2024年1月17日

高田賢三さんの記念プレートがパリに

 2020年に81歳の生涯をパリで閉じ、多くの人に惜しまれた高田賢三さん。プレタポルテに画期的な影響を及ぼした彼の業績は、今でも語り続けられています。気さくで、ほがらかで、寛大で、常に笑顔を振りまいていた賢三さん。そうした賢三さんが、いつも、そしていつまでも、彼が愛し、彼を愛したパリと共にいるように、記念プレートが生まれました。

大きな夢を抱いていた若い時代の賢三さん。
彼が気に入っていた写真が除幕式を見守っていました。

パリ市代表による演説で式が始まりました。
寒い夕方に道路を閉鎖して、テントを張っての式典。

賢三さんにとって、もっとも象徴的な場所は、19世紀に作られたギャラリー・ヴィヴィエンヌ。カラフルなモザイクの敷石、太陽光線が惜しみなく入るガラス張りの天井。それは、パリでもっとも美しいパサージュ。

そこに彼が最初のブティックをオープンしたのは1970年。その時の店名は「ジャングル・ジャップ」。内装は賢三さんが大好きなアンリー・ルソーの夢をモチーフとしたジャングルで、友人たちと一緒に心躍らせながら自ら手掛けたもの。彼の最初のショーも、そのブティックで行われ、すぐに大きな反響を呼び、その後も次々と斬新なアイディアでパリを、世界を魅了し、モード界の寵児になったのです。

ギャラリー・ヴィヴィエンヌの入り口に、
パリ市の旗に包まれたプレート。

パリ市の旗がはずされ、プレートが見えた瞬間、
大きな拍手が生まれ、空高くのぼっていきました。
感動の一瞬。

賢三さんと特に親しかったお二人にお会いして、
とても嬉しかった。
「今日はきっと会えると思っていたわ」
と、3人でおしゃべりの花を咲かせました。

その出発点であるギャラリー・ヴィヴィエンヌに、賢三さんの記念レートを飾るのは、意義あること。ヴィヴィエンヌ通りの外壁のプレートの序幕式は1月16日午後に行われ、その後近くのイタリアンで、ブティックKENZO主催のカクテルがあり、賢三さんと親しかった友人が集まり、楽しかった思い出が遅くまで語られました。

このようにして、フランスの文化のひとつであるモードに貢献した、日本人高田賢三の名がパリの建物に記され、今後もずっと残るのだと思うと、感動がこみあげてきて胸が熱くなります。そして、再び思うのです。フランス人は本当に寛大な国民だと。国籍を問わずに、フランスのために功績した人を認め、プレートを作ってくれるのだから。

除幕式の後はお隣のイタリアンでカクテル。
インテリアもオシャレだし、
サーヴィスの人が明るく居心地がいい。

ロゼのシャンパーニュと
ピザやフィンガーフードをいただいて外に出ると、
明かりがともったギャラリー・ヴィヴィエンヌの壁に、
賢三さんのプレートが見え、また感激。
このようにして、彼の名は永遠にパリに残るのです。
ギャラリー・ヴィヴィエンヌ 6 rue Vivienne 2区

シャイで控えめだった賢三さん。「どうしてボクが」と天国で思っているかもしれない。