耐え難い日々
フェルセンさまがブイエ侯爵と綿密に逃亡計画を立てたことは、すでに国民に知れ渡っていました。だからこそ、あの方の安否が心配だったのです。それに、私たちがヴァレンヌで捕らえられ、パリに引き戻されたことをフェルセンさまが知っていらっしゃると確信していたので、無事であることを伝えたかったのです。
ご安心ください。私たちは生きています・・・
手短に無事でいることだけを伝えましたが、6月29日に、また書かないではいられませんでした。
愛する人よ、私は生きております。あなたのことが心配で仕方ありませんでした。
私 たちに関する情報がまったくなく、そのためにあなたが苦しんでいらしゃることにとても心を痛めております。
どうかこのお手紙があなたに届きますように。
私にはお手紙をお書きになりませんように。私たちを危険にさらすことになるでしょうから。
どんな口実であっても、ここには絶対にお出でにならないでください。
人々は、私たちの逃亡をあなたが計画したことを知っています
本当はどれほどあの方に会いたかったことか。数分でいいから、ご無事な姿を見かたったことか。そしてできれば、あの方の胸にしっかりと抱きしめてほしかった。それがかなわないことは十分わかっていましたが、心はそう叫んでいたのです。
私たちは一日中監視されています。あなたがここにいらっしゃらないのですから、そんなことはどうでもいいのです。
でもご安心ください、何事も起きないでしょうから。
アデュー、もっとも愛する人よ。
あなたにもうお便りを差し上げられないかもしれませんが、誰も私の最期の日まであなたを愛するのを妨げることはできないのです
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フェルセンさまにお手紙を書くのは、 大きな喜びでした。 離れていても、あの方の存在を身近に感じていました。 |
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本はあまり読みませんでしたが、 時には、気晴らしに手にとることもありました。 |
ヴァレンヌから戻り、再びチュイルリー宮殿で暮らす私たちの日々は、ますます厳しくなっていました。当初は、私の寝室の中に監視人を置くことさえ提案されましたが、さすがにそれはあまりにもプライバシーを損ねると、反対されほっとしました。宮殿に入る人のチェックも厳しく、許可書を見せることが義務づけられるようになりました。
それまで妹一家の身に起きたことに、さほど危険を感じていないようだった私の兄、神聖ローマ皇帝レオポルト2世が、やっと動きを見せ、プロセイン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム2世との共同宣言を発布したのは、1791年8月でした。ザクセン王国のピルニッツ城が舞台だったので「ピルニッツ宣言」と呼ばれ、フランス国王の地位の安定を求めることを要求し、それが、ヨーロッパ諸国の君主にとっても重要なことであると説き、万が一の場合には、軍事介入する準備もあるという内容でした。
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「ピルニッツ宣言」が発表され、 夫の国王としてに地位が安泰となったのです。 |
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ザクセン王国のピルニッツ城。 |
この宣言は亡命貴族や反革命派を喜ばせましたが、後に革命家たちの激しい反感をかうようになるのです。「ピルニッツ宣言」のおかげかどうかはっきりわかりませんが、9月3日には憲法が設定され、9月14日に新憲法の宣誓を国王が正式に行いました。立憲君主政になり、夫は国王の地位を保てるのです。でも、今までのように絶対的な権利はなく、憲法の支配下に置かれることになったのです。
これによって革命が一段落したように思われました。その実現に大活躍したのは、ヴァレンヌからパリに戻る際に、私たちの馬車に乗り国王一家の身に同情した、あの若い議員バルナヴです。あのとき彼の好意を感じたので、いざというときには役に立ってくれると確信し、チュイルリー宮殿に戻ってから意見を求めたり、秘密の手紙を外国に送る仲介を頼んだりしていました。彼は誰よりも私に忠実でした。
ヴァレンヌ事件前までは、国の改革を求める多くの議員と同じように、共和派のジャコバン派に所属していたバルナヴでしたが、ヴァレンヌ逃亡以後、共和政を主張する過激なジャコバン派と対立するようになって、ラ・ファイエット将軍やパリ市長バイイなどとフイヤン派をつくり、立憲君主政を守ってくださったのです。国民議会で、反対派議員たちに立憲君主政の重要性を力強く説いたのも、チュイルリー宮殿にずっと暮らすことを国民に知らせるために、家具の注文をすすめたり、王妃が健在であることを示すために、オペラ座に行くことをすすめたのもバルナヴでした。若いのにいろいろといい考えを持っているのですが、全面的信頼は寄せていませんでした。こうした激動の時代には、いつ心変わりをするかわからないからです。そういう私も同じです。自分でも何をしたいのか、考えがまとまらないことが多かったのです。
