プレタポルテに大きな貢献をした高田賢三さん。 |
「ヴァカンスはどうするの?」
賢三さんに聞かれて、
「コロナにかかるのが怖いから、パリから動かない」
と言うと、
「ぼく、どうしようかなぁ~」
賢三さんはまだ決めかねているようでした。
それから数日後、
「やっぱり、ちょっと出かけることにしたよ」
行き先を聞くと、まずギリシャに行って、その後、南仏のサン・トロペだと言う。エーゲ海のクルージングを毎年のように満喫している賢三さんだし、当時、ギリシャはコロナの感染者が少ないようだから「あらステキ。いいわね」と言ったが、サン・トロペがとても気になった。
「こんな時に、パーティー好きな人が大勢集まる街に行って大丈夫?」
と言うと、友達の別荘だから心配ない、といつもの明るい声で返事をするので、せめてマスクをしっかりしてね、と分かりきったことだと思ったけれど、忠告しないではいられなかった。
「マスクねぇ。ぼく、どうしても嫌なんだ」
「2、3日前からずっと調子が悪いんだ」
と、かなり沈んだ声。
「で、熱はあるの?」
「37,8度くらいが続いているんだ。お医者に往診を頼んだので待っている」
短い会話だったけれど、声を発するのが苦しそうで、一瞬「コロナ」の文字が素早く頭を横切った。けれども、何も言わなかった。報道されているコロナ感染者の症状に、あまりにも似ているので、怖かったから。それが、賢三さんと交わした最後の会話だった。彼は即入院し、約3週間の入院の後、10月4日、帰らぬ人となった。
賢三さんがバスティーユに暮らしていた時代に、 7年間住み込みでお料理を担当していた中山豊光さんと、彼のレストランで。 賢三さんがバスティーユを離れ、6区のアパルトマンに移ると同時に、 そこからさほど遠くない所に中山さんが、レストラン「TOYO」をオープン。 賢三さんと少なくとも月に一度は「TOYO」で食事をしていました。 行くたびに中山さんが次々にお料理を出してくれ、メニューを見ることなかった。 |
2016年6月3日。 憲法評議会でレジオンドヌール勲章を受章。 その後「TOYO」で真夜中までお祝いパーティー。 |
レセプションやディナーにも何度かご一緒させていただきました。 この日は偶然にも同じ色合いの装い。 |
その後、思いがけないことがあった。7月末にちょっとお洒落なレストランがオープンし、それを記念して数人が招待された。ソーシャルディスタンスを守って間隔を置いて椅子が並べられていて、それぞれの席には名前が書いてあり、私の右隣りは、フランス女性の名だった。席につき、右のフランス女性との会話がはずんでいた。様々な話をしているうちに、
「我が家には日本のお庭があるのよ」
と、とても気になることを言った。パリで自宅に日本庭園を持っているなんて、何と贅沢と一瞬思った。だけど、一体どこに?
「ケンゾーが持っていたバスティーユの家。それを買って住んでいるの。庭も家もほとんどそのまま使っているけれど、室内プールはテラスに変更したのよ」
ああ、あの家を、この人が買ったのだ。そこに家族で住んでいるのだ。
「バスティーユの家ね、買ったのはフランス人カップルで、とても感じがいい人たちだ。一度、食事に呼んでくれたよ」
そのように賢三さんが話してくれたのを思い出した。しかし、何という偶然、何と不思議なこと。レストランで隣り合わせになり、賢三さんの以前の家の様子を知ることが出来るなんて、思ってもいなかった。その女性の顔は柔和で、温かみがほとばしっていた。声も、やさしかった。その時、彼女が、あの家を守っているように思えた。賢三さんが何十年もの歳月と心を込めてコレクションした多くの品々は、オークションで一瞬のうちに散り散りになってしまった。一点も残らず完売だったと、マスコミが報道したのを目にした時には、心が張り裂けそうだった。けれども、バスティーユの家も庭も、ほとんど無傷で残っている。それを知ってどれほど安堵したことか。
賢三さんが旅立って1年たち、あの時と同じように秋が到来し、ファッションウイークが同じよう始まったパリ。「ケンゾー」の新しいデザイナーは〇〇とか、今回のコレクションの特徴は、などとマスコミが伝える度に、メゾン創立者である賢三さんの、あの人懐っこい笑顔を思い出さずにいられない。
笑顔を絶やさない、楽しく寛大な人でした。 |
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