2025年11月20日

クリスマス いつまでも見ていたいツリー

 いつも通り、デパートのクリスマス装飾が華やかで、心が浮き立つばかり。やはり、ギャラリー・ラファイエットのツリーを見ないと気分が出ない。華やかな画像をたっぷりお届けします。

デパートの外観を見るだけで心が躍ります。

花飾りの下を歩くのは、とてもいい気分。

クリスマスは赤が圧倒的に多い。
お祝いだから当然。

クーポール下のこのツリーが目的。
圧倒的な存在感。楽しさと喜びがはち切れそう。

30分ごと(多分)に音楽が鳴り、
それに合わせて色を変えながら動く極上ツリー。
もう、文句なしにメルヘンの世界。

プレゼントが山のようにある
不思議な国に来たみたい。

抵抗し難い美しさ。何もかも輝いている。

デパート全体が
大きなリボンに包まれてるような錯覚を起こします

2025年11月17日

マリー・アントワネット自叙伝 60

 最後のクリスマスの日、夫は遺言を書きました

 弁護士が伴う尋問が行われる前日の12月25日クリスマスの日、夫は遺言を書きました。厚い壁に囲まれ、家族の吐息が全くない寒々しい部屋で、ひとり机に向かって最後の言葉を綴っていたことを後で知って、身も心も引き裂かれるほどでした。その遺言は処刑の翌日に公開されました。

家族そろって楽しく過ごすクリスマスの日、
夫はひとり机に向かい、遺言を書いていたのです。
鉄格子に囲まれた厚い壁の中で、冬の厳しい寒さをこらえながら・・・

本来ならば家族そろってお祝いするクリスマスの日に書いた夫の遺言は、長いものでした。すてに心の準備をしていたようで、数日前に役人に紙とペンを要求していたとクレリー侍従は後に語っています。遺言は敬虔なカトリック信者の言葉で始まります。

 

   三位一体、父と子と聖霊のみ名によって。本日、1792年12月25日 

 

   フランス国王ルイ16世である余は、

   かつて臣下であった者たちによって、

   家族ともどもパリのタンプル塔に4か月以上前から幽閉され、

   11日からは家族との連絡さえも禁止されている。

   その上、

   人民の熱情によるものであるがために、

   解決策を予想することが不可能な裁判にかけられている。

   現存するいかなる法に、口実も手段も見出すことができないのである。

   余の見解の証人は神のみであり、

   余が訴えられるのは神のみであるがために、

   余はここに、神の立ち合いのもとに遺言と思いを表明する。


 

今までに犯した罪と自分の欠点を、神に許しを請う文がその後続き、敵となった人々を心から許すことまで神に願い、妻、子供たち、妹、叔母たち、弟たちの加護を神に求めたのです。

 

   神よ、

   長い間、余と共に苦しんだ妻、子供たち、妹に特別な慈悲の目を向け、

   余を失うことがあったら、

   この、はかない世にいる間ずっと支えてくださるように。

 

幼い息子にも父親として、国王としての言葉を残しました。

 

   不幸にも国王になったなら、国民たちの幸福のために、

   自分の全てを捧げる義務があることを思うべし。

   特に、余の不幸と悲しみに関するすべての憎しみ、

   すべての恨みを忘れなくてはならぬ。

   国民の幸せは、

   法に従って統治することのみによってなされるのである。

 

それだけでなく、自分を捕らえ、ひどい扱いをした人々を許すとくり返し、自分に対して主張されている罪を、自ら咎むべきところがないことを神の御前に誓い、神の前に現れる準備ができているという言葉で遺言を終えています。

