2024年1月28日

農民たちの怒り

 燃料費値上げや、EUの厳し過ぎる規定、外国からの安い農産物輸入、仕入れ側のコストダウン要求などで、利益が非常に少なく、生活苦が続いている農民たち。自分たちの不満や怒りを政府にわからせるために、結束して抗議デモを初めて約一週間。

農民たちの抗議デモを報じる
1月22日のル・フィガロ紙。 

抗議デモはエスカレートする一方で、一月に就任したばかりの34歳のガブリエル・アタリ首相が、彼らの代表を首相官邸に招き、要望を聞き、金曜日にいくつかの提案を発表。それをある程度評価して、トラクターなどで閉鎖している道路や、外国からの農作物運搬トラック攻撃を止めよう、と、すすめるリーダーもいる。けれども、もっと多くの要望を受け入れるべきだと、怒りがおさまらない農民の方がはるかに多い。

ウイークエンドは静かにしているけれど、月曜からパリ封鎖を決意しているそう。パリ周辺の高速道路を占拠するので、そうなったら、パリに食料品だけでなく、その他の日常品も届かなくなる。しかも、今の時点ではそれを一週間続けるというのだから、重大。

これは大変と、急いでスーパーに行くと、ガラ空きの棚が多い。幸い、この動きを知った時点で、日々に必要な品を蓄えていたからいいものの・・・

月曜からテレワークを強いられる人もいるはずとの報道もある。にもかかわらず、農業に携わる人々のデモに理解を示すフランス人が圧倒的に多い。革命を起こした国民は、想像以上に強い連帯感の持ち主のようです。

2024年1月25日

カルティエ  夢のようなひととき

 時が経つのは早いもので、年が明けて間もないけれど、オートクチュールのファッションウイークで、華やぎが軽やかに舞っているパリ。

そうした中、寒さから身を守るため、厚手のコートを着て、いざ、リッツパリへ。カルティエのニューコレクション発表です。

カルティエのスタッフが、一人ひとりの訪問者に
丁寧に説明してくれます。
私が大好きなパンテールが、愛らしい姿を見せる存在感あるネックレス。

ホワイトゴールド、オニキス、ダイヤモンドの、
動きが感じられる個性的でインパクトがあるネックレス。

フレッシュなフルーツを組み合わせたような、
楽しさあふれるブレスレットとイヤリング。
メゾンの象徴的ジュエリーのひとつ。
ネックレス、イヤリング、リング、ブレスレットウオッチのセット。
硬い貴石で、レースのような柔らかさを表現しているネックレス。
やはり卓越した技術を誇るメゾン。

胸元をエレガント、かつ、ゴージャスに飾るネックレス。
部分的に取り外し、ブローチやペンダントヘッドとして使用も可能。


宝飾商の王と言われるカルティエならではの、選び抜かれた貴石、デザイン、技法に改めて感嘆し、高揚感を覚えた貴重なひとときでした。
ジュエリーを堪能した後は、サロンでひと息。
ピアノの演奏があり、緑豊かな中庭も見える広いサロンで、
リッツパリの極上のサーヴィスで軽食をいただく贅沢。

新しい年の始まりにふさわしい日でした。
今年はオリンピックもあるパリ。
充実した一年になりそう。

2024年1月17日

高田賢三さんの記念プレートがパリに

 2020年に81歳の生涯をパリで閉じ、多くの人に惜しまれた高田賢三さん。プレタポルテに画期的な影響を及ぼした彼の業績は、今でも語り続けられています。気さくで、ほがらかで、寛大で、常に笑顔を振りまいていた賢三さん。そうした賢三さんが、いつも、そしていつまでも、彼が愛し、彼を愛したパリと共にいるように、記念プレートが生まれました。

大きな夢を抱いていた若い時代の賢三さん。
彼が気に入っていた写真が除幕式を見守っていました。

パリ市代表による演説で式が始まりました。
寒い夕方に道路を閉鎖して、テントを張っての式典。

賢三さんにとって、もっとも象徴的な場所は、19世紀に作られたギャラリー・ヴィヴィエンヌ。カラフルなモザイクの敷石、太陽光線が惜しみなく入るガラス張りの天井。それは、パリでもっとも美しいパサージュ。

そこに彼が最初のブティックをオープンしたのは1970年。その時の店名は「ジャングル・ジャップ」。内装は賢三さんが大好きなアンリー・ルソーの夢をモチーフとしたジャングルで、友人たちと一緒に心躍らせながら自ら手掛けたもの。彼の最初のショーも、そのブティックで行われ、すぐに大きな反響を呼び、その後も次々と斬新なアイディアでパリを、世界を魅了し、モード界の寵児になったのです。

