2025年11月4日

マリー・アントワネット自叙伝 59

 夫の尋問が始まりました

ルイ・カペーと呼ばれるようになった夫が、尋問のために国民公会の議場に出頭した最初の日は1792年12月11日でした。 

カペーという苗字はカペー王朝を築いたユーグ・カペーから選んだのです。ユーグ・カペーは10世紀のフランス国王で勢力をのばしましたが、直系が絶えたために、カペー家分家のヴァロア家が跡を継ぎました。その直径も絶えると、今度は、同じカペー家一族のブルボン家に引き継がれたのです。私たちはそのブルボン家です。ヴァロアもブルボンもカペーの分家なので、夫はその本家の名で呼ばれることになったのです。

カペー王朝を築いた
ユーグ・カペ―(940-996)

その日の朝、太鼓が鳴り響き、塔の周りに大砲を取り付けてあるのが見えました。正午ちょっと前に夫の部屋に役人が2人入り、息子とゲームを楽しんでいた夫に向かって冷たく言ったのです。

「今後、カペーの息子は、母親と暮らすことになった」

驚いた夫が言葉を発する間もなく、2人の役人はルイ・シャルルを夫から引き離し、部屋の外へと連れて出したのでした。


最愛の息子を取り上げられた衝撃で、しばらくの間、意気消沈して座り込んでいた夫のもとに、今度はパリ市長、検事、役人が大きな足音を響かせながら入り、尋問のために議会に向かうと告げたのです。


尋問を受けるために議会へ向かう夫。

息子を取り上げられてから議会に向かうまでの間、たとえわずかな時間であっても、息子をこの胸に抱いていたかったと、夫は涙を浮かべながら不満を訴えたそうです。ところが、例え王であろうとも、一般国民と同じように子供への愛を持っていることも理解されないまま、議会に連れて行かれ、議長ベルトラン・バレールから数多くの尋問を受けたのでした。


国民公会議長の
ベルトラン・バレール。

そのひとつひとつに、誤解を招かないようにこたえるのは並大抵なことではありません。雄弁からほど遠く、説得力に欠け、自分を守るすべを知らないあまりにも純粋な夫は、四面楚歌をどのように耐えていたのか。その時は、夫を援護する弁護士もいなかったのです。


国民公会議長バレールは、当時37歳で飛びぬけて雄弁だったそうです。書記が33もの起訴状を読み上げた後、1歳年長の夫を目の前にしながら、バレールは短い言葉を発しました。

「ルイ・カペー。国民公会はあなたを裁判にかけることを決定したのである」

議長の乾いた冷たい言葉が終り、それまで立たされていた夫が椅子に腰かけ、尋問が始まりました。

 

尋問を受ける夫

「1789年6月に、誕生したばかりの憲法制定国民議会の解散を試みたか」

「数人の議員の買収を試みたか。特にミラボーを」

「1789年6月20日にヴァレンヌに逃亡したか」

「チュイルリー宮殿防御の衛兵の強化を図ったか」

「1791年7月17日に、王政廃止を求めてシャン・ド・マルスに集合した民衆虐殺を命じたか」

「ヨーロッパ強国の軍事援助を得て、絶対君主制復活を準備したか」

「コブレンツに駐屯する亡命貴族軍と連絡を取っていたか。援助資金の調達をしたか」

「パリ市内の反革命派の便宜のために二重スパイを雇っていたか」

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小心な夫は矢継ぎ早の尋問に丁寧にこたえていたそうですが、説得力には欠けていたのです。弁護士を付けて欲しいという夫の唯一の願いは受け入れられ、後日の尋問のために3人の有能な弁護士が選ばれました。ドゥ・セーズ、マルゼルブ、トロンシェでした。

ドゥ・セーズ  1748年ボルドー生まれ

マルゼルブ 1721年パリ生まれ
トロンシェ 1726年パリ生まれ


尋問が始まった12月11日から夫は家族と離ればなれで、侍従クレリーとふたりで暮らすことになりました。私たちは同じ塔にいながら会うことが許されなかったのです。クレリーは私たちに近づいてはならないと命令されていたので、夫の消息を知ることはできませんでした。新聞売りがときどき大きな声でその日の出来事を告げていたので、それで塔の外の様子をわずかに知ることができただけでした。

