの 販売にやっきになっている。何しろ、この日はチョコを食べる習慣があるから、チャンスを逃すわけにはいかない。

今年はカカオの値上がりでチョコも当然高くなっている。昨年の約14%の値上がりだそう。それでも、お祝いだからチョコを買いたくなるし、プレゼントもしたい。中には2つ目は50%引き、などと気を引く広告もある。以前は、ウサギ、卵、ニワトリがほとんどだったのが、今年はかなり大胆なイースターチョコで、見ていて楽しい。

海賊とパンダちゃん。共通点は何かな?
などと深く考える必要なし。
君はだ~れ?

ウサギさんの整列。

お母さんと一緒にお散歩のヒヨコたち。
はぐれないように、しっかりくっついていて可愛い。

緻密なモチーフが素晴らしい
、パイナップル形イスターエッグ。

ワイワイガヤガヤ。みんな集まってお祭りじゃ。

お化け大会?。
、みんな楽しそう、仲間にいれてほしい。

やはり、ウサギさんの人気と魅力は抜群。

毎日、毎日板チョコを食べている私だけれど、イースターには、ちょっと変わったのを食べよう、と固く決心。でも、どれにしようか、迷いに迷っている。多分いくつか買うと思う。日々を楽しまなくてはネ。

2025年4月11日

マリー・アントワネット自叙伝 49

チュイルリー宮殿に姿を現したフェルセンさま

亡命貴族たちの指揮をとっていたのは、義理の弟プロヴァンス伯とアルトワ伯です。2人とも無事に国外逃亡に成功し、ドイツのコブレンツで大勢の支持者に囲まれながら、結構裕福な生活をしていたのです。フェルセンさまはそれもお手紙で知らせてくださいました。嫉妬深く自分勝手で野心の固まりの2人は、革命を自分たちの手で押しつぶすなどと豪語していたのですが、それも兄を救うためというより、自分たちが兄の後、国王になりたいからなのです。そんなことは私には見え見えでした。


義理の弟たちや、その他の亡命貴族たちが結束すればするほど、国内の共和制支持者も過激になっていきました。そうした中で怯えながら暮らしている私たちを、これ以上そのままにしておくわけにはいかないと思ったフェルセンさまは、パリにくる決意を固めます。国中があの方を逮捕しようとやっきになっているというのに、それはまさに自殺行為です。私はもちろん大反対、とお手紙を書きました。それにもかかわらず、あの方はチュイルリー宮殿に姿を見せたのです。1792年2月13日でした。


チュイルリー宮殿は左右対称の美しい城館。
庭園は一般に公開されていました。
右端が私が暮らしていたフロール館。
その左の館の2階に夫、娘、息子の部屋がありました。
橋の向こうの背が高い建物がフロール館。
この1階に私の寝室、化粧室などがありました。
横に細長いチュイルリー宮殿の中央の、
ドームがあるこの建物が宮殿の入り口で、
そこを入った右と左にたくさんの部屋があります。
もちろん、大勢の兵が見張っています。

フェルセンさまが無事に宮殿まで来られたのは奇跡でした。道中、見破られないために鬘を被り、変装したばかりでなく、スウェーデン国王からポルトガル女王に宛てた偽の手紙をご自分で準備し、スウェーデン国王のサインも偽造したのです。偽名のパスポートと、ポルトガル女王への特使であることを証明する手紙。そのすべてにスウェーデン王家の紋章を入れたのです。もちろん何もかもあの方がご自分で作ったものです。こうした緻密な準備のおかげでしょう、どこでも誰にも怪しまれることもなかったそうです。パリに到着する前日のフェルセンさまの日記には、

   

   いたる所で人々は丁寧だった。特にペロンヌでは、国民衛兵でさえも

 

と書かれています。几帳面なあの方は毎日詳しい事柄を日記に記していらしたのです。たった1行しか書かない夫と、何て大違いなのでしょう。

 

   パリに到着したのは夕方5時半

   リシュリュー通りのホテルで私の随行人をおろし、

   プルティエ通りのゴグラ家に辻馬車で向かう。

   場所を御者がしらないので、別の辻馬車に乗る。

   ゴグラが留守なので、6時30分まで路上で待つ。

   彼が戻ってきたのは7時。

   私の手紙が当日お昼頃に届いたので、

   もっと早く読むことができなかったのだ・・・

 

このように、詳細に渡って日々の出来事を綴っていらしたのです。パリに到着した2月13日に王妃の所に行った、ともはっきり書かれています。

 

   いつのも道を通って・・・

 

と日記にありますが、賢明なあの方はその「いつのも道」がどこであるかは 書かなかったのです。フェルセンさまがパリに再びいらしたときに会ったゴグラ男爵は、ヴァレンヌのソースの家で ブイエ将軍たちの到着を待っている間に、ショワズール公に続いて階段を駆けあがってきた副官です。