ギャラリー・ヴィヴィエンヌの入り口に、
パリ市の旗に包まれたプレート。

パリ市の旗がはずされ、プレートが見えた瞬間、
大きな拍手が生まれ、空高くのぼっていきました。
感動の一瞬。

賢三さんと特に親しかったお二人にお会いして、
とても嬉しかった。
「今日はきっと会えると思っていたわ」
と、3人でおしゃべりの花を咲かせました。

その出発点であるギャラリー・ヴィヴィエンヌに、賢三さんの記念レートを飾るのは、意義あること。ヴィヴィエンヌ通りの外壁のプレートの序幕式は1月16日午後に行われ、その後近くのイタリアンで、ブティックKENZO主催のカクテルがあり、賢三さんと親しかった友人が集まり、楽しかった思い出が遅くまで語られました。

このようにして、フランスの文化のひとつであるモードに貢献した、日本人高田賢三の名がパリの建物に記され、今後もずっと残るのだと思うと、感動がこみあげてきて胸が熱くなります。そして、再び思うのです。フランス人は本当に寛大な国民だと。国籍を問わずに、フランスのために功績した人を認め、プレートを作ってくれるのだから。

除幕式の後はお隣のイタリアンでカクテル。
インテリアもオシャレだし、
サーヴィスの人が明るく居心地がいい。

ロゼのシャンパーニュと
ピザやフィンガーフードをいただいて外に出ると、
明かりがともったギャラリー・ヴィヴィエンヌの壁に、
賢三さんのプレートが見え、また感激。
このようにして、彼の名は永遠にパリに残るのです。
ギャラリー・ヴィヴィエンヌ 6 rue Vivienne 2区

シャイで控えめだった賢三さん。「どうしてボクが」と天国で思っているかもしれない。

2024年1月13日

マリー・アントワネット自叙伝 17

 ついにデュ・バリー夫人に接近 

ある日、駐仏オーストリア大使メルシーは国王からの呼び出しを受けました。当然、メルシーは「いったい何事か」と緊張します。しかも呼び出されて行くのは、国王の執務室ではなく、デュ・バリー夫人のお部屋。彼女にお会いするために3階に向かいながら、もしかしたらあの事、つまり、宮廷中でどっちが勝つかと噂しているあの出来事では、と思っていたかもしれません。

デュ・バリー夫人のエレガントなお部屋に入ったメルシーは、改めて夫人の魅惑的な美貌に感動したようです。お母さまへの報告にそう書いたのです。それだけでなく、性格も悪そうではないと書いたのには、あきれてしまいます。

ヴェルサイユ宮殿3階にあるデュ・バリー夫人の居室は、
天井に至るまで金箔がほどこしてあり、大変優美でした。
もちろん、私は行ったことがありません。


私が満足したのは、言葉使いに品がないし、豊かな教養もないように見受けましたというフレーズ。さすが、お母さまが信頼を寄せている大使。見るべきことはちゃんと見ているのです。デュ・バリー夫人を褒めたのは、外交辞令というものでしょう。これで私の心も落ち着きました。


夫人と会話を交わし始めたころ、ルイ15世が入っていらして不満を述べられたのです。政治家と同じように本筋に直接入らずに、曲折した言い方だったそうです。結局、国王がメルシーに伝えたかったのは、愛妾が私に冷たくされて悲しんでいるから、仲介すべしという事なのです。貴殿が皇太子妃を何とか説得し、彼女からデュ・バリー夫人に話しかければよい、それだけのこと。

贅沢な宝飾入れ。セーヴル焼きを家具に取り入れるのは
当時、人気があったのです。
この中に、国王からいただいた高価なジュエリーを入れていたのです。

フェミニンで優しさがある椅子。
バラのモチーフが好きだったそう。


でもせっかくここまで順調に進んでいるのに、と私は迷わずにはいられません。数日間、今まで通りすましてデュ・バリー夫人を無視していたのですが、メルシーはついに最後の切り札を出したのです。態度を改めないと、お母さまが困るというのです。ちゃんと私の弱みを知っているのです。その上、劇作家賞をあげたいほど上手な筋書きを考えたのです。


