2023年10月25日

福沢諭吉とパリ

 福沢諭吉のパリ滞在をブログで書こうと思ったのは、ナポレオン財団から送られてきた会報に載っていた写真がきっかけ。そこには羽織袴で刀を手にした二人の日本人と西洋人の子供が写っていました。身に着けているものから明治前の写真であることは明らか。肖像写真で名を成していたナダールの作品で1862年に撮影となっている。

写真の説明によると、
写真家ナダールの6歳の息子ポールと、日本の使節団の二人で、
1862年、フェリックス・ナダール撮影と書いてある。

1862年といえば江戸幕府がヨーロッパに最初の使節団を送った年。使節団は総勢38人。その中に、通訳として参加した27歳の若い福沢諭吉がいました。
1862年1月21日、品川港で英国海軍のフリゲート、オーディン号にのった使節団一行は、フランスのマルセイユに向かい、4月3日に到着。その後鉄道でリヨンを経過し、パリ入りしたのは4月7日。
使節団一行が乗船した英国海軍のオーディン号。

当時のフランスは皇帝ナポレオン3世の時世で、経済が潤い、文芸が花を咲かせ、セーヌ県知事オスマン男爵の元にパリ大改造が行われていて、目を見張るばかりの近代化の真っ最中。そうした中にいきなり入り込んだ江戸幕府の使節団。長年の鎖国から解放されたばかりの国からやって来た彼らにとって、衝撃が、いかに大きかったか想像できる。
    ナダールが1862年にパリで撮影した使節団代表たち。
    左から森鉢太郎、日高圭三郎、上田友輔、柴田貞太郎(椅子に腰けている)
    太田源三郎、福地源一郎、川崎道民、立広作。

一行が泊まっていたのはルーヴル美術館近くのグラン・ホテル・デュ・ルーヴル。1855年に開催されるパリ万博のために、ナポレオン3世の命令で建築された高級ホテルで、第二帝政時代のフランスの豊かさを満喫できる豪華なホテル。現在見られるパレロワイヤルのホテル・デュ・ルーヴルがそれだと思っている人が結構多いが、そうではなく、1887年にグラン・ホテル・デュ・ルーヴルの代りに建築されたのがこのホテル。残念ながら、福沢諭吉たちが泊まっていたホテルは今では跡形もない。

福沢諭吉の記録によると、ホテルは5階建てで、客室は600。長い廊下にはガス灯が灯っていたとなっている。
幕末使節団が宿泊していたグラン・ホテル・デュ・ルーヴル。
一階には多くのブティックが居並び、賑わっていました。
ホテル内のメイン・ダイニングルーム。
羽織袴姿の使節団の人々がここで食事をとったかは不明ですが、
様々な国籍の、様々な民族衣装に慣れているパリ市民たちは、
すっきり受け入れたことでしょう。

宿泊していたホテルから徒歩で行かれる距離にあったチュイルリー宮殿で
皇帝ナポレオン3世に謁見。1862 年4月13日、日曜日。

使節団がパリに滞在していたのは、1853年に始まったパリ大改造の最中で、古い民家は次々と取り壊され、高さと色の制限を設けた整然としたアパルトマンが居並び、広場がいくつも造られ、道路は拡張され街路樹が植えられ、公共施設が充実し、近代化が形あるものとして目前に生まれていたのです。

新時代を迎えようとしていた日本の未来に大きな期待を抱き、燃えるような情熱を抱いていた若き福沢諭吉の衝撃は、さぞかし大きかったでしょう。使節団一員としてフランス、オランダ、プロセイン、イギリス、ロシア、ポルトガルを歴訪し、見たり聞いたりした事柄や感想を、福沢諭吉は毎日詳細に記録し、多くの質問を行き先々でし、帰国後にまとめて「西洋事情」を発表。
パリに滞在していた福沢諭吉の引き締まった表情のポートレートがある。ジャック=フィリップ・ポトーが手掛けたもの。ポトーは国立自然史博物館の研究員で、写真の専門家ではない。けれども、独自の感性でカメラを向け、人物の内面からにじみ出る微妙な表情をとらえると高く評価されている。確かにポトーの肖像写真には、雰囲気を盛り上げる目的の付属品は一切なく、人物のみに集中している。それだけに迫力がある。

ジャック=フィリップ・ポト―による
27歳の福沢諭吉のパリでのポートレート。

ポトーが撮影した福沢諭吉のもう一枚の写真。
Pitt Rivers Museum所蔵

ポトーが手掛けたこの肖像写真の福沢諭吉には、凛とした美しさがある。諭吉は日本人としては背が高く身長173cmで、体格もがっしりしている。引き締まった顔から若さ、知性、情熱、意志の強さがほとばしっている。
撮影は国立自然史博物館近くのスタジオで自然採光のみで行い、正面と横顔を撮るのがポトーの特徴。彼の写真は民俗学的資料として大きな価値があるとされ、オックスフォード大学自然史博物館内のピット・リバース博物館が多数保存している。なお、原版はポトーが務めていた国立自然史博物館に寄贈したと記録されている。

使節団の通訳は複数いて、福沢諭吉はもっとも若かったためか、公の行事にはあまり参加せず、自由な時間を有効に使って市民たちの生活などを自分の目で確かめていた。それがかえって彼の実用的な見聞をひろめるのに役立ったとされている。
その時代からわずか160年で、日本はこれほど変わった。日本の伝統を維持しながら、外国から学ぶべきものを学び取り、近代化をものすごい勢いで進めた日本人は、やはり素晴らしいと思う。