2024年4月24日

マリー・アントワネット自叙伝 26

 母になりました

 1778年12月18日の真夜中を少し過ぎた頃でした。陣痛を感じた私はすぐに女官長ランバル公妃を起こしました。公妃は夫を呼びに行かせ、あわてふためいた夫は、急いで支度をして私の寝室に入ってきました。信じられないかもしれませんが、国王夫妻の寝室は別々なのです。

ヴェルサイユ宮殿の王妃の寝室。

朝方3時ころ、親族や貴族に「王妃のご出産が近づいています」と、華々しく連絡されたようです。それを知って、待ち望んでいた時がいよいよきたかと、皆、興奮しながら急いで身支度を整え、南の庭園が一望できる私の寝室に向かった、と後で女官から聞きました。


驚いたことにフランス王妃の出産に、親族と貴族が立ち会う習慣があったのです。本当にびっくりです。信じがたいことです。なぜこのような習慣があったかというと、子供はたしかに王妃から生まれ、それを責任ある地位にいる人たちが見届けたと記録する必要があったからなのです。フランス人はずいぶん疑い深いのです。好奇心に満ちた数10人が、この大イヴェントを少しでもよく見ようと、家具の上に乗ったりカーテンをよじ登ったり。例え由緒ある貴族でも、いざという時には、このように恥も外聞もないのです。


押し合う人で、ベッドの周囲を囲んでいた背の高い屏風が倒れそうになったこともありましたが、幸いなことに、夫が事前に丈夫なコードでしっかり縛っておいたお陰で、悲劇にはなりませんでした。いつもは判断が鈍いのに、このときの夫の機敏の良さにちょっと感動しました。

大勢の貴族たちが見守る中で、最初の子供を出産。
生まれのは女の子でした。

真冬だというのに、部屋は熱気で息苦しい。でも、王妃ともあろう人が陣痛のいたみで大声を出すわけにはいかない。ハプスブルク家の名誉にかけて、王妃にふさわしくしなくてはと思いながら、見事に耐えました。


お昼近くに生まれた子供は女の子でした。この出産のときの医師はドクター・ヴェルモン。ヴェルモン神父さまのお兄さまです。子供が生まれたのは11時35分だったそうです。私は気を失っていたので、何時だったか知りません。ぐったりした私を見て、新鮮な空気が必要と思ったヴェルモン医師の言葉にすぐに応じたのは夫。天井まで届く重いドアを夫が力任せで開けたと聞いて、頼りがいがある面を知った思いでした。


生まれたばかりの王女は、その日のうちに宮殿の王立礼拝堂で洗礼を受け、マリー・テレーズ・シャルロットと名づけられ、通常はマダム・ロワイヤルと呼ばれることが決まりました。国はお祝いムード一色。王女とはいえ、とにかく子供が生まれて心から安心しました。

王妃としての自信もわいてきました。ほんとうによかったと心の底から思いました。

生まれたのは王女で、
マリー・テレーズ・シャルロットと名付けられました。

お母さまには、すぐに王女誕生を知らせました。王子でなかったので、ちょっとがっかりしたようです。でも、これで私が子供を産めることがわかったので、安心したようです。私がまだまだ若いので、この後もどんどん子供を産めると思ったのでしょう。

女官に抱かれる王女。


子供が生まれても、王妃の役割は相変わらずあるので、一日中娘と一緒にいることはできません。しかも私のお部屋は宮殿の2階にあり、マリー・テレーズ・シャルロットのお部屋は1階なので、行き来するのも大変でした。でも、母になった喜びは、日に日に増していきました。

2024年4月20日

エカテリーナ2世、愛人オルロフへの破格のプレゼント

ロシア女帝エカテリーナ2世(1762-1796)

 34年間ロシア女帝として君臨していたエカテリーナ2世が、情熱家で、公の愛人だけでも10人以上いたことはよく知られている。その中で、彼女が若いころに出会ったグリゴリー・オルロフへの愛は、格別だったようです。

ピョートル皇太子とエカテリーナ。
結婚した1745年のお二人。

ロシア皇太子ピョートルとエカテリーナが結婚したのは1745年で、ドイツ貴族の家に生まれたエカテリーナは15歳、ピョートルは2歳上でした。絢爛豪華な結婚式を挙げたものの、夫は体に欠陥があり、彼女に触れることもなく、8年もの間、不幸な結婚生活を送っていました。こうなると、マリー・アントワネットと同じ運命のように思えてきます。外国からお嫁入りしたことも、結婚したときの年齢もほとんど同じ。長い間夫が原因で子供に恵まれなかったのも似ている。