孤独な日々をひたすら耐えていた夫。

12月19日は娘のお誕生日でした。その日でさえも、夫は娘に会えなかったのです。夫は大きな瞳に涙を浮かべながら、役人たちがいる前でクレリ―に「今日は娘の誕生日だ。それなのに、会うことも許されない・・・」と細い声で言ったそうです。役人たちは、すべての父親も抱く子供への愛に心を打たれたでしょうが、誰もが黙っていました。夫への同情が恐ろしい結果を招くことを恐れ、お互いに警戒していたからでしょう。残虐極まりないことです。

娘のマリー・テレーズ・シャルロット
私たちの最初の子供でした。

2025年11月1日

アール・デコ100周年記念展

 1925年に開催されたパリ万博装飾美術博覧会で脚光を浴びたアール・デコから、早くも100年。それを記念する大規模な展覧会を、リヴォリ通りの装飾芸術美術館が開催。展示作品は1000点にものぼり、2026年4月26日まで続く。家具、ジュエリー、様々なオブジェ、ファッションなど多岐に及ぶ当時の作品は革新的で、現代的で、一世を風靡した。アール・デコは建築にも大きな影響を与え、ニューヨークやパリに現在も健在。

展示会場は3つのフロアに及び、ほとんどは当時のオリジナル作品。
それに加えて新たにクリエイトしたのもある。

注目のオリエント急行は一階にあり、すごい人気。
パリとイスタンブールを繋ぐ豪華列車への憧れは、
今でも衰えることはない。
1883年運航開始、2009年廃止。

座り心地良さそうなサロンのソファ。

新たなオリエント急行のダイニング車。
ボヘミアガラスの装飾、クリストフルのシルバーウエア、
アビランドの食器が気品を放っている。

憧れのオリエント急行を目のまえにして
幸せいっぱいの私たち。

パリとアムステルダムを結ぶ列車の
ファーストクラスのサロン。1927年から1990年まで運行。
色鮮やかな椅子は、景色を見るために動かすことができる。
希望すればここで食事も可能。

アールデコの時代には多くの家具が生まれ、
斬新で知的なデザインがもてはやされていた。

ピュアなラインと植物のモチーフのハーモニ―が特徴の家具。

個性的な鏡台。

ガラスや陶磁器の作品も多く生まれた時代だった。

ひときわの輝きを放っているジュエリー。
カルティエやブッシュロンの逸品が見られるのは貴重。

当時はアールデコを愛するジャンヌ・ランバンが花を咲かせていた。
ブロドリーはため息がでるほど緻密。

夜毎、着飾った紳士、淑女が美味と会話を楽しんだ、
世界最長の313mを誇る豪華客船ノルマンディー号の
グランド・ダイニングルーム。

ノルマンディー号のグランド・ダイニングルーム全景。

このような豪華客船に乗れるのは裕福な人のみ。
長い航海の間に何度も服も靴も変えるから、
特別なトランクが必要。
30足の靴専用のルイ・ヴィトンのトランク。
もちろん、特別オーダー。

このような展覧会を見ると、アールデコの時代の豊かさがよくわかる。イヴ・サンローランはアールデコを絶賛し、特に家具を数多くコレクションし、それに包まれたパリの邸宅に暮らしていたことが思い出される。

2025年10月24日

新カルティエ現代美術財団、パレロワイヤルにオープン

 パリ真っ只中のルーヴル美術館のすぐ隣という最高に贅沢な場に、カルティエ現代美術財団が、10年の歳月を費やして完成。建築家はフランスが誇る現代建築の鬼才、ジャン・ヌーヴェル。14区にあった最初の財団と同じ建築家。

総面積8500m²の壁はガラス張りで、中から外が見えるし、外から中が見え、財団とパリが一体となり呼応しているのがよくわかる。それはまた、周囲の歴史ある建造物とコンテンポラリーな財団の美しい交流だ。

建物自体は1855年の万博に合わせて建築した歴史あるもので、典型的なオスマン様式。当時はホテル、その後百貨店になり、さらにその後、骨董品専門店が並び、骨董品愛好家のお気に入りの場になっていた。そこに生まれた現代美術を展示するのにふさわしいコンテンポラリーな空間。地下、一階、二階に広がる展示スペースは6500m²。中央は吹き抜けのようになっているので、上からも下からも他の階の作品の一部が見える。その間を自由が飛び交っているようで、現代を生きている実感を感じる。

