2015年12月10日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 34

プティ・トリアノンは
マリー・アントワネットのユートピア。
プティ・トリアノンでは、村落と同じように王妃の身分を捨て、
ひとりの女性として振舞っていたマリー・アントワネットでした。
庭園から見たプティ・トリアノン。
礼儀はすべてはぶかれ、音楽やゲームに興じたり、自由を満喫していたのです。

彼女の繊細な感性を生かした、フェミニンで気品ある家具は、後年、ルイ16世様式と呼ばれ、現在でもフランス人がもっとも好きな様式。その誕生の地はプティ・トリアノンだったのです。

マリー・アントワネットの美意識から生まれたからには、本来は「マリー・アントワネット様式」と呼ぶのがふさわしいのに、何故か「ルイ16世様式」なのです。今でもホテルや邸宅でも人気があるほど、優美な様式です。

プティ・トリアノンの窓から見える「愛の神殿」の他に、彼女が頻繫に足を運んでいたのは「見晴台」。
8角形のネオクラシックの「見晴台」は、床に大理石をモザイクのようにはり、建物の足元にはスフィンクスの像が置かれ、音楽サロンとして使用していました。

人工的に作った小高い岩の上に立つ「見晴台」の左には、同じように人工的に作った岩があり、そこから滝が流れ泉に落ちる情緒ある光景を、王妃は遠方から眺めるのも好きでした。
イルミネーションでひときわの美しさを見せる「見晴台」

2015年12月9日

まだまだ不安です・・・

可愛らしいノエルの
オーナメントを見ていると、
心が平和になります。
訪れるツーリストが少なくなって、首相までがぜひ来て欲しいと呼びかけているパリ。
たしかにどこに行っても静か。

日本人、アメリカ人、中国人に圧倒的に人気があるパリですが、そういえば、観光バスもあまり見かけない。
グループで賑わいを見せる中国人も、
ぐっと少ない。

私は今でもメトロには乗らないし、
人出が多い場所は避けています。

日常生活に必要な品々を売っているスーパーは、相変わらず荷物検査なしでは入れないし、長距離列車の駅にも、金属探知機を置く計画があるようです。

昨日、クリスマス製品を販売しているブティックをのぞいてみたのですが、そこに行く途中で教会の前を通ったら、入り口で体だけでなく靴にまで探知機をあてているのを見て、パリの現実がよく分かりました。

まだまだ緊張が必要な生活です。
早く以前のパリに戻って欲しいですね。

ノエル 11

ブルガリ
ショーメ

2015年12月8日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 33

生後間もないルイ・シャルル。

第二王子ルイ・シャルルが生まれたのは1785年3月27日で、生まれですぐにノルマンディー公の称号を受けます。

活発でお茶目なルイ・シャルルは、優しい父と母、姉、兄と共に、ヴェルサイユ宮殿で平和な日々を送っていました。

彼の運命が大きく変わったのは1789年、兄である王太子が結核で世を去ったとき。兄亡き後直ちに王太子になったルイ・シャルルは、その日から未来の国王としての教育と躾が始まったのです。

ところが、それもわずかな期間で、その年の10月6日、パリから暴徒たちがヴェルサイユ宮殿におしかけ、
革命前に母、姉と連れ立って
庭園を散歩する王子。
家族揃ってパリへと連行され、チュイルリー宮殿で監視の元に暮すようになったのです。

ルイ14世が宮廷をヴェルサイユに移し、そのために放置されていたチュイルリー宮殿は、くもの巣がはびこり、壁は薄汚れ、家具もなく殺風景で、そこに暮すようになった王子は怖さに震えたほどでした。彼は4歳の
幼さだったのです。

しばらくの後、ヴェルサイユ宮殿から家具が運ばれ、花も飾り、オモチャも手にし、王子としての生活が再会されます。以前のように儀式に時間を取られることもない父と母、そして弟思いの姉とのささやかな、けれども愛に満ちた生活を送ります。

その後、革命が日を追って悪化。ついに王政が廃止され、
ブロンドの愛くるしい王子。
タンプル塔に幽閉され、過酷な生活を強いられるようになったのです。

父が処刑されると、ルイ・シャルルはそれまで同室に暮らしていた、母、姉、叔母から引き離されます。

当初は、元靴屋のシモン夫婦が彼の世話をします。
子供がいなかった彼らは王子をかわいがり、王子も彼らになつき、少年らしい小さな幸せを味わっていました。

ところが、その内彼らは塔から出され、それ以降はろくな食べ物も与えられず、散歩も許可されず、窓が開けられることもない陰気な部屋に閉じ込められ、病におかされ、衰弱しきって10歳の短く哀れな生涯を閉じます。死因は結核とされています。

タンプル塔で描かれた肖像画
王子亡き後、数世紀にわたって彼は脱出に成功したなどと噂が流れ、様々な本も書かれました。
自称王子も何人も出現。
けれども現代科学により、王子は確かにタンプルで死亡したことが立証されました。

王子が亡くなった際に、医師ペルタンが解剖を行い、その時彼は、王子の心臓を秘かにポケットにしまい、自宅に保存していたのです。
その心臓と、マリー・アントワネットの遺髪、親族のDNA鑑定の結果、それが判明したのです。2004年のことでした。

現在、王子の心臓は父と母が眠る、パリの北にあるサン・ドニ教会に葬られています。

2015年12月7日

ノエル 10

カルティエ
ヴァンクリーフ&アーペル
シャネル

2015年12月6日

マリー・アントワネット 絵で辿る生涯 32

マリー・アントワネットがもっとも好きだったのは、ウィーン近郊のシェーンブルン宮殿でした。そこには立派な劇場があり、得意になって劇を演じていたマリー・アントワネット。

プティ・トリアノンの庭園内に建築させた、
宝石のような「王妃の劇場」 の断面図。
ヴェルサイユ宮殿内の豪華なオペラ座で、音楽会や劇が上演されていましたが、それはあくまでの宮廷生活の一部。もっと気楽に楽しみたいと思うようになった彼女は、プティ・トリアノンの庭園の中に「王妃の劇場」建築を思い立ちます。

リシャール・ミックが建築家として選ばれ、工事は順調に進み、王妃の希望に従った、淡いブルーと金箔を基調として完成した優美な小劇場。そこで彼女は義理の弟や貴族夫人と劇を演じたり、オペラを歌ったり。

この劇場の最後の出し物はボーマルシェ作の「セヴィリアの理髪師」1785年9月16日でした。その後「首飾り事件」が起き、国民の反感をかい、劇どころではなくなったのです。
革命の時には外観が地味で目立たなかったために、破壊されることもなかった貴重な建造物です。

裏手に広がるイギリス庭園の中には、「フランス館」もありました。この館はプティ・トリアノンと同じに、ルイ15世の時代に、愛妾ポンパデゥール夫人のために建築開始。

マリー・アントワネットは一切手を加えずに、そのまま使用していました。コンサートを開いたり、トランプ遊びをしたり、舞踏会を催したこともあります。そうした時にはテントを張って、館を広げる工夫もしました。
プティ・トリアノンの庭園を
王女、王太子と散策する王妃。
突き当たりは「フランス館
その右手に「王妃の劇場」があります。

2015年12月5日

ノエル 9

メルヘンの世界によう。
少女時代に戻れるうれしさは格別。