フェルセンさまの日記。
すべてフランス語で書いていらっしゃいました。

貴族の家庭に生まれたフランソワ・ドゥ・ゴグラ男爵は軍人で、私のプライベート秘書になっていました。逃亡は失敗に終わりましたが、王家への忠誠は変わらず、後年に 亡命貴族たちが結成した軍にも加わり 共和国打倒につくします。チュイルリー宮殿で厳しい監視の中で暮らしている間に、何度も秘密の手紙を託し、外国に持参してもらったこともあります。彼はそれに値する、真面目で徹底的な王党派だったのです。


あの方が日記にお書きになったように、13日は私のお部屋にいらして時を過ごし、階上にいる夫にはお会いになりませんでした。その理由として「国民衛兵を恐れたために」と日記には書かれています。フェルセンさまと2人だけでいられたひとときは、何物にも変えられないほど貴重で、あふれるほどの幸せに満ちていました。あの方は、その宝物のような時に関して詳しいことは綴っていません。私も詳細は胸の中にそっと閉まっておくとことにします。

翌日、フェルセンさまは夫と会い、再度、逃亡の計画を立てていることを告げました。

私たちのために、
命がけでつくしてくださったフェルセンさま。
軍服姿のあの方が最も魅力的でした。

フェルセンさまが夫に提案した新しい逃亡は、私たち家族が2台の馬車に別れて乗り、ノルマンディー地方に行く計画でした。けれども夫は首都を離れることに頭から反対しました。すでにパリでは、国王が再び逃亡を試みるにちがいないなどと、根も葉もない噂がたっていたので、それを何度も打ち消していたし、国民議会で公に告げたことさえあったのです。でも、夫はあの方に本心も語りました。

「我々だけだから言えることであるが、国民が余の気弱さや優柔不断さを非難していることは知っている。しかしながら、誰一人として余の立場に立ったものはおらぬ。好機を逃してしまったこともわかっている。それは7月14日であった。あのとき去るべきであった」


夫が後悔していることを初めて知って、驚いたし、感動もしました。夫が言うように、バスティーユが襲撃されたことを知ったとき、素早く決断し安全な場所に行き、騒ぎが収まったらヴェルサイユ宮殿に戻ればよかったのです。夫は続けました。

「しかしながら、弟プロヴァンス伯が行かないでほしいと懇願したし、ブログリ元帥にも、メッスに行くことは可能だが、しかしそこで何をしたいのかと言われたのだ」

ブログリ元帥はヴェルサイユ宮殿周辺を守る軍の指揮官でした。


16日には多くの貴族がフランスから外国に逃げて行きました。末弟アルトワ伯夫妻も、いとこで王家の次高位のコンデ公一家も、ポリニャック侯爵夫妻もそうでした。同じ日に、ヴェルサイユ宮殿では大臣たちが集まり、国王がどうするべきか意見が飛び交っていました。その間に、私は主任侍女カンパン夫人に命じて宝飾品をまとめさせ、馬車にいつでも積めるようにしました。亡命先での生活を考えてのことです。こういう場合には宝飾品が役立つのです。かさばらないし、価値があるので、いざというときに高額で売ることができるのです。


国民に嫌われていたことを十分知っていた私は、すぐに宮殿から逃れたいと、そればかり願っていました。ところが結局、国王はこのまま残るべきであると決断したのです。夫はそのときのことを後悔していたのです。

「余は好機を失ってしまい、その後、機会は二度と訪れることはなかった。余はすべての人々から見放されたのだ」

でも味方の方がいるではないですか、私たちの目の前に、とフェルセンさまのことを言いたかったのですが、差し控えました。夫は本当に小心で正直な人だったのです。フェルセンさまもその時感じたことを日記に書いています。

 

   実際、国王は何度も残ると国民に約束したので、

   心をいためていたのだ。

   大変誠実な人であるから・・・


夫はほんとうに誠実な人でした。
他の人を傷つけるより、
自分が犠牲になることを望んでいる温厚な性格だったのです。
 

夫が二度と国民を裏切るようなことをしたくないと知ったフェルセンさまは、ベルギーへと戻って行きました。きっと他の方法で、私たちを救出しようとのお考えがあったのしょう。私はもちろん心の中で泣きましたが、まさかそれがあの方との永遠の別れになるなどと思ってもいませんでした。けれどもその後、思いも寄らない不幸が続いたのです。 

2025年4月8日

マティスとマルグリット展 8月24日まで

 パリ市立近代美術館で開催中の、マティスの視線で見た娘マルグリット展覧会は、とても興味深い。一人娘のマルグリットを描いたデッサン、絵、彫刻、版画など展示作品は110を越え、それに加え家族の貴重な写真もあり、巨匠マティスの知られざる部分に触れたように思える。

