2021年10月1日

高田賢三さん あれから一年

 高田賢三さんがパリで81歳の生涯を閉じて、早くも一年経ちました。年をとっても、青年のような若い精神と体を持ち続けていた賢三さんが、突然、旅立つとは、誰も想像もしていませんでした。しかも、賢三さんがこよなく愛したパリが、一番美しい 季節の秋に。

プレタポルテに大きな貢献をした高田賢三さん。

 その直前にお電話で交わした言葉を、今でもはっきり覚えています。新型コロナウイルスの拡大が心配されていた時期で、3月から約3か月間続いたフランス全土のロックダウンは、一応解除されたが、まだワクチン接種が始まっていない7月でした。
「ヴァカンスはどうするの?」
 賢三さんに聞かれて、
「コロナにかかるのが怖いから、パリから動かない」
 と言うと、
「ぼく、どうしようかなぁ~」
 賢三さんはまだ決めかねているようでした。
 それから数日後、
「やっぱり、ちょっと出かけることにしたよ」
 行き先を聞くと、まずギリシャに行って、その後、南仏のサン・トロペだと言う。エーゲ海のクルージングを毎年のように満喫している賢三さんだし、当時、ギリシャはコロナの感染者が少ないようだから「あらステキ。いいわね」と言ったが、サン・トロペがとても気になった。
「こんな時に、パーティー好きな人が大勢集まる街に行って大丈夫?」
 と言うと、友達の別荘だから心配ない、といつもの明るい声で返事をするので、せめてマスクをしっかりしてね、と分かりきったことだと思ったけれど、忠告しないではいられなかった。
「マスクねぇ。ぼく、どうしても嫌なんだ」
 と、 あまり乗り気ではなかったよう。8月末にはパリに帰って来るから、食事でもしよう、と言って電話を切り、ヴァカンスが終ってしばらくした9月中旬近くに連絡を入れたら、
「2、3日前からずっと調子が悪いんだ」
 と、かなり沈んだ声。
「で、熱はあるの?」
「37,8度くらいが続いているんだ。お医者に往診を頼んだので待っている」
 短い会話だったけれど、声を発するのが苦しそうで、一瞬「コロナ」の文字が素早く頭を横切った。けれども、何も言わなかった。報道されているコロナ感染者の症状に、あまりにも似ているので、怖かったから。それが、賢三さんと交わした最後の会話だった。彼は即入院し、約3週間の入院の後、10月4日、帰らぬ人となった。
賢三さんがバスティーユに暮らしていた時代に、
7年間住み込みでお料理を担当していた中山豊光さんと、彼のレストランで。
賢三さんがバスティーユを離れ、6区のアパルトマンに移ると同時に、
そこからさほど遠くない所に中山さんが、レストラン「TOYO」をオープン。
賢三さんと少なくとも月に一度は「TOYO」で食事をしていました。
行くたびに中山さんが次々にお料理を出してくれ、メニューを見ることなかった。


 賢三さんと親しくなったのは、15年ほど前だったと思う。様々なイヴェントでお会いして、言葉を交わすようになったように覚えている。もともと人懐っこい性格の賢三さんとの会話は楽しく、モードに限らず、料理、映画、旅など幅広かった。何よりも驚き、感心したのは、賢三さんが読書家だったこと。特に日本の歴史に関する本が好きだったし、最近は空海の本に夢中だと語っていたのを思い出す。

2016年6月3日。
憲法評議会でレジオンドヌール勲章を受章。
その後「TOYO」で真夜中までお祝いパーティー。

レセプションやディナーにも何度かご一緒させていただきました。
この日は偶然にも同じ色合いの装い。

 バスティーユの1100㎡の広大な館に暮らしていたときも、6区のアパルトマンに引っ越してからも、何度も招いてくださった。日々の生活を大切にする賢三さんにとって、インテリアは重要で、国籍や年代を問わず多くの美術品を購入し、その置き場を年中変えていたのが印象に残っている。

 賢三さん亡くなった7か月後に、彼が長年共に過ごしたコレクションが競売された。競売の数日前に、賢三さんと親交があった人だけに限り、彼のアパルトマンを再現した会場をプライベートに見れますと、オークショナーからカタログと招待状を受け取った。ずいぶん迷ったけれど、結局、行かないことにした。家具にしても、壁を飾っていた絵や、オブジェ、食器、その他の多くの品との巡り会いを語ってくれたことがあったし、それぞれに賢三さんの愛がこもっている。それが全部バラバラになってしまうことが耐えられなった。 

 その後、思いがけないことがあった。7月末にちょっとお洒落なレストランがオープンし、それを記念して数人が招待された。ソーシャルディスタンスを守って間隔を置いて椅子が並べられていて、それぞれの席には名前が書いてあり、私の右隣りは、フランス女性の名だった。席につき、右のフランス女性との会話がはずんでいた。様々な話をしているうちに、
「我が家には日本のお庭があるのよ」
 と、とても気になることを言った。パリで自宅に日本庭園を持っているなんて、何と贅沢と一瞬思った。だけど、一体どこに?
「ケンゾーが持っていたバスティーユの家。それを買って住んでいるの。庭も家もほとんどそのまま使っているけれど、室内プールはテラスに変更したのよ」
 ああ、あの家を、この人が買ったのだ。そこに家族で住んでいるのだ。
「バスティーユの家ね、買ったのはフランス人カップルで、とても感じがいい人たちだ。一度、食事に呼んでくれたよ」
 そのように賢三さんが話してくれたのを思い出した。しかし、何という偶然、何と不思議なこと。レストランで隣り合わせになり、賢三さんの以前の家の様子を知ることが出来るなんて、思ってもいなかった。その女性の顔は柔和で、温かみがほとばしっていた。声も、やさしかった。その時、彼女が、あの家を守っているように思えた。賢三さんが何十年もの歳月と心を込めてコレクションした多くの品々は、オークションで一瞬のうちに散り散りになってしまった。一点も残らず完売だったと、マスコミが報道したのを目にした時には、心が張り裂けそうだった。けれども、バスティーユの家も庭も、ほとんど無傷で残っている。それを知ってどれほど安堵したことか。

 賢三さんが旅立って1年たち、あの時と同じように秋が到来し、ファッションウイークが同じよう始まったパリ。「ケンゾー」の新しいデザイナーは〇〇とか、今回のコレクションの特徴は、などとマスコミが伝える度に、メゾン創立者である賢三さんの、あの人懐っこい笑顔を思い出さずにいられない。



笑顔を絶やさない、楽しく寛大な人でした。