若い頃のエカテリーナは、
ほっそりしていて、とてもチャーミング

エカテリーナがグリゴリー・オルロフと出会ったのは1760年で、皇太子妃の彼女は30歳、彼は25歳。エカテリーナは若い美男子が好みのようで、60歳を越えて30歳以上も年下の愛人を持ったことも度々ある。女帝の愛人になると、莫大な報酬と地位をえられるのだから、候補の美青年はいくらでもいたのです。

12年間、エカテリーナの愛人だった
グレゴリー・オルロフ(1734-1783)

近衛連隊に配属されていたグリゴリー・オルロフは、長身で、ガッチリした男らしい体格、整った顔。武力や戦略に比類なき才能を発揮するかと思うと、社交にも長け、出会う女性を一瞬のうちに魅了する全てを備えている。

エカテリーナの夫は、というと、ひ弱で、情緒不安定で、判断力に欠け、奇妙な行動をとり、無能呼ばわりされていたような人。第7代ロシア皇帝ピョートル3世になっても、側近からも国民からも信頼されず、ついにクーデターが起きる。その時大活躍したのがグリゴリー・オルロフと彼の兄弟でした。

それ以前からグリゴリー・オルロフと愛人関係になっていたエカテリーナは、クーデターで夫が惨めな最期を閉じた年の1762年には、彼の子供を身ごもっていて、同年に男の子アレクシを産み、伯爵の称号を与えます。それ以前の愛人セルゲイとの間にも男子パーベルが生まれていて、後に皇帝になります。バーベルは自分の父親はピョートル3世で、母の愛人の子ではないと生涯主張しますが、エカテリーナがセルゲイの子だと回想録に書いているので、これは動かせない事実。

エカテリーナが産んだオルロフの息子アレクセイ
(1762-1813)

6か月しか皇帝の座にいなかった夫亡き後、大国ロシアの女帝になったエカテリーナの寵愛を一身に受けていたオルロフは、女帝から伯爵、後には公爵の称号をもらっただけでなく、多額の報酬、館、土地、宝石などを受け取り、宮殿内に豪華な家具や絵画が飾られた居室も与えられ、至れり尽くせり。大理石を豊富に使用したきらびやかな宮殿さえも建てさせたのです。けれども、やがて、気まぐれで、若く有能な愛人なしで生きていられないエカテリーナは、彼を遠ざけるようになります。出会いから約12年後のことで、長続きした方です。

12年間もの長い間連れ添い、しかもクーデターの主導権を握り、女帝の地位につけてくれた大恩あるオルロフだっただけに、別れる際にエカテリーナは派手なプレゼントをします。今後、不自由なく暮らせしていけるだけの多額の現金、4000人もの農民、宮殿内の彼の居室で愛用していた家具など、できる限りの贈り物をします。

そうした中で、特に目立ったのは銀製品で、ルイ15世お気に入りのフランスで最高級の金銀細工師に製作を依頼。60人用の食卓セットで、700近い食器、80を越える燭台、コーヒ―ポットは40、もちろん、ナイフ、フォーク、スプーンもある。その数は全部で3000.製作に使用した銀は2トン。歴史に残るほど破格のプレゼントでした。

オルロフが1783年に世を去ると、彼ほど素晴らしい人はいなかったと嘆き、1週間ほど悲嘆に暮れていましたが、ある日、突然、彼にプレゼントした銀の食卓製品をオルロフ家から買い取り、国のものとします。けれどもロシア革命で、盗まれたり、外国に売られたりし、オルロフに贈った銀製品のほとんどは、行方がわからなくなります。

エカテリーナ2世がオルロフと別れる際に贈った、
銀の食卓製品の一部が、パリのニッシム・ドゥ・カモンド美術館に
展示してあります。
めまいを起こしそうなほど、
きめ細やかな細工。

ところが、奇跡的にその貴重な銀製品を手に入れた貴族がパリにいたのです。大銀行家コマンド伯爵で、その数点が、現在、ニッシム・ドゥ・カモンド美術館に展示されています。眩いばかりの輝きを放つ、ゴージャス極まりない銀製品。これが3000点もあったのだから、エカテリーナ2世が君臨していた18世紀のロシア宮廷の凄さは、想像を絶するほど。エカテリーナ2世のオルロフへの愛の深さが煌めいているような逸品です。