お手紙を差し上げられません、などとフェルセンさまに書いた私でしたが、結局、心を落ち着かせるために、筆を取らないではいられなく、何通も書き、特別なルートで送っていました。誰もがだまし、だまされていた時代に、心から信頼できるのはあの方だけでした。ただ、あの方がそのすべてを手にしたかはわかりません。フェルセンさまも私宛にお手紙を書いて下さったかもしれませんが、一向に届かず、心配が日に日に大きくなるばかりでした。
こうした日々に耐えられず、ある日、心から信頼できる、ハンガリー人のエステルハージ伯爵に重要なお願いをしました。
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ヴァランタン・エステハージ伯爵。 フランス王家に忠実で、 心から信頼していたハンガリー貴族。 |
エステルハージ伯爵は、以前からフェルセンさまと私のことを知っていらした方なので、伯爵には誰にも知られたくない事も頼めたのです。エステルハージ家はハンガリーでもっとも重要な貴族で、ハンガリーとオーストリアにいくつもの豪奢なシャトーを持っていて、ハプスブルク家にとても忠実でした。大家族なのでいくつかの分家がありますが、私たちと親しかったのはヴァランタン・エステルハージ伯爵です。私より15歳年上で有能な軍人でもありました。実は、結婚前に、夫になるルイ・オーギュスト皇太子の肖像画を、オーストリアの私に届けてくださったのも、エステルハージ伯爵だったのです。ですからその時から数えると20年ほどのお付き合いです。1784年に伯爵がご結婚なさったときには、夫と揃って結婚式に出席しました。幸せな時代のとても懐かしい思い出です。
そうした伯爵に頼んだ秘め事は、フェルセンさまにリングを渡して欲しいことでした。そのリングは、革命時に数人の王党派の人が持っていたもので、表面にフランス王家の紋章の3つのユリの花が、そして裏面には「彼らを見捨てるのは臆病者」という言葉が刻んでありました。暗黙のうちに、王党派の連帯を意味するようなリングだったのです。あの方の指のサイズを知っていた私は、それを受け取ってから、自分の指にはめ、温もりを逃がさないように紙にくるみ、手紙と一緒にエステルハージ伯爵に託しました。
エステルハージ伯爵にはそれ以前にも、フェルセンさま宛てのお便りを託したことがあります。
どれほど距離があろうとも、どれほど国々が隔てていようとも、
心を離ればなれにすることは絶対にできません。
私はそれを日に日に強く感じております・・・
あの方に、偽りのない私の気持ちを伝えたかったのです。エステルハージ伯爵にあの方へのリングを託すとき、お手紙を添えました。
紙に包んであるのがあの方へのリングです。
私のために持っているようにとお伝えください。
あの方にぴったり合うサイズで、包装する前に、2日間自分の指にはめていました。
あの方に私からだと、必ずお伝えくださいませ。
あの方がどこにいらっしゃるのか私にはわかりません。
愛する人から何の連絡も受けられず、
どこに暮らしているかを知ることができないのは、恐ろしいほどの苦悩です
「あの方」は、大文字にしました。万が一を考えてお名前を書くわけにはいかないので、知恵を絞ってそうしたのです。フェルセンさまからのお便りが私の元に無事に届くようになったのは、9月末ころで、それ以降、あの方の様子が手に取るようにわかるようになりました。私たちが置かれている状況を伝えたり、考えを綴ったり、意見を求めたりしていました。お手紙はあぶり出しインクや、レモン汁を使って書いていました。火であぶったときに、初めて文字が見えてくるので、当時、秘密の通達に使っていたのです。帽子の折り返しの中に入れたり、クッキーの箱の中に入れたり、本の間にはさんだり様々な方法でお手紙を送っていました。1791年に私からフェルセンさまに送った手紙は11通で、フェルセンさまから受け取ったのは10通でした。あの方からのお手紙から、亡命貴族にお会いになったり、私のお兄さまに援助を求めるためにウィーンに行ったり、スウェーデン国王とコンタクトを取ったりして、積極的に動いていらしたことがわかりました。
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フェルセンさまが愛用していたパリ最古の薬局。 1715年にすでに存在していて、 1762年に科学アカデミー会員のカデ・ドゥ・ガシクールの時代に、 大評判になりフェルセンさまも利用していたのです。 |
夫が新憲法の宣誓を行ったために、外国元首たちは、フランス国王は国民の決定に従う弱腰、と見るようになったのは予期せぬ出来事でした。でもヴァレンヌ逃亡の失敗で、私たちの立場が弱くなったので、仕方なかったのです。信頼を取り戻すために、私がそれぞれの君主宛てにお手紙を書くことを、フェルセンさまが提案され、ロシアのエカテリーナ2世女帝やスペイン国王、イギリス国王に援助を依頼しましたが、どなたも自国のことでいっぱいで、フランスの国王一家の運命など、どうでもよかったようでした。それに反して、亡命貴族たちはますます結束し、いつでもフランスに攻め入る準備があるような脅しをし、革命家たちを刺激していました。それに大きな危険を感じた私は、兄レオポルト2世に、自重する命令を出すようにと頼んだほとでした。