忙しいお母さまに、これ以上迷惑をかけたくなかった私は、それを演じることにしました。

2024年1月8日

アラン・ドロン 今度は家族の間に亀裂が

脳卒中で倒れたアラン・ドロンを看護しながら 同居していた日本女性ヒロミ・ロランさんを、モラルハラスメントで訴え、パリから100kmの場所にあるドロンの屋敷から追い出し、ヒロミさんの住まいの家宅捜査までさせたアラン・ドロンの3人の子供。今度はその子供たちの間に大きな亀裂が生まれ、大きなスキャンダルになっています。

発端は、長男アントニーが「パリ・マッチ」に語ったこと。それによると、父が倒れた後、妹アヌーシュカが暮らしているスイスで5回検査を受けたが、その結果がよくなかったのに、きちんと自分と弟アラン=ファビアンに連絡しなかった、そのために容態悪化を知らなかった、あるいは故意に隠していたのかもしれない、と、警察に届けたのだから深刻。その他、父はフランスの自分の家で余生を送りたがっているのに、妹はスイスに連れて行きたがっている。それは、税金のために他ならない・・・

父の容態はかなり悪化していて、自分の健康状態もわかっていないほど衰弱している。多分昨年のクリスマスが最後になるだろうと思って、自分と弟は父の家に行って一緒に過ごした。このような時にスイスに移動させるなど、もってのほか・・・

妹は嘘をついていたと非難する
アントニーの記事を掲載した「パリ・マッチ」

この報道の後、アントニーはテレビに出演して、公に妹を非難し、それに耐えられなくなった妹も、テレビでとんでもないことだ、私は父をスイスで治療を受けさせたいだけだ、検査結果は兄も弟も知っていたと、激しく反論。

利発で思いやりがある
アヌーシュカ・ドロン。
高田賢三さん主催のパーティーでの写真。
賢三さんの自宅やレストランで
何度も一緒にお食事を楽しみました。

アントニーとアヌーシュカは異母兄妹。今まで接触も少なかったようで、家族団欒もほとんどなかったと長男が打ち明けていたのが印象的、フランスを代表するエレガントな俳優の子供たちの争いは、みにくくて、とても残念。アラン・ドロンは88歳。一日も早く家族間の争いを止めて欲しい。

2024年1月7日

ついに、寒波到来

 昨年末から今年のはじめにかけて、わりと気温が高い日々が続いていたのが、急に寒波が押し寄せてきて、震えあがっているパリ。

長期予報を見ると、1月20日まで、朝は氷点下3、午後は0度から3度くらいがほとんど。その後どうなるのかは今の所わからないけれど、とにかくこの寒さは半端でない。

スカンジナビア半島が大寒波に襲われ、フィンランドやスウェーデンは氷点下40度を記録したほど。その影響でフランスも例年にない寒さ。どうせ寒いなら雪が降ればキレイなのに~

寒い日ならではのステキなオシャレ。
サイコ~。
ワンちゃんもちょっと気取ったコートで外出。
でも寒そう。
私はダウンコート、帽子、手袋、ブーツ、マフラーで完全武装。
これでは誰だかわからない。
「クレーヴの奥方」と名付けたシャンパーニュのパブリシティの前で。
17世紀のラファイエット夫人の名作を冠したシャンパーニュであるからには、
それなりの美味なのかしら。いつか味わってみたい。

2024年1月6日

マリー・アントワネット自叙伝 16

デュ・バリー夫人を無視することに


宮廷で強い権力を持っているデュ・バリー夫人に対抗する、もっとも簡単で、もっとも効果があるのは、彼女を無視すること。これは、叔母さまたちがくり返し私に教えたことです。

ヴェルサイユ宮殿3階のデュ・バリー夫人の居室は、
いくつもの部屋が連なっていて、
シンプルでありながら、優美な家具調度品が置かれていました。

デュ・バリー夫人が特に気に入っていた家具。
セーヴル焼きのコレクションも豊富でした。

宮廷には様々な決まりがあって、その重要なひとつは身分制度を重んじて守ること。ヴェルサイユ宮殿を建築させ、中央集権化に成功し、絶対王政を築いたルイ14世が厳しい制度をあれこれ決めたのです。国王の偉大さを示し、威厳を保つためのようですが、その数は信じられないくらい多く、慣れるのに何年もかかりそうだと思ったほどでした。


身分制度を重んじて守らなければならない中に、身分の低い人から身分の高い人に話しかけてはいけない、というのがあります。つまり、愛妾から皇太子妃に声をかけることはご法度なのです。これを生かせばいいというのが、叔母さまたちの意見。私がいつまでも話しかけないと、デュ・バリー夫人は悔しがるだけでなく、精神的な打撃を受けたり、苦しむかもしれない。これこそ最良の方法、と叔母さまたちは声高らかに言うのです。


