2017年10月29日

メトロの駅名は語る 59

La Motte-Piquet  Grenelle
ラ・モット-ピケ=グルネル(6、8、10号線)

有能な海軍総督ピケ・ド・ラ・モットと、かつてあったグルネル平原の二つの名にちなむ駅。

18世紀に大活躍した
海軍の有能な軍人、ラ・モット-ピケ。
ピケ・ド・ラ・モットは通常ラ・モット-ピケと呼ばれ、ルイ15世、ルイ16世の時世に50年以上もの長い間活躍した輝かしい海軍軍人です。

ルイ15世の時代に、継承問題をめぐってプロセイン王国とオーストリアの間で「七年戦争」が起きます。
フランスはオーストリア側につき、その際に、強力なイギリス海軍相手に戦闘を繰り広げたのがラ・モット-ピケでした。
対イギリス戦で
ラ・モット-ピケが使用した帆走軽巡洋艦。
その後ルイ16世の時代にアメリカ独立戦争に参加。彼は74門の戦艦ル・ロビュストでアメリカへと向かいます。

フランス最大の軍港ブレストに停泊してるル・ロビュストを、マリー・アントワネットの兄ヨーゼフ2世が出航前に訪れ、アメリカが独立した際に、ヨーゼフ2世はラ・モット-ピケにお祝いの手紙を送っています。
アメリカ独立戦争で活躍した戦艦ラ・ロビュスト。
グルネルはセーヌ左岸のアンヴァリッド、ジャヴェル、シテ島近くまで広がる広大な平原でした。

52年にこの平原でローマ人とフランス人の先祖ゴール人の間で激戦があり、勝利を得たローマ人が「シャン・ド・マルス」と名をつけ、それが現在も残っています。

6世紀、国王クロヴィスがサント・ジュヌヴィエーヴ修道院を建造させ、それ以降グルネル平原のほとんどがこの修道院所属になります。けれどもその後パリ市改造に伴い領地は徐々に少なくなります。
オランダとの戦いに出る前に
グルネル平原にアンヴァリッド建築を命じるルイ14世。
ルイ14世がグルネル平原に17世紀に建築させたアンヴァリッド近くには、グルネル城もありました。

長年に渡ってトレヴィル伯爵が別荘として使用していましたが、ルイ15世の時世に陸軍士官学校が建築されるとグルネル城はその研究機関となり、革命の際には火薬製造所にされます。
当初は貴族の別荘だったグルネル城。
多くの歴史を語るグルネル城でしたが、1794年の爆発事故で大損害を受けその後姿を消してしまいました。今は跡形もありません。

2017年10月25日

パリの犬たち 145

秋だから・・・
パリの秋にはこげ茶がぴったり。
気品があるし、ナンとなく知的。
だからピカピカ光るこげ茶のボクはとってもモテル。

それを見てママンもこげ茶のバッグを買って目立ちたがる。
でも、注目度はボクのほうが何倍も上。

ちゃんと薄目をあけて観察しているんだワン。

2017年10月22日

メトロの駅名は語る 58

Dupleix
デュプレクス(6号線)

17、18世紀に活躍したジョゼフ=フランソワ・デュプレクスの名が冠されています。
ジュゼフ=フランソワ・デュプレクス(1697-1763)
彼は有能な軍人でしたが、その名はむしろフランス東インド会社で活躍した人物として形跡を残しています。とはいえ、デュプレクスの名を知っているフランス人は少ないのが事実。

インド東部ポンディシェリにあったフランス東インド会社の建造物。
フランス東インド会社はアンリ4世によって1604年に創立されましたが、大きな活躍はなく、いつの間に忘れられます。
それを復活させたのがルイ14世で、1664年のことでした。

それ以来、インドから胡椒や布地、コーヒー、ティーなどを輸入し、フランスはインドで幅をきかせるようになります。

デカン高原に至るまで勢力をのばしたデュプレクスと
デカンの代表との会談。

ポンディシェリにあったフランス総督の屋敷の庭園。
インド東部の一部はフランスの植民地となり、その首都がポンディシェリに置かれ繁栄し、デュプレクスはフランス領インド総督に任命されます。

けれども西洋にとって魅惑的なインドを巡って、ヨーロッパ諸国の競争は年々厳しさが増し、ついにオランダとイギリスに首位を奪われます。
その結果フランス東インド会社は徐々に衰弱し、革命後の1795年に消滅。