14区から新たな拠点に移った財団のオープニング記念の展覧会では、これまでの40年間に展示した4500点の中から選んだ100人のアーティストの作品を順次披露する予定。パリに新たなモニュメントが加わったようで、そこから明るい未来が生まれそう。

世界が注目する石上純也さんの作品が
エントランス近くで視線を集めます。

プレスプレヴューの日に、本人にお会いできて
大感激。もの静かで繊細でエレガントな建築家。

一階の奥に展示されている『浜辺』Raymond Hains作

木のお面 David Hammons作


地下で異彩を放っている「サロン」
Freddy Mamani作

地下、一階、二階の中央から各階の展示作品の一部が見える。
解放感があり、自由が飛び交っているよう。

都会に緑を運んで来たような作品もあり、
爽やかさを散りばめている。Gran Chaco作

『木の上の二二」 Agnès Varda作
ネコが大好きな私が、一番気に入った作品。
すました表情で、凛と立っているのがいかにもネコらしい。

当初ホテルだった時代に、かの福沢諭吉が泊まり『ルーヴル美術館近くの同じ名のホテル』と記録しているので、私たち日本人には格別な感慨がある。正式なホテル名は『ル・グラン・オテル・デュ・ルーヴル』

2025年10月21日

ルーヴル美術館、王家の宝飾品が盗まれた

 10月19日の朝9時半ころだった。4人の強盗がルーヴル美術館の窓ガラスを打ち破り、アポロンのギャラリーに進入し、歴史的に重要な宝飾品を奪い逃走。この前代未聞の出来事に、フランスだけでなく、世界中が驚愕。盗まれたのは歴代の王族が持っていた重要な逸品ばかり。それだけに衝撃が大きい。

数年前にこのアポロンのギャラリーを訪れ、ブログに書いたので詳しいことは下記の投稿をご覧下さい。

http://rumiko-paris.blogspot.com/2022/07/blog-post_12.htm

盗難された8つの宝飾品は、フランスの重要な歴史を語る計り知れないほど貴重なものばかり。以前訪れたときに写真を撮ったジュエリーもあり、思わず体が震えました。下の3枚の写真です。

ナポレオン1世の二番目のお妃、
マリー・ルイーズのネックレスとイヤリング。
ネックレスに使用されたエメラルドは32個。
ダイヤモンドは1138個。
ナポレオン3世のお妃ウジェニ―の
212個のパール、1998個のダイヤモンドがきらめくティアラ。
ウジェニー皇后のウエストの前を飾るゴージャスなジュエリー。
ホワイトダイヤモンド2434個。ピンクダイヤモンド196個。

アポロンのギャラリーには、マリー・アントワネットの娘が結婚後身につけていたジュエリーもあり、悲惨な少女時代を送ったけれど、結婚し華やかな日々を送った時代もあったのかと、 心が温まったものです。幸いなことに、今回の被害にはあっていないようです。

2025年10月19日

待望のセドリック・グロレのチョコレート店オープン

 世界でもっとも優秀なパティシェ、セドリック・グロレの人気が止まらない。彼のスイーツのどのお店も長~い長~い行列が出来るのは、おなじみ。それが、最初のお店をオープンした2018年から続いているのだから、すごい。

そのパティシェの大スター、セドリック・グロレがオペラ通りに新たにチョコレート専門店を10月18日にオープン。多分、大行列だろうと思いつつ行ってみると・・・もう、すごいなんてものではない。一体いつになったら中に入れるかわからないのに、誰もが辛抱強く並んでいる。複数の黒服のスタッフが、まるで警官のように、並んでいる人が通行人のじゃまにならないように誘導している。関心なのは誰もが笑顔をたやさないこと。カップルもいれば、子供連れ家族もいる。若者たちのグループもあちこちに。誰もがまるで、並ぶのが楽しいみたいな爽やかな雰囲気。