一方、女帝が産んだオルロフの息子アレクシは、初代ボブリンスキー伯爵となり、結婚し、5人の子供が生まれ、その子孫は実業家、政治家、学者として活躍。ロシア革命でフランスに亡命した人もいます。エカテリーナ2世はオルロフに何世紀も続く子孫まで与えたといえます。

また、ネヴァ川に面した30種類以上の大理石を使用した華麗な大理石宮殿も、エカテリーナ2世がオルロフのために建築させたネオクラシックの美しい建造物で、今はサンクトペテルブルクの美術館となっています。

ネオクラシックの優美な大理石宮殿

銀製品、アレクシの子孫たち、大理石宮殿は、エカテリーナ2世とオルロフの愛を今でも語り続けているのです。

2024年4月14日

マリー・アントワネット自叙伝 25

 お兄さまがヴェルサイユ宮殿に

お母さまと共同でオーストリアを治めているヨーゼフ2世お兄さまが、ヴェルサイユ宮殿にいらしたはこの上もない喜びでした。何しろ結婚してから家族に会うのは初めてのこと。うれしくてうれしくて、子供のようにはしゃいでしまいました。

ヴェルサイユの森を切り開いて建築した宮殿なので、
周囲は深い緑で囲まれていました。


長い歴史を刻んだ家に生まれ、大公女として育てられ、14歳で見も知らない外国人と結婚させられ、いじわるな女官長や婚期を逃した叔母たちに悪知恵を叩き込まれ、ひとりも味方のいないまま、わけのわからない義務を果たしていたのですから、疲れきっていました。


そうしたときに頼りがいがあるお兄さまがいらしたのです。血を分けた家族に会えるのは最高です。気を使う必要はないし、いろいろな不満を打ち明けても、告げ口される心配もないのだから。もう、思いっきり甘えようと歓喜した私でした。

大好きな頼りがいがあるヨーゼフ2世お兄さま。

驚いたことにお兄さまは、偽名を使っていたのです。ファルケンシュタイン伯爵。それがお兄さまがフランス滞在中の、1777年4月18日から5月30日まで使っていたお名前。もちろんヴェルサイユ宮殿内にお兄さまのお部屋を準備していたのですが、それを断って、安いホテルをわざわざ選んでいました。なぜかというと、身分がわかると儀式に時間を取られたり、行動範囲も狭くなる。国の本当の事情を知るためには、無名でいるのが賢明と判断したからなのです。何て素晴しい考えの持ち主でしょう。自分の兄ながら尊敬します。


4月18日にパリ入りしたお兄さまは、駐仏オーストリア大使公邸に行きご挨拶。翌日、メルシー大使と一緒にヴェルサイユ宮殿に向かう予定だったのですが、大使は病気で動けなく、代わりにヴェルモン神父さまが同行しました。ヴェルモン神父さまは、まず、私のお部屋にお兄さまをお通しして、久しぶりの再会を水入らずで楽しめるように席を外してくださいました。私の監視役として、お母さまに告げ口ばかりしているメルシー大使に比べて、何て理解がある人でしょう。その後、夫のお部屋には私がご案内しました。それからあまり気が進みませんでしたが、義理の弟たちにもお兄さまをご紹介。敏感なお兄さまは即座に、プロヴァンス伯とアルトワ伯のいじわるで貪欲な性格を見抜いたようです。

お兄さまのヴェルサイユ宮殿訪問は、
この上ない喜びでした。

お兄さまはかなり精力的に動き回って、パリではアンヴァリッドやゴブラン織り工場、オテル・デュ病院などを訪問。その他地方も視察。ブレスト軍港の視察、リヨンやマルセイユ、ボルドーにも足を運んだそう。フランスの様々な面を見て回ったのですが、それは君主として必要だったから。


でも、一番大事な目的は、後で知ったことですが、国王にお会いしてアドバイスをすることだったのです。とういうのは、結婚して7年もたつのに、ルイ16世に世継ぎが生まれていなかったからなのです。お母さまはそのことをずっと心配していて、もっと国王に優しくしなさいとか、甘えた態度を示しなさいとか、手紙でうるさく言っていたのですが、夫は私にまったく無関心で、結婚して7年もの長い間、私に指一本触れることがありませんでした。