デュプレクスはそれ以前の1754年、フランス本国との意見の相違で解任され、1763年にパリで66歳の生涯をひっそりと閉じました。

2017年10月20日

ホット・チョコレートのシーズン

ホット・チョコレートの宣伝を、あちらこちらで見かけるシーズン到来。

固形チョコとミルクで作るこの飲み物は、健康にもいいし体が一瞬のうちにホカホカ。こってりした濃厚な味がパリジャン、パリジェンヌのお気に入りのようです。

似通った味のココアは、粉末チョコを使用するので味が薄めです。

ホット・チョコレートはフランス語ではショコラ・ショ。
抹茶やアイスクリーム、ホイップクリーム、ナッツなどを加えたのもありますが、私は純粋なショコラ・ショが好き。

心を誘うホームメイドのホット・チョコレートの宣伝。
秋のパリにぴったり。
チョコレート(カカオ豆)は中央アメリカで栽培されていた。 

それを
第一説 コロンブスがスペインにもたらす。
第二説 メキシコ高原のアステカ帝国を征服したコルテスが
    本国スペインに紹介。

いずれにしても、ヨーロッパで最初にチョコレートが登場したのはスペイン。

1615年、スペイン王女アンヌ・ドートリッシュが国王ルイ13世と結婚したときにフランスに持参。

続いて、ルイ14世と結婚したスペイン王女マリー・テレーズ・ドートリッシュが、チョコレートを飲む習慣を宮廷に広める。
ルイ13世と結婚したアンヌ・ドートリッシュ。
ルイ14世とマリー・テレーズ・ドートリッシュの結婚式。
1660年6月9日。
このような経緯でチョコレートがフランス宮廷で愛飲されるようになりました。

ルイ15世はプライベートキッチンでショコラ・ショを自分で作っていたほどの愛好家。

国王のレシピは・・・・
お湯と同じ分量の固形チョコを入れ弱火でゆっくり溶かす。
飲む直前に卵の黄身を入れ、沸騰しないように気を配りながら弱い火にかけ、かき混ぜる。

マリー・アントワネットが1770年に王太子、後のルイ16世に嫁いだとき、自分のチョコレート職人を来させます。その職人によって新しいレシピが生まれ、オレンジの花やアーモンドが加えられます。

国王一家を模倣して貴族たちも愛飲するようになり、やがて国民の間にも広がっていったのです。

古き良き時代から、特にご婦人に愛されていたショコラ・ショ。
チョコレートを飲む習慣はマヤ文明の時代からあったそうですが、ショコラ・ショはなぜかパリにふさわしい味に思えます。寒い日はこれに限る。

2017年10月19日

メトロの駅名は語る 57

Bir- Hakeim
ビル・アケム(6号線)
リビアのビル・アケムでの戦いが、駅名の起源になっています。
ビル・アケムはリビア砂漠のオアシスで、トルコ帝国が威勢をふるっていた時代には砦がありました。その地で第二次世界大戦の際にドイツ・イタリア軍相手に戦ったのは自由フランス軍。
「自由フランス軍」というのは、第二次世界大戦初期にドイツ支配に陥ったフランスから抜け出た有志たちが、祖国を救うために結束して成立した軍隊組織です。
リビア砂漠のビル・アケムで戦う自由フランス軍。
ビル・アケムの砦をめぐる戦いは、1942年5月26日から6月11日まで続きます。その戦いで活躍した自由フランス軍の司令官はケーニグ。
一方ドイツ軍の司令官はロンメル。砂漠での戦いの中でもっとも厳しかったとロンメルが語ったように、ビル・アケムの戦いは過酷なものでした。
ビル・アケムから撤退する兵士たち。
約2週間の激しい戦闘を繰り広げ、ドイツ軍を砂漠の中に釘付けした後、ケーニグはビル・アケムから自由フランス軍の撤退を決断。

その2週間は非常に重要で、リビアの隣国エジプトで苦戦していた連合国イギリスが、その間に軍の再編成を行い、ドイツ軍はイギリス打倒の機会を失ったのです。
中央でバトンと手にしているのがビル・アケムの戦いの英雄ケーニグ。
その左で微笑んでいるのが連合国遠征軍最高司令官アイゼンハワー。
後にアメリカ大統領になります。
ビル・アケムの戦いがエジプトのイギリス軍に大きな貢献したと、チャーチルは自由フランス軍の功績を称えます。それ以前は、寄せ集めの軍人ばかりだと評価が少なかったのですが、この戦いで一挙に名声を博したのでした。