長い行列のセドリック・グロレのチョコレート店。
左角の白い壁がそのお店。

研ぎ澄まされた感性の持ち主だけあって、ブティックは凝りに凝っている。外側の装飾も、店内の装飾も、チョコレート一色。入り口のドアの取っ手はカカオの木のフォルムで、それを開けると左手に大きな木がある。たくさんの実を付けたチョコの木だ。正面の壁の一部はチョコがとけて流れているような装飾でアーティスティック。その他の壁はチョコレートバーが敷き詰められている。居並ぶカウンターの台もすべてチョコ。床のテラゾーはミルク、ホワイト、ダークの3色のチョコの色。何と現実離れした不思議な空間よ。

エントランスのドアの枠は
もちろんチョコレート色。
ここからチョコワールドが始まる。
床のテラゾーは3色のチョコカラー。
エントランスを入ってすぐ左に
びっくりするほ大きなチョコの木がある。

チョコの木になる実の数と大きさに圧倒される。

カウンターの台もチョコを敷き詰めたようで、
思わず手でつまみたくなる。

道路に面したショーウインドーも
チョコを敷き詰めた装飾で、魅惑的。
こうなると、やはり例え長く並んでも中に入りたくなる。

このところチョコレートブームが続いていて、オペラ通りの出店が後をたたない。連日チョコなしで過ごせない私には、とってもうれしいこと。

2025年10月12日

マリー・アントワネット自叙伝 58

ルイ・カペーを裁判にかけるべきかどうか

国民公会では、ジロンド派とジャコバン派の勢力争いが、日を追って激しくなっていたようです。私たちは、もちろん、穏健なジロンド派が過激なジャコバン派をおさえることを、心底から願っていたのですが、実際にはジャコバン派が優位に立っていたのです。ブルジョアジー出身が多いジロンド派よりも、庶民出の議員が多いジャバン派の方が、雄弁で説得力があったのです。

ジャコバン派の集会場は
パリのジャコバン修道院にありました。


夫の運命を決める裁判を行うことに、ジロンド派は消極的だったのですが、一般市民になったルイ・カペーは、平民と同じように裁かれなけれならないと、ジャコバン派は強く主張していました。


中でも、25歳の最年少の議員サン=ジュストは、ロマンティックな美しい容姿とは裏腹に、冷酷な意見を国民公会で述べ、議員たちの決断に大きな影響を与えたのです。後年に「革命の大天使」と呼ばれるサン=ジュストは、11月13日の演説で、革命は君主制という過去ときっぱり決別しなければ確立しないと主張。国王として君臨すること自体が大きな罪であり、そうした人物には裁判すら必要ない、直ちに処刑し、その存在を消さねばならないと熱弁をふるったのです。


特に有名なのは彼が発した「人は罪なくして王たりえない」という表現です。つまり、国王の存在自体が罪であり、王は例え何の犯罪をおかさなくても、王であることが悪だというのです。だから裁判にかける必要すらないという発言は、議員たちにとって衝撃で、誰もこの言葉の暴力に逆らうこともなかったのです。夫は裁判にかけられる前に、すでに判決を下されていたと同じです。

ルイ・アントワーヌ・レオン・ドゥ・サン=ジュスト

結局「フランスに対する陰謀及び人類に対する犯罪を犯した」というわかりにくい理由で、裁判が行われることが決定し、夫に関する証拠品が、調査委員たちによって徹底的に集められるようになったのです。


次々と見つけた中でもっとも不利だったのは、チュイルリー宮殿内の「鉄の戸棚」に隠していた多くの秘密書類でした。

「鉄の戸棚」は夫の居室と息子の部屋の間の通路の壁の中に、極秘のうちに造らせた戸棚で、ごくわずかな人しか知りませんでした。その存在を内務大臣ロランに密告したのは、それを造ったフランソワ・ギャマン本人だったのです。


チュイルリー宮殿内に造らせた「鉄の戸棚」
ここには数多くの重要な機密書類が隠されていました。

ヴェルサイユ宮殿時代からギャマンは錠前造りの達人で、宮殿のすべての錠前を担当し夫の信頼を受けていました。

日記を毎日書いていた几帳面な夫は、外国も含め、多くの人とやり取りしていた手紙をすべて大切に保管していました。ヴァレンヌ逃亡失敗の後、刻々と迫る危険から、外国との密通の手紙や書類を隠す必要を感じ、心から信用していたギャマンに「鉄の戸棚」を造るよう依頼したのです。