夫が残した遺言

この遺言書を書いた翌日12月26日、夫は国民公会議場に出頭しました。夫の傍らには3人の弁護士がいました。その中の一番若いド・セーズが夫の弁論をしました。


・・・フランス人民によって裁判にかけられているルイが、

   自らの立場を説明する時が来たのです。

   あなた方はルイの運命に関する判決を下し、

   あなた方の見解はヨーロッパ中に広がるのです。

   ルイには法もなけれが形式もない。

   過去に存在していた条件も、

   現在の条件も受けることもできないのである。

   何と奇妙で不可解な運命だ。 

 

   革命は推し進められた。

   しかし、人道的な精神を弱まらせてはいないはずである。

   ルイは20歳で国王になった。

   それ以来、常に人民に近い人であった。

   倹約家であり、正義、道徳の人であった。

   人々が苛酷な税や束縛からの解放を望むとそれを実行し、

   刑法の改革も実現し、自由を求めると、それを与えたのである。


   歴史が、あなた方の判定に判断を下すであろう。

   しかも、数世紀にも及ぶ判断を。それを考慮するように・・・


ドゥ・セーズはまた、1791年の憲法制定以前は、夫は国王で不可侵性の立場にあった。従ってそれに関する告発は無効であり、それ以降の諸々に関しては、大臣たちに法的責任があるとも訴えました。

12月26日に発言する夫


弁護士に続いて夫に発言の権利が与えられましたが、自分の弁護の言葉はすべて述べられ、それに加えることは何もないと答え、その後短い言葉を発したのです。

「おそらく、これがあなた方に語る最後になると思うが、余は罪悪感を感じることはまったくなく、また、弁護士たちは真実のみを語ったことをここに宣言する」

その後、タンプル塔に戻った夫ですが、あいかわらず私たちと会うことも許されず、祈りの日々を過ごし、判決が下される日を待っていたのです。家族が再会できたのは翌年1月でした。

2025年11月7日

ルーヴル美術館 回収された王冠のお話

10月19日にアポロンのギャラリーから盗難されたフランス王家の宝飾品は、今でも連日ニュースで報道。用心のために、アポロンのギャラリーの数点の宝飾品をフランス銀行に移したそう。貴重な歴史を刻んだ品がいくつもあるから、賢明な判断だと評価されている。

盗難された8点の宝飾品の行方はいまだに不明。けれども、ナポレオン3世のお妃ウジェニー皇后の冠は、逃げる途中で落としたのか、破損しているものの、近くで見つかっている。修復は非常に困難だが、不可能ではないとルーヴル美術館館長が発表。この冠だけが盗まれた宝飾品の中で、唯一、回収され貴重な王家の宝物。

ナポレオン3世のお妃の王冠。1855年作。
ダイヤモンド1354個、エメラルド56個。
8羽のゴールドの鷲と8 つの植物模様が交互に連なるアーチの上に、
エメラルドとダイヤモンドの円形のドーム、
その上にダイヤモンドの十字架がある個性的な王冠。
   photo David Liuzzo


君主の偉大さを国民に見せるために王冠を考え出したのは、16世紀のフランソワ一世。それ以降、その伝統がずっと守られ、第二帝政のナポレオン3世もお妃も王冠を持っていた。ところが1870年、プロセインとの間に普仏戦争が始まり、貴重な宝飾品はまとめてフランス最大の軍港ブレストに運ばれ、その後は財務省の地下で保管するようになる。その後多くの王家の宝飾品はオークションで世界に散らばったが、皇后の王冠はそれを逃れたのだった。今回の盗難でも、奇跡的に取り戻せたのだから、運が強い王冠と言える。

1920年の皇后亡き後、彼女が名付け親になったマリー・クロチルド・ボナパルト王女に贈られるが、1988年に競売にかけられ、落札した人がルーヴル美術館に寄贈し、アポロンのギャラリーに展示されていたのだった。このように、ひとつひとつのジュエリーに貴重な物語がある。
ウジェニー皇后の右手の下にこの王冠が見える。
直系16,5cm  高さ13cm  幅15cm
皇后がつけてるティアラは今回盗難され、
いまでも行方がわからない。

