2021年12月25日

メリー・クリスマス

パリの夜空にサンタクロース出現。
赤いお鼻のトナカイ、ルドルフがサンタさんをのせて心地よさそうに空を走り回ります。

ルドルフの赤いお鼻が役立つパリの夜空。
パリ市民たちに愛嬌を振りまくサンタさん。寒いのに大丈夫?

スピードアップして人々を驚かせるユーモアもあるサンタさん。


楽しいクリスマスをお過ごしください。

2021年12月19日

オベリスクが美しくなる

コンコルド広場のオベリスクが、予定では2022年6月に美しい姿を現します。
フランス人のエジプト学研究者ジャン=フランソワ・シャンポリオンが、難解なヒエログリフ(古代エジプト象形文字)解読に成功したのは、1822年9月。2022年はその200年記念の重要な年。それに合わせて、ヒエログリフが刻まれているオベリスクの修復作業が来年早々に始まるのです。

現在、作業のための足場が組まれているのですが、これがまた、芸術作品のように素晴らしい。まるでレースのように透き通って見える足場の美しさに、思わず立ち止まったほど。それでも満足しきれず、スマホで写真もとりました。

12月11日

その写真を見るたびに、その後の足場の様子が気になって、またコンコルド広場に向かい、またスマホが活躍。
今回は、足場がもっと緻密に組まれていて、ますます芸術性が高い。これに取りつかれている私は、また出向き、また写真。


12月15日


12月18日

修復工事準備中のオベリスクだけ見たら、これほど感動しないはず。多分、この界隈の均整の取れた街並みが、現実的な足場にも美観を与えているのだと思う。もしかしたら、オベリスク自体が特別の輝きを放っているのかも。

ラムセス2世(紀元前1303-紀元前1213)の時代にエジプトのルクソール神殿の入り口に建築されたオベリスクは、2本ありました。エジプト総督ムハンド=アリーとの交渉の結果、1829年、フランスは以前から欲しがっていた2本のオベリスク入手に成功。
そのうちの右側のオベリスクがコンコルド広場に立てられたのは1836年で、ルイ・フィリップ国王の時世。その後、左側のオベリスクもフランスに届けられる予定だったのが、エジプトとフランスの関係が悪化したために、実現せず、そのまま現在もルクソール神殿に残っています。均衡を保つために2本建築されたのに、離れ離れになったのです。ちょっとかわいそう。
ルクソールに行ってもうひとつのオベリスクを見た時には、これが、コンコルド広場にあるのと対のオベリスクか、と感慨に浸ったのを今でも覚えています。ただし、資料によると2本のオベリスクの高さは数センチ異なるそう。フランスに運ばれた右側のオベリスクの方が背が低かったけれど、保存状態がよかったので、まず、それを運ぶべきだとヒエログリフを解読したシャンポリオンが主張したのです。


長年憧れていたルクソール神殿を訪問した時に撮影。左右対称に立っていたオベリスクのうち、右側のがフランスに送られ、左側のだけがルクソールに残っています。

オベリスクがルクソールを離れ、フランスから向かった船「ルクソール号」に乗せられたのは、1831年12月。それからわずか3カ月後、シャンポリオンは41歳の若さで生涯を閉じます。コレラにかかったためとされています。
1833年5月、船は南仏の軍港ツーロンに到着し、その後スペイン、ポルトガル沿岸を通り、ジブラルタル海峡を通過し、フランスのシェルブール港に到着。その後ル・アーヴルに向いそこからセーヌ川を上りパリへと進み、コンコルドに到着したのは1833年12月。最終的にオベリスクが台座の上に設置されたのは1836年10月25日。

コンコルド広場に設置されるのを見るために、
20万もの人が集まったそうです。もしも、当時私が生まれていたら、
きっとその一人になっていたでしょう。

オベリスクをフランスに送る決定がなされたのは1829年だったから、7年もの長い年月を経てコンコルド広場に立ったエジプト生まれの貴重な記念碑。
ルクソールのオベリスクはその後方の神殿と同じ花崗岩で、頂上に同色のピラミッド型キャップがあり重厚な趣。パリのオベリスクのキャップには金箔をほどこしてあり、ピカピカ輝いています。シラク大統領の時代にエジプトとフランスの関係が良好になった記念に、金のキャップにしたそう。このように、もともとは同じオベリスクでしたが、暮らす地によって異なった姿を見せるようになったのです。

ジャン=フランソワ・シャンポリオン(1790-1832)

今ではオベリスクのないコンコルド広場など、想像もつかない。来年、キレイになった姿を見れるのが楽しみ。でも、偉業を成したシャンポリオンが、パリ中心でエジプトの輝きを放つモニュメントを見ることなく、若い生涯を閉じたのが残念で仕方ない。

2021年12月15日

光り輝く宝飾店のショーウィンドウ

 12月上旬からテレビに頻繁に登場するスポットCMは、何といっても香水。クリスマスプレゼントに適しているからでしょう。とにかくフランス人がつける香水の量は半端ではない。いつも体全体から香りが放たれている。香水は日常生活の必需品なのです。