機械に格別な興味を抱いていた夫は、ヴェルサイユ宮殿の最上階に自分のアトリエを持っていて、考案したり実験したりしていました。そのアトリエにギャマンを招き、数時間一緒に閉じこもり、意見を聞いたり試作していたほど身近な存在の人だったのです。それなのに、一般市民になった夫に、もう用はないとばかりに、政府に密告し、地位と報酬を要求したのです。

夫はヴェルサイユ宮殿の最上階にアトリエを持っていて、
そこで錠前を造ったり、その他、さまざまな実験をしていました。
そこには限られた人しか入れなかったのですが、
信用していたギャマンを数回招き、意見の交換などもしていたのです。

「鉄の戸棚」の中は細かく分かれていて、書類や手紙はそれぞれ引き出しの中に整理されていました。壁の一部を掘ってその中に戸棚をはめ込み、鉄の扉でしっかり閉じられていてために「鉄の戸棚」と呼ばれるのです。

そのドアを開けるためにはいくつもの鍵が必要なほど厳重でした。ギャマンから「鉄の戸棚」の存在と、その中に隠されている多くの機密書類を知らされていた内務大臣ロランは、それを共和制が生まれて間もない1792年11月20日に公にしました。ロランはどちらかというと真面目な性格で、利発で雄弁なロラン夫人の方が実行力があり、彼女の内助の功のお蔭で内務大臣になったのです。実際、ロラン夫人は「ジロンド派の女王」と呼ばれていたのです。


内務大臣
ジャン=マリー・ロラン・ドゥ・ラ・プラティエール

「ジロンド派の女王」
ロラン夫人


652 もの機密書類があったことを知った国民は、かつての国王に裏切られていたことに激怒し、革命家たちはこれでルイ・カペーを極刑に追いやれると狂喜したのです。どんなに優秀な弁護士がいようとも、夫が裁判に勝てる希望は始まる前から薄かったのです。動かせない証拠がびっしり詰まっている「鉄の戸棚」が見つかったのは致命的でした。

2025年10月5日

ハンカチはすべて正方形に、ルイ16世の法令じゃ

エジプトの時代から存在していたハンカチは、高貴な人々のみが使用していた贅沢品だった。フランスの王侯貴族が愛用するようになったのは、17世紀、ルイ14世の時代。レース飾りや金糸銀糸の刺繍入りだけでなく、パールを付けたのさえあった。布に関してはシルクや麻で、実用的というより身だしなみのためであり、人目をひくためだった。形もまちまちで、長方形があるかと思うと、円形や驚くことに三角形さえもあった。

ハンカチと言えば、ルイ15世に近づくために、夜会でわざとハンカチを落とし、国王の気を引くことに成功し、ついには公式愛妾になったポンパドゥール夫人を思い出す。

18世紀には、
レースのハンカチが好まれていた。

19世紀になると、
貴婦人のおしゃれの仕上げに、
ハンカチは欠かせなくなった。

特別な感性の持ち主だったマリー・アントワネットは、当時のハンカチの形がエレガントでなく、自分の好みに合わないと嫌っていた。彼女が気に入っていたのは正方形のハンカチで、これはルイ14世の時世に見られたとされている。

内気で真面目なルイ16世

華やかなオーラを放つ
マリー・アントワネット

妃のためなら何でもするルイ16世は、法令を発布する。1784年9月23日、ヴェルサイユ宮殿で王の開封特許状が提出され、1784年12月10日、高等法院で登録された。

ルイ16世が
ヴェルサイユ宮殿で提出した開封特許状

フランスのハンカチはすべて正方形に統一する。縦と横の長さを同じに製作し、違反した場合した場合には300リーヴルの罰金及び没収に処すという厳しい内容だった。

1793年1月21日、ルイ16世がコンコルド広場で処刑される歳に、死刑執行人サンソンが国王の両手を背中で縛ったのは、国王が持っていたハンカチだった。他の処刑者は縄だったが、ルイ16世だけがハンカチだった。

正方形のハンカチは、その後、世界中に広まったのだから、やはりマリー・アントワネットは唯一無二の女性と言える。

19世紀初期の優雅なモチーフ

19世紀半ばのハンカチ

19世紀半ばのフェミニンで
きめ細やかななモチーフ

19世紀末の絵画のようなデザイン