2025年11月4日

マリー・アントワネット自叙伝 59

 夫の尋問が始まりました

ルイ・カペーと呼ばれるようになった夫が、尋問のために国民公会の議場に出頭した最初の日は1792年12月11日でした。 

カペーという苗字はカペー王朝を築いたユーグ・カペーから選んだのです。ユーグ・カペーは10世紀のフランス国王で勢力をのばしましたが、直系が絶えたために、カペー家分家のヴァロア家が跡を継ぎました。その直径も絶えると、今度は、同じカペー家一族のブルボン家に引き継がれたのです。私たちはそのブルボン家です。ヴァロアもブルボンもカペーの分家なので、夫はその本家の名で呼ばれることになったのです。

カペー王朝を築いた
ユーグ・カペ―(940-996)

その日の朝、太鼓が鳴り響き、塔の周りに大砲を取り付けてあるのが見えました。正午ちょっと前に夫の部屋に役人が2人入り、息子とゲームを楽しんでいた夫に向かって冷たく言ったのです。

「今後、カペーの息子は、母親と暮らすことになった」

驚いた夫が言葉を発する間もなく、2人の役人はルイ・シャルルを夫から引き離し、部屋の外へと連れて出したのでした。


最愛の息子を取り上げられた衝撃で、しばらくの間、意気消沈して座り込んでいた夫のもとに、今度はパリ市長、検事、役人が大きな足音を響かせながら入り、尋問のために議会に向かうと告げたのです。


尋問を受けるために議会へ向かう夫。

息子を取り上げられてから議会に向かうまでの間、たとえわずかな時間であっても、息子をこの胸に抱いていたかったと、夫は涙を浮かべながら不満を訴えたそうです。ところが、例え王であろうとも、一般国民と同じように子供への愛を持っていることも理解されないまま、議会に連れて行かれ、議長ベルトラン・バレールから数多くの尋問を受けたのでした。


国民公会議長の
ベルトラン・バレール。

そのひとつひとつに、誤解を招かないようにこたえるのは並大抵なことではありません。雄弁からほど遠く、説得力に欠け、自分を守るすべを知らないあまりにも純粋な夫は、四面楚歌をどのように耐えていたのか。その時は、夫を援護する弁護士もいなかったのです。


国民公会議長バレールは、当時37歳で飛びぬけて雄弁だったそうです。書記が33もの起訴状を読み上げた後、1歳年長の夫を目の前にしながら、バレールは短い言葉を発しました。

「ルイ・カペー。国民公会はあなたを裁判にかけることを決定したのである」

議長の乾いた冷たい言葉が終り、それまで立たされていた夫が椅子に腰かけ、尋問が始まりました。

 

尋問を受ける夫

「1789年6月に、誕生したばかりの憲法制定国民議会の解散を試みたか」

「数人の議員の買収を試みたか。特にミラボーを」

「1789年6月20日にヴァレンヌに逃亡したか」

「チュイルリー宮殿防御の衛兵の強化を図ったか」

「1791年7月17日に、王政廃止を求めてシャン・ド・マルスに集合した民衆虐殺を命じたか」

「ヨーロッパ強国の軍事援助を得て、絶対君主制復活を準備したか」

「コブレンツに駐屯する亡命貴族軍と連絡を取っていたか。援助資金の調達をしたか」

「パリ市内の反革命派の便宜のために二重スパイを雇っていたか」

   ・・・・・・・・                   

       ・・・・・・・・

 

小心な夫は矢継ぎ早の尋問に丁寧にこたえていたそうですが、説得力には欠けていたのです。弁護士を付けて欲しいという夫の唯一の願いは受け入れられ、後日の尋問のために3人の有能な弁護士が選ばれました。ドゥ・セーズ、マルゼルブ、トロンシェでした。

