76回目のカンヌ国際映画祭が5月16日に開幕し、27日まで続きます。この映画祭はフランス政府が力を入れている重要なイヴェント。通常テレビでニュースを担当しているジャーナリストも、著名なスターの特別インタヴューのために、カンヌに行くほど重きを置いている。もちろん期間中、ニュースの最後に特別報道があるので、華やぎが画面を通して伝わってきて、この時間がとても楽しみ。
カンヌ国際映画祭のロゴ |
最近はあまり話題作がないフランス。でも、映画には誰にも負けない強い情熱を抱いています。と言うのも、映画が生まれたのはフランスなのだから。
19世紀末、リヨンのリュミエール兄弟が、写真館を経営する父によってシネマトグラフと名付けられた機械を発明。それは、動きを機械に収めて画面に映し出すという、画期的なもの。何度が試作品を作り、パリのオペラ座近くのグラン・カフェの地下で初めて公に映画を上演したのが。1895年12月28日。当然、大きな驚きと反響を呼びました。
映画の生みの親、リュミエール兄弟。 カンヌ国際映画祭の会場フェスティヴァル・パレスの セレモニーや上映を行うメイン会場に、リュミエールの名を冠しています。 |
このように映画の発祥地であるフランスは、政府が国際映画祭を開催することにし、その場所として選ばれたのが、カンヌ、1946年のことでした。それ以降、世界各国からセレクトされた作品はもちろん、監督、出演者が毎年カンヌの集まり、街中が賑わいます。
私もこの映画祭に数回招待されましたが、あの雰囲気はかなり特殊。何しろスクリーンの花形スターが集まるのだから、その姿をひと目見ようとすごい人数のファンが押し寄せ、歓声がひっきりなしにあがるし、公式許可を得た500人近いカメラマンもタキシード姿でひしめき合っている。白い浜辺にはいくつものテントが張られ、そこで食事をしたり、夜はダンスを楽しむ。地中海の水は青く、遠くには無数のヨットがゆったりと浮かんでいる。海岸沿いには白亜の高級ホテルが並び、手入れが行き届いた街路樹が微風に葉を揺らせている。ときには高台の広大な敷地内(多分裕福な人の別荘)でパーティーがあり、打ち解けたスターたちと一緒に歌ったり踊ったりもあります。
一度、こんなこともありました。ある日、裏通りの和食レストランでランチをいただいていたら、日本人のマダムが近寄ってきて、
「コッポラ監督が毎日のように来るのよ。明日もいらっしゃるから、同じテーブルにしてあげましょうか?」
あまりのことにびっくりして、うわずった声で
「ぜひお願いします」
と頼み、翌日、約束通りあの偉大な監督と向かい合ってのお食事。お隣には優しい笑顔の夫人が座っていて、デザートのときに、何とコッポラ監督が私に話しかけたのです。
「デザートを食べる権利があると思いますか?」
と、ちょっと大きめなお腹をさすりながら言う。
夫人の顔を見ると、にこにこ笑っているだけ。
その柔和な顔に勇気を得て
「映画の祭典の間だから、許されるのでは」
と答えて、3人でデザートをいただいた夢のような出来事もありました。
忘れがたい思い出ばかりの映画祭。 |
カンヌ映画祭には、こうした裏話がいっぱいある本当に楽しい祭典。熱気に満ちた12日間。今年はどんな話題が飛び出すか、テレビを見ながら毎日ワクワクです。そういえば、今回の映画祭開幕宣言は、フランスを代表する女優カトリーヌ・ドヌーヴが担当。彼女はマイクを握るや否や、ウクライナ詩人の詩の一部を暗唱したのです。
私には、もはや幸せも自由もない。
私に残されたただ一つの望みは
美しいウクライナに戻ること・・・、
あまりにも感動したのか、肝心の開催宣言を忘れ、司会を務めていた娘の女優キアラ・マストロヤンニに催促され、慌てて宣言するというエピソードがありました。会場にいたスターや監督もさぞかしびっくりしたでしょうが、こうした場でウクライナの悲劇を詩で訴えたことには大きな意義があり、会場に拍手を巻きおこしました。
1969年のカトリーヌ・ドヌーヴ。非の打ちどころがない美しい26歳 79歳になった今でも、フランスを代表する大女優の地位を確保。 シャイなところもあり(そのためかすごい早口)和食も大好きだし、園芸も愛する人。 |
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