雑誌や新聞で特に目立つのは、ジュエリーのパブリシティー。それにつられて本物が見たくて宝飾店のショーウィンドウ巡り。今年は豪華なジュエリーを展示するのではなく、ディスプレイに工夫を凝らしているので、それが見もの。心が浮き立ち、幸福ホルモンのセロトニンが一挙に増加します。

少なくとも私は・・・

パールのネックレスはシャネルのアイコンのひとつ。

ナポレオンのお気に入りだったショーメ。
シックで趣のあるデイスプレイ。

輝く星が散りばめられたブルガリ。

自然のモチーフにこだわるヴァン・クリーフ&アーペル。


遠くから視線をとらえるディオール。
花園の中にジュエリーが潜んでいてポエティック。

無数のシルバーとゴールドの球が舞うカルティエ。


物語が浮かぶような、ショパールのメルヘンの世界。

2021年12月12日

街中で目立クリスマス装飾

クリスマスまで、後わずか。
コロナにもかかわらずパリはますます華やかさが増しています。 道行く人は大きなパッケージングを手にしていて、プレゼントを買ったのが一目瞭然。中には3つも4つも包みを持っている人もいる。お金に余裕があるのかしら。高級店の外に行列が出来るのに最初は驚いたけれど、今は、もう慣れました。

そうした事に縁遠い私は歩く、ひたすら街を歩く。
すると、思いがけないものに巡り会える。まるで宝物を見つけたように嬉しくて、思わず歓声をあげてしまうのです。

リッツホテルのエントランスで、
きらめく装いのクマさんが愛嬌を振りまいています。

マンダリン・オリエンタルホテルでは、
一見、ロイヤルファミリーのような3人が「ようこそ」とお出迎え。

香水店のクリスマスツリーが香水ボトルのフォルム。
パリらしいオシャレなセンス。

すぐれた彫刻のような大きなオブジェが目に止まり、足が釘付け。
レースのような緻密なモチーフをほどこした、幸運をもたらす星。
その下でたわむれる愛らしいトナカイや犬。
白一色の、清らかでそれでいて華やかなオブジェ。
ポーランド教会の前広場を飾っています。

ヴィラージュ・ロワイヤルの中庭にも大きなクマさん。
ベンチがあるので、皆、代わる代わる座って記念撮影。
おどけた表情のクマさんが両手を広げて迎えます。

2021年12月10日

クリスマスと暖炉の深い関係

 クリスマスの特別なケーキ「ビュッシュ・ドゥ・ノエル」は丸太のフォルムで細長く、それを切り分けていただきます。ビュッシュ・ドゥ・ノエルを食べる習慣は、フランスでは19世紀からあったとされていますが、本格的になったのは第二次世界大戦以後で、フランスが自由を獲得した後。

今年は時世を反映してか、割とシンプルなのが多い。

丸太の形にこだわるのは、広く伝わっているように、かつて、クリスマスの食事の最後に、薪が赤々と燃える暖炉の前に家族や友人たち集まって、デザートとしていただいたため。丸太を暖炉で燃やすのは、その灰が魔除けや厄除けになるとか、煙突から悪者が入らないようにするためだとか、寒い日に生まれたキリストの身を守るために薪を燃やしたとか、いろいろな説がある。

でも今は大気汚染対策が重んじられ、公害を出さないように暖炉を使用しないパリジャンがほとんど。


1900年代初期のクリスマスの光景。
暖炉の近くにテーブルを置いて、たくさんのご馳走を並べ、
デザートに細長いビュッシュ・ドゥ・ノエルを切っていただきます。

暖炉で薪を燃やさないかわりに、その上にクリスマス装飾をしたり、横にツリーを飾る人が多い。いつもと異なるデコレーションを添えるだけで、一年でもっとも重要な祭典をお祝いできる。だいいち、クリスマスの大スターのサンタさんは、暖炉の煙突から部屋に入ってくるのだから、キレイに飾ってお迎えしなくては。


わがアパルトマンの暖炉の右上の屏風のような飾りは、アドヴェント・カレンダー。
24個ある窓の中に小箱に入ったチョコレートが潜んでいて、
それを取り出して、クリスマスまで毎日食べるのが楽しみ。
空になった小箱は、暖炉の左上にあるブルーのベースの枯れ木に飾って24日に完成。
このようにしてステキなツリーになる。
豪華なアドヴェント・カレンダーはディオールからのプレゼント。メルシー、ディオール💕💕

2021年12月7日

輝くデパート、ラ・サマリテーヌ

16年ぶりに蘇ったラ・サマリテーヌの クリスマス装飾は、きっと特別に違いない。そう思いワクワクしながら行ってみたら、どこもかしこもキラキラ。この輝きは期待以上。かなりのお金をかけているのがひと目でわかります。パリ中心に今だけ存在している輝きの国へお誘いします。

リヴォリ通りに面したガラス張りのファサード。
当初は、歴史を誇るパリの旧建築の真っ只中に合わないと反対も多かったけれど、
今では古い景観にフレッシュな息吹を吹き込んでいると好評。
たしかに、ラ・サマリテーヌのこのファサードを見ると清涼感があって
21世紀を感じます。