2017年10月18日

芸術の都パリの秋  続き

ヴァンドーム広場も国際コンテポラリーアートフェアの会場です。
今回は「水の円柱」というタイトルの作品が展示されています。

多分、広場の中央にあるナポレオンが頂上に君臨している円柱に合わせて、
このようなタイトルにしたのでは、と私は勝手に思っています。

個人個人で好きなように解釈していいのだと思う。
ルイ14世の時代の重厚な建造物と、コンテンポラリーなアートが共存して、
不思議な世界を造っています。

2017年10月15日

芸術の都パリの秋。

国際コンテンポラリーアートフェア、FIACが始まります。
この時期には屋外でも現代作家の作品を鑑賞できるので、パリ散策がとても楽しい。

25度という信じられない気温に誘われて、たくさんの人が憩っているチュイルリー公園。そこに展示されている独創的なアイディアの作品を数点ご紹介します。

アートフェアは他の場所でも開催されているので、今回はその第一回目のご報告。続きをお楽しみに。
「最後の叫び」
「飛ぶ機械」
「スターダスト」
「糸杉の森」
「波紋」

2017年10月13日

ナポレオン史学会主催の講演

今回の講演はとても楽しみでした。
何しろ会場が、かの著名な3つ星レストラン、ルドワイヤン。

なので、このお知らせを受けた当日に申し込みました。人数に制限ありと書いてあったから真剣でした。

ルドワイヤン二階の個室が講演の会場。
一階のメインダイニングルームと、
二階のシャンゼリゼが見える部屋は知っていましたが、
このプライベート・ルームは初めて。
ベランダにはエレガントな女性像がいくつかあって貴族の館のようです。
「あなたのお名前は出席者のリストに載せました」
とメールでお返事をいただいたときは、本当にうれしかった。

講演が始まる前に交代で記念撮影。
こうした席にはクラシックな服装で行くようにしています。
講演のテーマは、過去から現在に至るまでのアメリカとフランスの軍事関係。
ずいぶんとお堅いテーマですが、経済が最悪だったルイ16世の時代に、アメリ独立戦争に大々的な援助を行ったフランス。

第二次世界大戦のときにはノルマンディーに上陸し、ドイツ支配からのフランス開放に貢献をなしたアメリカ軍。
このようにアメリカとフランスの関係は深いのです。

アメリカ人大佐ピーター氏。流暢なフランス語で講演。
手にしているのはナポレオンの戦闘の地図帳。
講演を行ったのはアメリカ人大佐。
アメリカ陸軍士官学校ウエストポイントの教授でもある大佐は、流暢なフランス語で講演を続け圧倒されました。

一番興味深かったのは、アメリカがナポレオンの戦略を今でも評価していること。ナポレオン崇拝者ばかりの史学会会員は、この話に大満足。

ノルマンデイー上陸作戦の激戦地、ユタ・ビーチで戦った
フランスの英雄がこの日の特別ゲスト。
90歳を超えているのにお元気で、しかもエレガント。
いろいろお勉強になりました。
講演の最後に史学会会長がノルマンディー上陸作戦の際、ユタ・ビーチで活躍した英雄をご紹介。

その方は何と入り口でお会いし、「どうぞお先に」とエレガントに微笑んでくださった殿方。もちろん「いいえ、そちらこそお先にいらしてください」とお返事しました。

服装にしても話し方にしても印象に残る気品ある紳士で、どなたかしらと一瞬思った方でした。
激戦地で戦った英雄を目の舞にして、
「貴方のような方にお会いできて大変光栄です」
と声をかけずにはいられませんでした。
二階の壁に、ルドワイヤンが創立された年号1792年と、
当時の様子を描いた絵が飾られています。
次回の講演はテーブル・アートがテーマ。ルドワイヤンが会場になるそうなので、また早めに申し込まなくては。

2017年10月12日

パリの犬たち 144

英語がわからない。
フランス語で育ったボクは英語がわからないよ。
ね、これ英語でしょ、どう発音するの、どういう意味なの?
エッ、ナンだって?もう一度言ってみて。
・・・・・・・
???
あ〜、ちっともわからない。
もうすっかり自信がなくなったワン。
これでもインテリとほめられていたのに・・・・

2017年10月10日

メトロの駅名は語る 56

Passy
パッシー(6号線)

以前はパリ近郊の村だったパッシー。その名が駅名になっています。

このパッシー村がパリの仲間入りをしたのは1860年のこと。
それまでは、風車がいくつもあるのどかな村で、それに魅了されて多くの著名人が暮らしていました。

フランスの文豪バルザックが暮らしていた家。
作家バルザックや詩人ラマルティーヌ、イタリアの作曲家ヴェルディも暮していたことがあります。

同じようにイタリア人の作曲家ロッシニーは有名な美食家で、引退後は料理に夢中になり、レストランを開き、多くのレシピも残しました。
彼もパッシーに暮らしこの地で86歳の生涯を閉じます。