うぶな私はすぐにそれに乗って、面白がって実行したのです。あちらがお連れつきで近寄ってくるたびに、こちらはそれ以上のお連れつきで素早く遠ざかる。重要なことは、周囲の人に、はっきりわかるように遠ざかること、とまたまた叔母またちが助言。多くの宮廷人が見ている前で、恥をかかせるためなのです。


何だかゲームをしているようで、結構楽しかったのです。心を浮かせながらそれを何度か繰り返していると、メルシー大使が私に内緒でお母さまに詳しく報告したのです。まあ、何てこと、と当然お母さまからお小言の手紙が届きます。それでも、叔母さまたちの満足げな笑顔がうれしかったので、デュ・バリー夫人いじめゲームを続けていました。

ルイ15世の愛を独り占めしていたデュ・バリー夫人。


けれどもある日、国王が私の女官長、マダム・エティケットを呼び出して、皇太子妃の態度に問題があるようなので、女官長としてちょっと注意を、とやんわりおっしゃったのです。「皇太子妃がこれ以上、デュ・バリー伯爵夫人いじめないように」

などとは大国の国王ですから言わずに、何となくほのめかせたのは、さすがです。


そうしたことがあっても、宮廷中がどうなるかと、興味津々で見ている女の戦いを止める気は毛頭ありませんでした。


当然、デュ・バリー夫人は国王に泣きついて、もうこれ以上我慢できませんと言ったのでしょう、今度はメルシー大使に出頭命令が出たのです。このように、事は私が思っていたより、はるかに複雑化していきました。

2024年1月3日

日本人を再び称賛

 1月1日の大地震、それに続く2日の航空機事故は、フランスのテレビでもトップニュースでも報道。パリの人々は、特に、短時間で飛行機の乗客、乗務員が全員無事に脱出したことをほめています。奇跡だと言う人もいます。負傷者が数人いたとはいえ、パニック状態の中、冷静に指導した乗務員も、それに沈着に従った乗客も素晴らしいと、日本人が称賛されています。

事故にあったJAL機、エアバスはフランスのツールーズで製造されたため、フランス民間調査分析局は、専門家を日本に派遣するとのこと。

2日続きの思いもよらない悲惨な出来事ではじまった2024年ですが、何とか強い心を持ってポジティブに生きたいですね。

始まったばかりの2024年。
強い心、大きな希望や目的を持って過ごしましょう。

羽田空港事故、能登半島地震で亡くなられて方々のご冥福をお祈りするとともに、被災地域の一日も早い復興を願っています。

フランスのメディアは連日、地震の被害状況と救助活動を報道しています。

2024年1月2日

パリの犬たち 257

 新年のごあいさつ

身も心も引き締めて
「明けましておめでとうございます」
でも、直立不動は慣れないから疲れるワン。
いつもは、ここで、のびのびとひっくり返っているんだけれど、
「お正月くらいビシッとしていなさい」ってパパがうるさい。
だから数秒間だけシャキッ。

2024年になったんだって。
何だかよくわからないけれど、うれしいな~、楽しいな~♪♪♪
ごあいさつなんてどうでもいいワン。
ことしも元気に思いっ切り遊ぼうね。


2024年1月1日

あけましておめでとうございます!

 2024年はフランスにとって大変重要な年。夏にはオリンピックが開催されるし、火災で大損害を受けたノートル・ダム大聖堂の修復が完了し、12月8日に再開されるのです。

2023年の最終日に新しい年を迎える行事が華々しく行われ、パリでは凱旋門、エッフェル塔、コンコルド広場でそれぞれ趣向を凝らしたイヴェントが繰り広げられ、大きな祭典となりました。特にシャンゼリゼは約百万人の人出。このために外国からいらした人も多く、パリならではのパーフォマンスを満喫。

凱旋門に2024年が映し出されると、
シャンゼリゼにハッピーニューイアーの大合唱が鳴り響き、
新しい年の始まりを高らかにお祝い。

オリンピックの競技場も登場。

華やかな花火の真っ只中で輝く2024年の文字に感激しつつ、
明るく、楽しく、幸せな年であるようにと願わないではいられない。

2024年には世界に平和が訪れますように、そして、健康で幸福に満ちた日々であるように、心から願っています。