優しいのは優しいけれど、それだけではやはり不満。何でも好きなようにさせてくだったことは感謝するけれど、あまりにも無関心なので、私に女性としての魅力がないのかと悩んだこともありました。宮廷の殿方たちは、皆、私が魅惑的だとおっしゃるのに、夫がいかにド近眼だとはいえ、あんまりです。


王妃の役目は国に世継ぎを授けることだと、お母さまはすごくしつこかったけれど、こればかりは・・・・だから私はうさ晴らしのために、パリに頻繁に行ってオペラや劇、舞踏会、ときには賭け事に夢中になっていたのです。ドレスやヘアスタイルが日に日に派手になった理由も、今考えると気晴らしだったのかもしれない。


お兄さまは男同士だからと夫を気楽にし、心置きなく話し合って、どうやら夫の体に欠陥があるとわかったので、手術をすすめました。私の人生に大きな変化が起きたのは、その翌年でした。

 

フランスにいらしたとき、35歳のお兄さまは独身でした。美しく優しいパルマ公女マリア・イザベラさまと結婚し、相思相愛だったのですが、お妃が結婚からわずか3年後に病死したのです。お兄さまの嘆きはとても大きく、もう2度と結婚しないのではないかと思ったほどでした。でも皇帝にお妃がいないのは、国民にとっても諸外国の手前も許されないことです。「気が進まない」などと贅沢を言っている場合ではないので、バイエルン選帝侯の王女マリア・ヨーゼファさまを新たなお妃として迎えました。ところが彼女も結婚2年後に病死し、それ以後お兄さまは再婚しなかったのです。子供もいませんでした。

お兄さまの最初のお妃マリア・イザベラさま。

2番目のお妃マリア・ヨーゼファさま。


ウィーンで国務に専念していたお兄さまの耳にも、デュ・バリー夫人の噂は届いていたようです。ルイ15世亡き後、ヴェルサイユ宮殿から追い出されたことも、ポント・ダム修道院で、しばらくの間つつましい日々を送っていたことも知っていました。それだけでなく、1776年、つまりお兄さまがフランスに極秘でいらした前年に、ルイ15世逝去で取り上げられたルーヴシエンヌの館を、デュ・バリー夫人が取り戻したことも知っていて、彼女に会いにその館に意気揚々と行ったのです、ルーヴシエンヌの館に再び暮らしたいと願ったデュ・バリー夫人は、自ら国王に、つまり私の夫に頼み、気が弱い夫はすぐに同意したのです。

デュ・バリー夫人が暮らしていた
ルーヴシエンヌのシャトーの一部。


お兄さまは私やお母さまには、短時間しかいなかったと報告したけれど、とんでもない。実際には2時間もの長い間ルーヴシエンヌにいたのです。でも、こう見えても私は寛大で、やさしい心も持っている人。本当は前国王の前愛妾のことは、大して気にならなかったのです。それよりも一刻も早く母親にならなければという思いで一杯でした。

2024年4月11日

「宰相ロランの聖母」とチュイルリー公園

 春らしい日差しの中で、木や花がキレイな色を見せていて、散策する人が一挙に増えているチュイルリー公園。ここの大きな楽しみは、毎年、異なるテーマでお花が植えられること。今年はルーヴル美術館の秘蔵品、ヤン・ファン・エイクの名作「宰相ロランの聖母」がテーマ。この名作の修復が完了したお祝いに、ルーヴル美術館では特別展が開催されています。

「宰相ロランの聖母」1435年頃の作品。
細密なディテールに圧倒されないではいない。

チュイルリー公園ではこの作品に見られる色に合った花々を選び、独特な雰囲気を放っています。その近くには絵の写真と、花の名前を書いたボードがあり、わかりやすく解説。美術館に隣接する公園ならではの配慮です。ヤン・ファン・エイクは私が好きな画家のひとりなので、近日中に、彼に捧げるフランス最大規模の展覧会を鑑賞するために、ルーヴル美術館に行きます。

自然に植えられた、のびのびした花たち。
アネモネ、チューリップ、ナルシスetc

「宰相ロランの聖母」へのオマージュは、
公園いっぱいに広がっています。

花壇の近くのボードには
「宰相ロランの聖母」の写真と
花の名が書かれています。

2024年4月8日

デザイン&アート展

 パリはやはりアートを大切にする街。今年も、デザイン&アート展を開催。思った通り大勢の人出で、会場全体に熱気にあふれていて、しかも外国人が多い。コレクターが様々な国から訪れるのです。あちらこちらのブースで、くわしい説明を聞いたり、価格を聞いたり。服装もきちんとしていて、まさに大人の世界。