ベンジャミン・フランクリンが住んでいた豪邸。
庭園から見た館。
アメリカの政治家ベンジャミン・フランクリンは、パッシーに10年間も暮らしていました。

駐仏アメリカ大使だったフランクリンは、フランスがアメリカ独立戦争を支援するようルイ16世に嘆願します。

100ドル紙幣の肖像画になっている
ベンジャミン・フランクリン。
当初、ルイ16世は財政困難を理由に拒否していましたが、執拗な説得に折れて独立戦争に参加。フランスの参戦も得たアメリカはイギリスからの独立を実現しましたが、フランス経済は最悪の状態に追い込まれ、その影響もあり1789年に革命が起きました。

セーヌ川を見下ろせる最高の地に建築されたパッシー城。
19世紀に敷地が分割され、今は面影は残っていません。
パリ近郊の牧歌的情緒があるパッシーには、広大な敷地の中に美しい姿を見せる邸宅がいくつもありました。

そのひとつが、現在のラジオ局からアヴェニュー・モザールまで続く広大な敷地の中に建築されたパッシー城。18世紀からブランヴィリエ城と呼ばれていた壮麗なシャトーです。

14世紀に建築され、貴族や銀行家、実業家が贅をつくした生活を送ったのち、1826年に敷地が分割されました。

ランバル公爵夫人が住んでいた邸宅。
後年にトルコ大使館になる、それ以前の館の写真。
現在トルコ大使館所属になっているランバル館は、17世紀に建築され高位の貴族が住んでいました。

マリー・アントワネットがもっとも信頼を寄せていた
ランバル公爵夫人。
この邸宅をマリー・アントワネットが特に親しくしていたランバル公爵夫人が購入したのは1783年。

ランバル公爵夫人は革命が起きた際にロンドンに渡ります。けれども国王一家が心配のあまりパリに戻り、逮捕され、犠牲になります。

彼女のパッシーの館は荒らされ、家具は売り払われます。
革命後、病院になったり富豪の館になったり、起伏に富んだ運命をたどり、現在はトルコ大使公邸になっています。

19世紀に姿を消した道路。
この界隈に後年にパッシー広場が生まれます。
小高い地にあるパッシーはその後住宅地となり、中核をなしているパッシー通りは、小粒だけれどおしゃれなブティックが並び、特にパリ在住の日本人に人気。その中ほどにあるパッシー広場から延びる小道にも、楽しいお店がいっぱいです。

2017年10月9日

コレット。犬と犬

毎週日曜日にウィンドウのディスプレイを変えて、常に最新傾向を発信しているサントノレの伝説的セレクト・ショップ、コレット。
今年12月末で閉店の発表があってから、ますます多くの人が惜しんで足を運んでいます。

ファッションウィークのときには犬がテーマのディスプレイ。
そのウィンドウの前に本物のワンちゃんが。
犬がテーマのディスプレイのコレット。
入り口でワンちゃんが訴えています。
「ワタシは息が通っている犬よ。
ウィンドウの中の犬よりいいと思わない?」

2017年10月8日

マリー・アントワネットとフェルセンに関する本

とても嬉しいお知らせです。
久しぶりにアマゾンを見たら、
「マリー・アントワネットとフェルセン、真実の恋」が、
フランス史のベストセラー第一位。

最高に嬉しいです。
これも皆様のおかげだと心から感謝しています。
やはりマリー・アントワネットの人気は不滅。
またいつか書きたいと思っています。

引き続きよろしくお願いいたします。(他の本もよろしく)

2017年10月6日

メトロの駅名は語る 55

Trocadéro
トロカデロ(6,9号線)

スぺイン、アンダルシア州のカディスにあった「トロカデロの要塞」からこの駅名がつけられました。

スペインのトロカデロ要塞での戦い。
1823年、トロカデロの要塞でフランス軍とスぺイン自由主義者の間で、激しい戦いが繰り広げられました。

スペイン・ブルボンの国王、フェルナンド7世
1808年、ナポレオンはフランスの影響力を強めるために、同盟国スペインの国王フェルナンド7世に退位を迫り、自分の兄ジョセフを就任させました。
けれどもスペイン人の猛烈な反対にあい、彼は1813年に王座を失います。

その後、フェルナンド7世が再び即位します。
ところが、保守的なフェルナンド7世に不満を抱く自由主義者たちが結束し、運動を起こし、国王は捕らわれカディスに幽閉されます。

スペインに派遣されたフランス軍指揮官の
アングレーム公。
自由主義者を打倒し、フェルナンド7世を釈放するためにフランスは軍を派遣。その指揮をとったのはアングレーム公でした。