ショーウィンドーは華やかなクリスマスのアンビアンスがあふれ、
気持ちが高揚します。

エントランスを入ったスぺースにシックなデコレーション。

すべての階段とエスカレーターに、クリスマスならではの飾り。


各階のディスプレイもクリスマス一色。
このデパートは展示する製品の数をおさえ、アーティスティックにしていて
気品がある。

カメラにおさまらないほど背が高いツリーの下を
くぐり抜けられるアイディアが最高にステキ。


手すりに施された常設の金箔のマロニエの葉と、
クリスマス飾りが相まって華やか極まりないラ・サマリテーヌ。
今、見逃せないデパート。


2021年12月3日

クリスマスマーケット

 コロナでいろいろと心配されたけれど、パリ中心にあるチュイルリー公園では、クリスマスマーケットが開催され、人気を集めています。寒さが厳しくなってきたけれど、とっても気になったので様子を見てきました。


すごい人出。フランス人は楽しむことに本当にマメ。

ユーモアたっぷりのサンタさん。
この姿を見るだけで寒さを忘れます。

小さなお店が軒を並べていて、雰囲気満点。

クリスマスにふさわしいカラフルな品が
多くの人の視線をとらえます。

祭典にふさわしい帽子をかぶりながら、
子供たちも興味深く品定め。

ホットワインはこのシーズンに大人気。
テーブルを囲んで会話が弾みます。

ホカホカのラクレットも大人気。
私の大好物で、クリスマスマーケットで必ずいただきます。


華やかな装飾が目立ちます。
いろいろなお料理を楽しめる広いレストランです。


ボリュームたっぷりのラクレットをいただいて、ゴキゲン。
ノエル近くにまた行きま~す。

2021年12月1日

パンテオン入りした初の黒人、ジョゼフィヌ・ベーカー

アメリカ生まれの黒人 ジョゼフィヌ・ベーカーが、有名な歌手だったことは知っていたけれど、フランス国籍を持ち、第二次世界大戦のときのレジスタントであり、危険なスパイ活動を自ら希望しておこなっていた英雄だったことは、まったく知らなかった。

パイロットの資格も持っていたジョゼフィヌ・ベーカー。
フランス空軍のユニフォームに身を包む凛とした姿。1948年

最近、テレビや雑誌がジョゼフィヌの特集を組み、こうしたことが分かったのです。なぜ、今、彼女のことが注目されているかというと、パンテオンに祀られるからです。この、フランスの偉人たちの墓所に眠る女性は非常に少なく、彼女は6人目。それだけでなく、初めての黒人でもあるために大きな出来事なのです。テレビは実況でセレモニーを中継。もちろん大統領のジョゼフィヌを称える言葉で始まりました。

アメリカの貧民街で生まれ、差別や貧乏に屈しることなく、強い意志で人生を切り開き、10代半ばころに歌手としてデビューしたジョゼフィヌは、19歳でパリの舞台に立つようになります。エキゾチックな容姿、奇抜な衣装、ダイナミックでのびのびとした歌声でフランス人を魅了し、大きなセンセーションを起こしました。

子供時代のジョゼフィヌ。

舞台に立っていた10代半ばのジョゼフィヌ。

パリ・モンマルトルの有名な劇場
「カジノ・ド・パリ」に出演していたジョゼフィヌのポスター。1930年

自分をこれほどまでに寛大に受け入れたパリを、フランスを彼女は「私の国」と呼び、愛し、歌い、長年暮らします。その「私の国」をナチス・ドイツに占領されると、ジョゼフィヌはいてもたってもいられなくなります。最前線の兵士たちの士気を鼓舞するために、彼らの前で歌っただけでなく、レジスタント運動に加わり、名声を活用して機密書類を運んだり、敵の高官に接触して重要な情報をフランスに伝えていたのです。

戦後はいろいろな国の12人の戦争孤児を養子として迎えたり、人種差別撤退運動に加わったり、舞台に立ったり、幅広い活躍をし、1975年にアーティストのキャリア50周年記念のショーをパリでおこないます。多くの著名人が拍手をおしみなく送った4日後、脳溢血で突然68歳の生涯を閉じたのでした。

ドルドーニュ地方の古いシャトーを購入し、
そこで戦争孤児たちを育てていましした。その中には日本人も一人いました。
シャトーの庭でくつろぐジョゼフィヌ。1961年

同じアメリカ女性のモナコのグレース公妃と特別に親しく、時間があるときにはモナコ公室の別荘で過ごしていた ジョゼフィヌは、モナコの墓地に葬られました。そして今、フランスに大きな貢献をなした女性として、パンテオンに祀られる栄誉に輝いたのです。

遺体は遺族の希望でモナコの墓地に眠ったままで、彼女のゆかりの地の土がパンテオン入りする棺に納められました。ジョゼフィヌが生まれたミズリー州のセントルイス、こよなく愛したパリ、12人の養子たちを育てていたドルドーニュ地方、そしてモナコの墓地の4ヵ所の土です。