2020年に81歳の生涯をパリで閉じ、多くの人に惜しまれた高田賢三さん。プレタポルテに画期的な影響を及ぼした彼の業績は、今でも語り続けられています。気さくで、ほがらかで、寛大で、常に笑顔を振りまいていた賢三さん。そうした賢三さんが、いつも、そしていつまでも、彼が愛し、彼を愛したパリと共にいるように、記念プレートが生まれました。
大きな夢を抱いていた若い時代の賢三さん。 彼が気に入っていた写真が除幕式を見守っていました。 |
パリ市代表による演説で式が始まりました。 寒い夕方に道路を閉鎖して、テントを張っての式典。 |
賢三さんにとって、もっとも象徴的な場所は、19世紀に作られたギャラリー・ヴィヴィエンヌ。カラフルなモザイクの敷石、太陽光線が惜しみなく入るガラス張りの天井。それは、パリでもっとも美しいパサージュ。
そこに彼が最初のブティックをオープンしたのは1970年。その時の店名は「ジャングル・ジャップ」。内装は賢三さんが大好きなアンリー・ルソーの夢をモチーフとしたジャングルで、友人たちと一緒に心躍らせながら自ら手掛けたもの。彼の最初のショーも、そのブティックで行われ、すぐに大きな反響を呼び、その後も次々と斬新なアイディアでパリを、世界を魅了し、モード界の寵児になったのです。
ギャラリー・ヴィヴィエンヌの入り口に、 パリ市の旗に包まれたプレート。 |
パリ市の旗がはずされ、プレートが見えた瞬間、 大きな拍手が生まれ、空高くのぼっていきました。 感動の一瞬。 |
賢三さんと特に親しかったお二人にお会いして、 とても嬉しかった。 「今日はきっと会えると思っていたわ」 と、3人でおしゃべりの花を咲かせました。 |
その出発点であるギャラリー・ヴィヴィエンヌに、賢三さんの記念レートを飾るのは、意義あること。ヴィヴィエンヌ通りの外壁のプレートの序幕式は1月16日午後に行われ、その後近くのイタリアンで、ブティックKENZO主催のカクテルがあり、賢三さんと親しかった友人が集まり、楽しかった思い出が遅くまで語られました。
このようにして、フランスの文化のひとつであるモードに貢献した、日本人高田賢三の名がパリの建物に記され、今後もずっと残るのだと思うと、感動がこみあげてきて胸が熱くなります。そして、再び思うのです。フランス人は本当に寛大な国民だと。国籍を問わずに、フランスのために功績した人を認め、プレートを作ってくれるのだから。
除幕式の後はお隣のイタリアンでカクテル。 |
インテリアもオシャレだし、 サーヴィスの人が明るく居心地がいい。 |
ロゼのシャンパーニュと ピザやフィンガーフードをいただいて外に出ると、 明かりがともったギャラリー・ヴィヴィエンヌの壁に、 賢三さんのプレートが見え、また感激。 このようにして、彼の名は永遠にパリに残るのです。 ギャラリー・ヴィヴィエンヌ 6 rue Vivienne 2区 |
シャイで控えめだった賢三さん。「どうしてボクが」と天国で思っているかもしれない。
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