マルグリットはマティスが20代半ばの若い頃に、恋人キャロリーヌ・ジョブローとの間に生まれたが、2人は結婚せず、マルグリットは、当初、母親の名を語っていた。その後マティスがアメリー・パレルと結婚し、アメリーの希望で5歳のマルグリットはマティス家に迎られ、それ以降マルグリット・マティスとなる。それから2年後にジフテリアにかかり大手術をし、その傷跡を隠すために、彼女はハイネックの服や黒いリボンを首に巻くようになる。今回の展覧会でも、黒いリボンを首に巻いた肖像画が多いのが目立つ。

その後、2人の弟が生まれるが、マティスは一人娘に格別な愛を注ぎ、彼女はアメリー同様にマティスのお気に入りのモデルになる。地中海の寛大な太陽に魅了されたマティスは、家族と離れニースに暮らすことにする。一方、パリに住むマルグリットは結婚し、息子クロードが生まれ、第二次世界大戦の際にレジスタンス運動に加わり、逮捕され、奇跡的に生還。

このように父娘の間は数年間途切れるが、戦後、マルグリットは父の展覧会を開催したり、作品保護に全力をつくし、1954年、マチスがニースで84歳の生涯を閉じたときには、その傍らに娘がいた。マルグリットは1982年に世を去るまで、フォービスムの巨匠アンリ・マティスの作品管理を情熱を込めてこなしていたのだった。

手術後の暗い表情のマルグリット。
首の傷跡を隠すために、ハイネックの服を着ている。
体が弱かったマルグリットは、通常の学校生活を送れず、
父のアトリエで学んだり、母から多くのことを教えてもらったりいた。
室内で読書にふけるマルグリット。12歳頃。

体は弱かったが、精神的強さを感じさせる作品。
これは未完成の絵と見られている。

マティスが描いた娘の絵や素描は100点をこえている。
マルグリットで埋まるマティスのデッサン帳

一時期画家を目指したマルグリットの自画像。
1915-1916年の作品。

マティスのキュービズムへの関心が見える作品。
マルグリットのジャケットの縞模様が
顔に影響を与えている1914年の作品で、
当時はまったく理解されず、買い手がなく、
マティスは世を去るまで自分の住まいに置いていた。

1921 年からしばらくの間ニースに暮らしていたマルグリットは、
プロのモデル、アンリエットと度々マティスのためにポーズをとっていた。
ホテルのバルコニーから花の祭典を見る2人
1923年、マルグリットは作家で美術評論家ジョルジュ・デゥツイユと結婚。
2人は一時期マティスのニースの家に暮らす。
家のバルコニーから見える「天使の湾」を描いた
マルグリットの1925年の作品。

画家になるのを諦めたマルグリットは、
服のデザイナーになる決心をする。
1935年にロンドンでコレクションを発表、
その時の作品のひとつ、オーガンジーのドレス。
デザイナーとしての活躍は、その後見られなかった。
  
結婚、息子誕生、離婚、
レジスタンス運動、逮捕、拷問・・・
多くの出来事を力強く生きて来たマルグリット。

老いて、健康を損なっていた父を見守る娘は、
以前の厳しい表情から抜け出て、温和で平和な表情をしていた。
マティスによる最後のマルグリット肖像画。1945年作。

2025年4月5日

華やぐパリ・デザイン=アート展

 

快晴が続き、木々が若葉を誇らしげに見せる爽やかな気候の中で、
恒例のパリ・デザイン=アート展を開催中。
インテリア大好きの人にとって、待ちに待った催しとあって、大賑わい。

今回は特に照明器具が目立ち、いかにフランス人が明かりに気を配り、重視しているか、伝わってきます。全体的にコンテンポラリーな作品が多く、あちらこちらのブースで商談している姿を見かけました。外国出展者も多く、それだけ変化に富んだアートに触れることが出来、感性がおおいに刺激されました。訪問者もオシャレで、エレガントで、礼儀正しく、大変心地よいアート展。

アッと驚くほどの天井への反射が印象的。
フランス人が数世紀もの長い間、重視している左右対称。
その中央で、コンテンポラリーな作品が、現代の息吹を放っています。

脚に特徴がある家具。
エキゾチックな雰囲気がいっぱい。

フランス人がもっとも好む、
ルイ16世様式の影響が見られるテーブル。

ドラマチックな色とフォルム。かなり個性的。

薄い木の皮を微妙なテクニックで実現した
独創的なコンソール。

高価なジュエリーを散りばめているような、ゴージャスな家具。
これにあうのは、やはりシャトーとか広いリビングでしょうか。

見ているだけで楽しい電気スタンド。
これを囲んで会話がはずむこと間違いなし。

インテリア展でオシャレな女性を見かけるのも楽しい。若い女性は圧倒的に黒。
パリジェンヌはインテリアが一番重要で、服装はその次。
日々の生活を美しくするために、住まいにお金とアイディアと時間をたっぷりかけます。

ステキなステキな二人のマダム。
きっと、自宅のための家具とかオブジェを見にいらしたのでしょう。