2021年12月19日

オベリスクが美しくなる

コンコルド広場のオベリスクが、予定では2022年6月に美しい姿を現します。
フランス人のエジプト学研究者ジャン=フランソワ・シャンポリオンが、難解なヒエログリフ(古代エジプト象形文字)解読に成功したのは、1822年9月。2022年はその200年記念の重要な年。それに合わせて、ヒエログリフが刻まれているオベリスクの修復作業が来年早々に始まるのです。

現在、作業のための足場が組まれているのですが、これがまた、芸術作品のように素晴らしい。まるでレースのように透き通って見える足場の美しさに、思わず立ち止まったほど。それでも満足しきれず、スマホで写真もとりました。

12月11日

その写真を見るたびに、その後の足場の様子が気になって、またコンコルド広場に向かい、またスマホが活躍。
今回は、足場がもっと緻密に組まれていて、ますます芸術性が高い。これに取りつかれている私は、また出向き、また写真。


12月15日


12月18日

修復工事準備中のオベリスクだけ見たら、これほど感動しないはず。多分、この界隈の均整の取れた街並みが、現実的な足場にも美観を与えているのだと思う。もしかしたら、オベリスク自体が特別の輝きを放っているのかも。

ラムセス2世(紀元前1303-紀元前1213)の時代にエジプトのルクソール神殿の入り口に建築されたオベリスクは、2本ありました。エジプト総督ムハンド=アリーとの交渉の結果、1829年、フランスは以前から欲しがっていた2本のオベリスク入手に成功。
そのうちの右側のオベリスクがコンコルド広場に立てられたのは1836年で、ルイ・フィリップ国王の時世。その後、左側のオベリスクもフランスに届けられる予定だったのが、エジプトとフランスの関係が悪化したために、実現せず、そのまま現在もルクソール神殿に残っています。均衡を保つために2本建築されたのに、離れ離れになったのです。ちょっとかわいそう。
ルクソールに行ってもうひとつのオベリスクを見た時には、これが、コンコルド広場にあるのと対のオベリスクか、と感慨に浸ったのを今でも覚えています。ただし、資料によると2本のオベリスクの高さは数センチ異なるそう。フランスに運ばれた右側のオベリスクの方が背が低かったけれど、保存状態がよかったので、まず、それを運ぶべきだとヒエログリフを解読したシャンポリオンが主張したのです。


長年憧れていたルクソール神殿を訪問した時に撮影。左右対称に立っていたオベリスクのうち、右側のがフランスに送られ、左側のだけがルクソールに残っています。

オベリスクがルクソールを離れ、フランスから向かった船「ルクソール号」に乗せられたのは、1831年12月。それからわずか3カ月後、シャンポリオンは41歳の若さで生涯を閉じます。コレラにかかったためとされています。
1833年5月、船は南仏の軍港ツーロンに到着し、その後スペイン、ポルトガル沿岸を通り、ジブラルタル海峡を通過し、フランスのシェルブール港に到着。その後ル・アーヴルに向いそこからセーヌ川を上りパリへと進み、コンコルドに到着したのは1833年12月。最終的にオベリスクが台座の上に設置されたのは1836年10月25日。

コンコルド広場に設置されるのを見るために、
20万もの人が集まったそうです。もしも、当時私が生まれていたら、
きっとその一人になっていたでしょう。

オベリスクをフランスに送る決定がなされたのは1829年だったから、7年もの長い年月を経てコンコルド広場に立ったエジプト生まれの貴重な記念碑。
ルクソールのオベリスクはその後方の神殿と同じ花崗岩で、頂上に同色のピラミッド型キャップがあり重厚な趣。パリのオベリスクのキャップには金箔をほどこしてあり、ピカピカ輝いています。シラク大統領の時代にエジプトとフランスの関係が良好になった記念に、金のキャップにしたそう。このように、もともとは同じオベリスクでしたが、暮らす地によって異なった姿を見せるようになったのです。

ジャン=フランソワ・シャンポリオン(1790-1832)

今ではオベリスクのないコンコルド広場など、想像もつかない。来年、キレイになった姿を見れるのが楽しみ。でも、偉業を成したシャンポリオンが、パリ中心でエジプトの輝きを放つモニュメントを見ることなく、若い生涯を閉じたのが残念で仕方ない。