展示されている多くの作品のから数点ご紹介します。

コンテンポラリーでありながら、
伝統美もそなえているソファとカーペット。
ぐるっと一回りしたくなる、立方体の鏡。
壁に飾るのではなく、
部屋の中央に置くという意表をつくアイディアが
すばらしい。

刺繍糸を使用したかなり個性的な鏡。

オリジナリティあふれる、表情豊かな動物のオブジェ。
人気を呼んでいました。

ジュエリーのような輝きを放つ花瓶。

息が通っているような、動きが感じられる家具。

気品が漂うエレガントなファーニチャー。

商談の最中でしょうか。
訪問者の服装や動きも絵になるインテリア展。

鳩の背中で憩えるベンチ。
座る個所が木製で座り心地が良さそう。

「座ってみてください」と言われ、
試してみると、2羽の鳩に守られているようで、
幸福感に包まれるのが最高。

その近くにはたくさんの羊たち。
彼らもオブジェで、出品作品なのです。

2024年4月5日

国会議事堂の正面にミロのヴィーナス像が

 オリンピックの準備が着々と進んでいるパリ。いかにしてパリらしい、というより、いかにしてパリならではのオリンピックにするか、それが一番重要なこと。つまり、いまだかつてないほどの、個性的なパリ・オリンピックにしたいのです。その具体的な例のひとつが、セーヌ川でのオープニングセレモニー。

このオリンピックを盛り上げるためのアイディアが、すでに見られます。ナンと、国会議事堂の正面に、フランスの宝物的存在のミロのヴィーナスが飾られているのです。ルーヴル美術館の大理石のミロのヴィーナスではなく、アクリル樹脂で製作したカラフルな6つのヴィーナスで、それぞれがオリンピック競技にいどむ姿をしています。ルーヴル美術館のミロのヴィーナスは片腕しかありませんが、ここのヴィーナスの中には両腕のもある。

国会議事堂の正面に、何やら見かけない像が並んでいる。

近づいてみると、何と、ミロのヴィーナスではないか。
しかもカラフルで、皆、競技の用具を手にしている。
どれも色鮮やかなミロのヴィーナス。

どのヴィーナスにも力強さがあって、
競技に挑む意志が感じられる。

この像は9月半ばまでここに飾られているそう。それにしても何という思い切ったアイディア。やはり、さすが芸術の街パリ。


コリント様式の柱が重厚な趣をかもしだしている国会議事堂。
この様式の起源はギリシャ。
オリンピックが誕生したのもギリシャ。
ミロのヴィーナスもギリシャが故郷。
だから、ここに、
このような像が飾られているのではないか、
と、ふと、思いました。

2024年4月1日

マリー・アントワネット自叙伝 24

 ローズ・ベルタンとレオナール

 シャルトル公爵夫人が紹介してくださったローズ・ベルタンは、飛びぬけたセンスを持っているデザイナーで、私がそれまで着ていたドレス全部が時代遅れに見えるほど、斬新な服作りに長けた女性でした。

フランスだけでなく、
ヨーロッパ全土に名を轟かせていた
ローズ・ベルタン。

パリの中心にあるベルタンのお洒落なブティック「オ・グラン・モゴル」は、1773年にオープンしたそうです。ということは、私がまだ皇太子妃だった時代です。「オ・グラン・モゴル」はイギリスやロシア、デンマーク、スペイン、ポルトガルの王侯貴族がオーダーしていたほどの大人気だったそうなのに、ヴェルサイユ宮殿の奥深くで暮らしていた私は、かわいそうに、そうしたことも知らないで、カビが生えた伝統をおしつけられていたのです。


ベルタンの才能を知った私は、もう夢中。宮殿の私室で、彼女が持参する新しい布地やデザイン画を前に、あれこれ語り合うのは最高の喜びになりました。金額は気になりませんでした。王妃の私はたくさんの予算があったし、万が一底をついたら、何でも許してくれる優しい夫が工面してくれるにちがいない。