ドゥ・セーズ  1748年ボルドー生まれ

マルゼルブ 1721年パリ生まれ
トロンシェ 1726年パリ生まれ


尋問が始まった12月11日から夫は家族と離ればなれで、侍従クレリーとふたりで暮らすことになりました。私たちは同じ塔にいながら会うことが許されなかったのです。クレリーは私たちに近づいてはならないと命令されていたので、夫の消息を知ることはできませんでした。新聞売りがときどき大きな声でその日の出来事を告げていたので、それで塔の外の様子をわずかに知ることができただけでした。

孤独な日々をひたすら耐えていた夫。

12月19日は娘のお誕生日でした。その日でさえも、夫は娘に会えなかったのです。夫は大きな瞳に涙を浮かべながら、役人たちがいる前でクレリ―に「今日は娘の誕生日だ。それなのに、会うことも許されない・・・」と細い声で言ったそうです。役人たちは、すべての父親も抱く子供への愛に心を打たれたでしょうが、誰もが黙っていました。夫への同情が恐ろしい結果を招くことを恐れ、お互いに警戒していたからでしょう。残虐極まりないことです。

娘のマリー・テレーズ・シャルロット
私たちの最初の子供でした。

2025年11月1日

アール・デコ100周年記念展

 1925年に開催されたパリ万博装飾美術博覧会で脚光を浴びたアール・デコから、早くも100年。それを記念する大規模な展覧会を、リヴォリ通りの装飾芸術美術館が開催。展示作品は1000点にものぼり、2026年4月26日まで続く。家具、ジュエリー、様々なオブジェ、ファッションなど多岐に及ぶ当時の作品は革新的で、現代的で、一世を風靡した。アール・デコは建築にも大きな影響を与え、ニューヨークやパリに現在も健在。

展示会場は3つのフロアに及び、ほとんどは当時のオリジナル作品。
それに加えて新たにクリエイトしたのもある。

注目のオリエント急行は一階にあり、すごい人気。
パリとイスタンブールを繋ぐ豪華列車への憧れは、
今でも衰えることはない。
1883年運航開始、2009年廃止。

座り心地良さそうなサロンのソファ。

新たなオリエント急行のダイニング車。
ボヘミアガラスの装飾、クリストフルのシルバーウエア、
アビランドの食器が気品を放っている。

憧れのオリエント急行を目のまえにして
幸せいっぱいの私たち。

パリとアムステルダムを結ぶ列車の
ファーストクラスのサロン。1927年から1990年まで運行。
色鮮やかな椅子は、景色を見るために動かすことができる。
希望すればここで食事も可能。

アールデコの時代には多くの家具が生まれ、
斬新で知的なデザインがもてはやされていた。

ピュアなラインと植物のモチーフのハーモニ―が特徴の家具。

個性的な鏡台。

ガラスや陶磁器の作品も多く生まれた時代だった。

ひときわの輝きを放っているジュエリー。
カルティエやブッシュロンの逸品が見られるのは貴重。

当時はアールデコを愛するジャンヌ・ランバンが花を咲かせていた。
ブロドリーはため息がでるほど緻密。

夜毎、着飾った紳士、淑女が美味と会話を楽しんだ、
世界最長の313mを誇る豪華客船ノルマンディー号の
グランド・ダイニングルーム。

ノルマンディー号のグランド・ダイニングルーム全景。

このような豪華客船に乗れるのは裕福な人のみ。
長い航海の間に何度も服も靴も変えるから、
特別なトランクが必要。
30足の靴専用のルイ・ヴィトンのトランク。
もちろん、特別オーダー。

このような展覧会を見ると、アールデコの時代の豊かさがよくわかる。イヴ・サンローランはアールデコを絶賛し、特に家具を数多くコレクションし、それに包まれたパリの邸宅に暮らしていたことが思い出される。

