2021年10月17日

マリー・アントワネットのためのミサ

10月16日は王妃マリー・アントワネットの 命日。
今年、この日に、マリー・アントワネットが葬られているサン・ドニ大聖堂で、ミサが捧げられたそうです。

マリー・アントワネットお気に入りの画家、
エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ=ルブランが
王妃亡き後描いた肖像画。1800年作。


歴代のフランス王家の人々の埋葬地であるサン・ドニ大聖堂に、王妃が迎えられたのは1815年1月21日でした。それ以前は、現在パリ8区の贖罪礼拝堂がある地に葬られていたのです。革命時代にそこにマドレーヌ共同墓地があり、国王夫妻は他の犠牲者と同じように、無造作に葬られたのです。処刑場だった現在のコンコルド広場から、もっとも近い墓地だったからです。

革命後マドレーヌ共同墓地が売りに出されると、パリ高等法院の弁護士だったオリヴィエ・デクロゾーがそれを購入します。熱烈な王党派だった彼は、国王、王妃が葬られた場所をあらかじめ検討をつけていました。旧墓地が自分のものになると、国王夫妻が眠る地を柳やヒノキで囲い、心を込めて長年守り続けていたのです。

デクロゾーが長年守っていた旧マドレーヌ墓地の国王王妃の埋葬地。


ルイ16世の処刑後、ナポレオンの帝政時代が続いていましたが、ヨーロッパ諸国を敵にまわし、戦いに敗れた皇帝は失脚。その機会を狙って、ルイ16世の上の弟プロヴァンス伯が、王政復古でフランス国王の座に就きルイ18世を名乗ります。マリー・アントワネットが毛嫌いしていた、貪欲な弟。亡命していたので命拾いしたのです。

ルイ18世が即位すると、ルイ16世とマリー・アントワネットの間に生まれた唯一の生き残りの娘、アングレーム公爵夫人が、亡き両親の遺骸をサン・ドニ大聖堂に葬って欲しいと嘆願します。

困難だったとはいえ、デクロゾーのお蔭でお二人の遺骸発掘は二日間で終わりました。発掘は処刑後22年経過した1815年1月18日、19日に行われ、1月21日、ルイ16世が処刑された日に、パリの北にあるサン・ドニ大聖堂へと向かいます。その葬列は大国フランスのかつての国王夫妻にふさわしく豪華だったと記録されています。

ルイ16世とマリー・アントワネットの遺骸は立派な棺に安置され
8頭の馬がひく馬車でパリの北にあるサン・ドニ大聖堂へと向いました。

壮麗な葬儀行進は、正午にサン・ドニ大聖堂に到着。


13時15分に始まったサン・ドニ大聖堂でのミサには国王夫妻はじめ、王家の人々、貴族、大臣、軍人、各国大使などが参列。厳粛な長いミサが終ると、キャンドルのあかりと聖職者に囲まれお二人の棺は、地下の埋葬地へと運ばれました。

1815年1月21日のミサは、準備の時間が限られていたために、大聖堂内は大した飾りはなく、その翌年、1816年には壁全体にフランス王家の紋章のユリの花の刺繍を施した布がかけられ、祭壇の手前には豪華な天蓋が置かれ、亡き国王夫妻相応のセレモニーが繰り広げられました。

サン・ドニ大聖堂に葬られた翌1816年1月21日、
かつてのフランス国王夫妻にふさわしいミサが執り行われました。

1835年、ルイ・フィリップ国王の時代に
贖罪礼拝堂でミサがあげられたこともあります。

それ以降、国王と王妃の命日には、毎年ミサがあげられます。お二人の命日にミサをあげるのはサン・ドニ大聖堂だけではなく、今年はマリー・アントワネットの命日の10月16日に、リヨンやニースでもミサが捧げられたそうです。こうしたことから、共和国の国とはいえ、王朝時代にノスタルジーを抱いているフランス人が多いことがわかります。