すっかり大胆になった私は、フランス王妃にふさわしいたゴージャスなドレスに身を包みたくて、リボンやレースをたっぷりつけ、ボタンはダイヤモンド、時にはパールを施したドレスをベルタンにお願いしていました。彼女は「モード大臣」と呼ばれ、ブティックには「フランス王妃御用達」と華々しく書いて宣伝。以前にも増して世界の富豪から注文を受けるようになったのです。

リシュリュ―通りのベルタンのブティックは、大人気。
それ以前はパレ・ロワイヤル近くの
サントノレ通りにお店があったのです。

彼女のブティック「オ・グラン・モゴル」の外観。
当初はリシュリュー通り13番地にありましたが、その時は借家。
でも王妃のお抱えデザイナーとなって、利益が急上昇し、
同じ通りの26番地に引っ越します。1789年4月のことでした。

引っ越し先のリシュリュー通り26番地。
この建物の一部をベルタンが女が買い、持ち主とななったのです。
1階がブティックで2階が住まいでした。


フランスのエレガンスはこのようにして、外国に広まっていったのです。恐らくベルタンが、世界に最初に名を轟かせた最初のフランスデザイナーでしょう。


ベルタンはモードに長けていましたが、ヘアも結構お上手でした。でも、ヘアに関しては、それ以上に素晴らしい腕を持つのが、レオナール=アレクシ・オティエ。マジシャンのような手さばきと斬新なアイディアで、貴婦人たちの心を虜にしていたレオナールでした。


1751年に、フランス西南のガスコーニュで、三人兄弟の長男として生まれたレオナール=アレクシ・オティエは、最初ボルドーでヘアスタイリストとして働いていたそうです。でも、かなり高く評価されていたので、首都に出店することを思い立って、パリに本拠を移したのです。

ヘアデザイナー、
レオナール=アレクシ・オティエ。

レオナールが好んでいたのは、髪型を芸術作品のように、もっとわかりやすく言うと、彫刻のようにすることでした。それは今まで誰も思いつかなかったことで、アート性が高い独創的なレオナールのヘアスタイルは、またたく間にパリのお洒落な女性たちの心をつかんだのです。あまりにも人気があり自分ひとりでは手に負えないので、弟たちもパリに呼び寄せて手伝わせたそうです。


1769年にパリに来たレオナールは、当初、女優さんたちのヘアを引き受けていました。創造性豊かなヘアスタイルは直ぐに大評判になり、貴族夫人たちが騒ぎ始めたのです。ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人も同じでした。それだけでなく、私の侍女もレオナールに頼んでいました。そうなると当時皇太子妃だった私も、もはや無関心でいられない。宮廷に古くから仕えていたヘアスタイリストに義務で髪を結ってもらった後、秘かにレオナールをプライベートルームに呼んで、手を加えていただいたこともあります。


王妃になるのは何て素晴らしいこと。そうした気遣いはもはや必要ないのです。自分で選んだヘアスタイリストに、正々堂々と流行の髪型を頼めるのです。本当に素晴らしいこと。


レオナールは背の高いヘアスタイルが好きでしたが、それはボリュームあるドレスとのハーモニーを考えてのことだったのです。彼がクリエイトするヘアスタイルは、ヴェルサイユ宮殿にさらなる煌めきを与えていました。貴族夫人たちもこぞってゴージャスなヘアだったのですから、いかに華々しかったかおわかりいただけるでしょう。大変だったのは馬車に乗るとき。せっかくのヘアスタイルを壊さないように、体を折るようにしなければなりませんでした。場合によっては馬車の中の椅子に腰かけずに、床にひざまずかなければならなかった貴族夫人がいたほど。

レオナールはヴォリュームがあるヘアスタイルを好んでいました。


大正装のときは、ひときわ華やかでした。ドレスの華麗さと一致させるために、ダイヤモンドやフェザー、パール、リボンなどが必要でした。まるでドレスの続きのようなヘアスタイルだったのです。オリジナリティあふれる髪型がすっかり気に入り、ルイ14世時代以来、ヨーロッパ諸国から憧れの目で注目された大国フランスの王妃らしい、と私は自信にあふれていました。

レオナールによって
王妃にふさわしいヘアスタイルになり、大満足でした。
まるで彫刻のようなヘアスタイル。


夫はときにはびっくりしたように、目を大きく開いて私の髪型を見ていましたが、ただそれだけ。妻の好みに口を挟むような人ではないのです。

ベルタンとレオナールはこの「黄金の間」に来てもらっていました。
この部屋はプライベート・ルームのひとつで、
ごく限られた人だけ入れたのです。