2025年10月24日

新カルティエ現代美術財団、パレロワイヤルにオープン

 パリ真っ只中のルーヴル美術館のすぐ隣という最高に贅沢な場に、カルティエ現代美術財団が、10年の歳月を費やして完成。建築家はフランスが誇る現代建築の鬼才、ジャン・ヌーヴェル。14区にあった最初の財団と同じ建築家。

総面積8500m²の壁はガラス張りで、中から外が見えるし、外から中が見え、財団とパリが一体となり呼応しているのがよくわかる。それはまた、周囲の歴史ある建造物とコンテンポラリーな財団の美しい交流だ。

建物自体は1855年の万博に合わせて建築した歴史あるもので、典型的なオスマン様式。当時はホテル、その後百貨店になり、さらにその後、骨董品専門店が並び、骨董品愛好家のお気に入りの場になっていた。そこに生まれた現代美術を展示するのにふさわしいコンテンポラリーな空間。地下、一階、二階に広がる展示スペースは6500m²。中央は吹き抜けのようになっているので、上からも下からも他の階の作品の一部が見える。その間を自由が飛び交っているようで、現代を生きている実感を感じる。

14区から新たな拠点に移った財団のオープニング記念の展覧会では、これまでの40年間に展示した4500点の中から選んだ100人のアーティストの作品を順次披露する予定。パリに新たなモニュメントが加わったようで、そこから明るい未来が生まれそう。

世界が注目する石上純也さんの作品が
エントランス近くで視線を集めます。

プレスプレヴューの日に、本人にお会いできて
大感激。もの静かで繊細でエレガントな建築家。

一階の奥に展示されている『浜辺』Raymond Hains作

木のお面 David Hammons作


地下で異彩を放っている「サロン」
Freddy Mamani作

地下、一階、二階の中央から各階の展示作品の一部が見える。
解放感があり、自由が飛び交っているよう。

都会に緑を運んで来たような作品もあり、
爽やかさを散りばめている。Gran Chaco作

『木の上の二二」 Agnès Varda作
ネコが大好きな私が、一番気に入った作品。
すました表情で、凛と立っているのがいかにもネコらしい。

当初ホテルだった時代に、かの福沢諭吉が泊まり『ルーヴル美術館近くの同じ名のホテル』と記録しているので、私たち日本人には格別な感慨がある。正式なホテル名は『ル・グラン・オテル・デュ・ルーヴル』

2025年10月21日

ルーヴル美術館、王家の宝飾品が盗まれた

 10月19日の朝9時半ころだった。4人の強盗がルーヴル美術館の窓ガラスを打ち破り、アポロンのギャラリーに進入し、歴史的に重要な宝飾品を奪い逃走。この前代未聞の出来事に、フランスだけでなく、世界中が驚愕。盗まれたのは歴代の王族が持っていた重要な逸品ばかり。それだけに衝撃が大きい。

数年前にこのアポロンのギャラリーを訪れ、ブログに書いたので詳しいことは下記の投稿をご覧下さい。

http://rumiko-paris.blogspot.com/2022/07/blog-post_12.htm

盗難された8つの宝飾品は、フランスの重要な歴史を語る計り知れないほど貴重なものばかり。以前訪れたときに写真を撮ったジュエリーもあり、思わず体が震えました。下の3枚の写真です。

ナポレオン1世の二番目のお妃、
マリー・ルイーズのネックレスとイヤリング。
ネックレスに使用されたエメラルドは32個。
ダイヤモンドは1138個。
ナポレオン3世のお妃ウジェニ―の
212個のパール、1998個のダイヤモンドがきらめくティアラ。
ウジェニー皇后のウエストの前を飾るゴージャスなジュエリー。
ホワイトダイヤモンド2434個。ピンクダイヤモンド196個。

アポロンのギャラリーには、マリー・アントワネットの娘が結婚後身につけていたジュエリーもあり、悲惨な少女時代を送ったけれど、結婚し華やかな日々を送った時代もあったのかと、 心が温まったものです。幸いなことに、今回の被害にはあっていないようです。