彼の父はルイ16世の末弟でアルトワ伯と名乗り、革命後シャルル10世としてフランス国王になった人。その息子のアングレーム公は、後にルイ16世とマリー・アントワネットの間に生まれたマリー・テレーズ王女と結婚します。

アングレーム公。
ルイ16世とマリー・アントワネットの間に生まれ
マリー・テレーズ王女と結婚。
おふたりの間に子供は生まれませんでした。
革命で捕らえられた国王一家の
唯一の生存者だったマリー・テレーズ王女。
アングレーム公指揮下のフランス軍の功績で、1823年8月31日、自由主義者たちの反乱は沈圧されフェルナンド7世は王座を取り戻します。

シャルル10世は息子アングレーム公が活躍した「トロカデロの戦い」を祝うために、1826年、シャンドマルスからシャイヨの丘まで軍事パレードを行わせます。
その際、小高いシャイヨの丘にカディスのトロカデロの要塞を再現し、息子を称えたのでした。

ナポレオンが息子ローマ王のために建築を命じた宮殿の完成予想図。
この丘の上にかつてナポレオンは、息子ローマ王のための壮麗な宮殿建築を計画しますが、皇帝の失脚でそれは夢に終わります。

そのシャイヨの丘の広場がトロカデロ広場となったのは1877年でした。
当時フランスは第三共和制で、大統領はマク・マオン。
彼の祖父はルイ15世から伯爵の称号を得た由緒ある貴族。マク・マオン自身も熱烈な王党派。そのためにアングレーム公の「トロカデロの戦い」の地名を永遠のものにしたかったのです。

1878年のパリ万博の際に建造されたトロカデロ宮。
トロカデロ宮のバルコニーで万博開催を宣言するマク・マオン大統領。
1878年にはパリ万博のためにトロカデロ宮が建造され、展示会場だけでなく
1万人収容できる劇場も造られます。

けれどもトロカデロ広場命名の3年後、共和派の大きな進出に押され、マク・マオンは大統領の座をおります。

その後パリで万博が開催されるたびにトロカデロの展示会場はにぎわい、1937年の万博の際にトロカデロ宮を取り壊し新たにシャイヨ宮を建造。

ゆるやかなカーヴを描く双翼はトロカデロ宮と同じで、中央の重厚な建物は完全に姿を消し広場となり、そこからエッフェル塔やシャンドマルスが一望できるようにしたのです。

2017年10月4日

ルイ・ヴィトン ヴァンドーム広場のフラッグシップ・ストア オープン

ルイ・ヴィトンが4年以上の年月をかけて完成させた、ヴァンドーム広場のフラッグシップ・ストアが10月4日にオープンしました。
18世紀初期に建築された邸宅を改造した
ヴァンドーム広場に面したルイ・ヴィトンのフラッグシップ・ストア

シャンゼリゼ大通りのフラッグシップ・ストアと同じように、バッグ、プレタポルテ、靴、ハイジュエリー、時計、インテリア製品など、すべてのアイテムを扱うこのストアは3500m²の広さがあり、18世紀初期に建築された由緒あるふたつの旧邸宅を合わせた画期的なもの。
内部は21世紀にふさわしくコンテポラリーで清々しい。

左にヴァンドーム広場、右にサントノレ通り、最高に贅沢なロケーション。
側面の外壁の太陽とそこから放たれる光線が眩しいほど。
ヴァンドーム広場からサントノレ通りまで延びているストアの側面は、カスティグリオン通りに面していて、外壁全体に太陽光線が散りばめられています。その実現に使用したゴールドのチューブは4キロメートルを超えるそう。

太陽には控えめながら品格を放つメゾンの名が描かれています。
眩しいほどの輝きを見せる太陽にはLouis Vuittonの文字がに描かれていて、メゾンの終わりなき飛躍を象徴しているようです。

ヴェルサイユ宮殿には、国王ルイ14世の栄華の象徴の太陽が随所に描かれています。
ルイ・ヴィトンのこの太陽を見た瞬間、それを思い出しました。

この太陽は、地球の隅々にいたるまでその輝きを届けるメゾン ルイ・ヴィトンの栄光の化身なのでしょう。
でも、永遠にこの外壁を飾っているのではないとのことなので、興味がある方は早めの足を運んでくださいね。

日暮れなると輝きが一層増します。
パリの新たな名所のようなヴァンドーム広場のルイ・ヴィトン。
実際に、この建物をバックに多くの人が記念撮影をしています。
私も、もしかしたら、いつか・・・