2024年10月23日

マリー・アントワネット自叙伝 38

パリ市民たちがヴェルサイユへ

 フランドル連隊を歓迎をする夜会を開いた数日後の10月5日朝でした。水や魚や野菜、燃料や古着を売ったり買ったりする女性たちが市場に集まっている間に、パンも食べられない最悪の状態を国王に直接訴えよう。そのためにヴェルサイユ宮殿に行進しようと騒ぎ出しました。そしてそのすぐ近くにあった、パリ市長舎前のグレーヴ広場に向かったのです。騒ぎを知ってまたたく間に多くのパリの女性たちが集まりました。

10月5日早朝に、市場に集まった女性たちが、
その近くにあるパリ市庁舎前広場に向かいました。

パリ市庁舎とその手前のグレーヴ広場。

ヴェルサイユ宮殿への行進の指揮をとったのは、7月14日にバスティーユを襲撃したとき、司令官を捕らえ革命の英雄と称えられたマイヤールです。彼はまず女性たちと市長舎に入り、銃と大砲を略奪します。その後、国民のみじめな生活を見てもらいたいから、王をパリに連れて来るのだと口走りながら、宮殿に向かって行ったのです。この行進に出来るだけ多くの人を参加させようと、パリ市長舎近くの教会の鐘を派手にかき鳴らしたそうです。

女性たちの指揮をとったマイヤール

市庁舎に入り込み、銃や大砲まで奪いました。
ラ・ファイエット将軍率いる兵が到着したときには、
パリ市民はすでに多くの武器を奪っていました。


その行進には女性だけでなく、男性も数百人いました。パリを出発した時には7000人ほどだったのが、途中から加わる人もいてヴェルサイユに到着したのは1万人を越えていたようです。許しがたいのは私たちのことを「パン屋とパン屋のおかみさん」などと言っていたこと。それを知ったときには怒りがこみあげてきました。一国の王と王妃をこのように呼ぶなんて、ハプスブルク家とブルボン家が同時に侮辱されたようでした。王家や王政に反対する過激な印刷物や動きに目を光らせていたフェルセンさまは、10月5日のパリ市民たちの結束を知って、心配のあまり、愛馬に乗って宮殿へと急いだのでした。

パリからヴェルサイユ宮殿に向かう
女性を中心としたパリ市民たち。

馬に乗る女性、太鼓をたたく女性が行進の先頭の立っていて、
女性の力がいかに大きいかを見せていました。

 パリ市民たちが、銃や槍や斧などの武器を手に、大騒ぎしながら6時間も歩いてヴェルサイユ宮殿に向かっていた10月5日、私はいつもの通り、プティ・トリアノンの裏手にある、お気に入りの洞窟に腰かけていました。そこで10月の澄み切った空気を満喫していました。どのくらいそうしていたでしょう。ふと視線を遠くに向けると、小姓が急ぎ足で洞窟に向かっているのが見えました。かなり急いでいたようで、手にしていたメモを私に手渡したときには、息切れをしていたほどでした。それを身近で感じた私は、よほど重要なことがそこに書いてあるに違いないと、一瞬、鼓動が早まりました。メモには「すぐに宮殿にお戻りください」と短い文が書かれているだけでした。

その日、いつもの通り
私はお気に入りのプティ・トリアノンの庭園にある
洞窟に腰かけていました。

事情が全く分からないので、不安を抱えたまま、小雨が降っている中を宮殿に早足で向かいました。すると、どうでしょう。宮殿の隅々まで緊張感が行き交い、大騒ぎの状態だったのです。早朝からムードンの森で狩猟を楽しんでいた夫も呼び戻され、側近たちと不安な表情で意見を交換していました。そうした中に、フェルセンさまの姿を見つけて嬉しかったのですが、あの方も厳しい表情をしていて、かなり重大なことが起きたのに違いないと心配が大きくなるばかり。 

宮殿は大騒ぎ。
事情がよくわからないために、
不安と混乱が大きかったのです。
 

パリから数千人もが宮殿に向かい、国王に直接会って話をしたいと騒いでいる。武器さえも持っている。身の危険が迫っている国王一家をどうするべきかと、様々な意見が飛び交っていたのです。国務大臣サン・プリースト伯爵の提案は、群衆がヴェルサイユに向かうのを妨げるために、その途中にあるサン・クルーやセーヴル、ヌイイの橋を軍隊に占拠させ、国王は800人の衛兵と共に群衆に向かい、その間に、王妃をはじめとする王家の人々は、ランブイエ城に避難し、国王は後にその城に向かわれるのが最良でしょうと意見を延べまでた。パリ市民たちに首都に戻るよう国王が説得し、万が一それに従わない場合には、軍に発砲を命じるのだと伯爵は付け加えました。その場にいらしたフェルセンさまは、サン・プリースト伯爵の意見に賛成のようでした。

国務大臣、サン・プリースト伯爵。

14世紀に建築されたランブイエ城
古めかしいシャトーで私は気に入りませんでした。
夫は私のご機嫌をとるために、酪農場を建てさせました。
私がプティ・トリアノンの村里の酪農場が好きなのを知っていたからです。

夫はその案に納得したようですが、私は反対でした。この大きな危険の中で夫と離れたくない、というより、夫ひとりをそうした状況の中に残して、自分だけが安全な場に避難したくなかったのです。私がそのように発言すると、側近たちはかなり驚いたようです。まさかこの私が、夫のために自分の身を危険にさらすとは思ってもいなかったのでしょう。でも私は王妃です。国王である夫と運命を共にするのは、当然のことだという自覚があったのです。

そうしている間に、女性たちを中心とした行進が、宮殿前に到着し、近衛兵たちといざこざを起こしているとの知らせが届きました。パリからの長い道のりを休むことなく、しかも雨が降り出し、食べ物もほとんど口にすることもないまま歩き続け、ヴェルサイユ宮殿近くに到着した市民たちは、疲労と寒さ、空腹で怒りが頂点に達し、かなり殺気立っていたようです。


宮殿前に到着したパリ市民たち。
疲労、空腹、寒さ、雨で憔悴しきっていたそうです。


そのうちマイヤールを先頭に女性たちは国民議会に強引に入り、「パンをパンを」と金切り声を上げ、マイヤールと6人の女性が宮殿で夫に会うことが許されたのです。夫はその代表の人たちに、希望のものはすべて差し上げますなどと、やさしく声をかけ、それでおさまったのかとほっと安堵したのですが、外で待っていた群衆は納得しなかったのです。そんな言葉に騙されない、欲しいのは王妃の首だなどと、恐ろしいことを口にするようになったのです。これ以上、国王一家を、国民から遠いヴェルサイユ宮殿に暮させておくわけにはいかない。パリに連れて行って、自分たちの悲惨な生活を見せるのだと、いつの間にかパン要求が、国王一家をパリに暮らさせ、自分たちで監視することになっていたのです。


中には近衛兵に立ち向かう人もいました。

時間が経つに連れて苛立った女性たちが近衛兵ともみ合い、大騒ぎになりました。武器を持っているとはいえ、相手が女性なので、衛兵たちもどうしていいのか戸惑っていたようです。その間、国王一家の身の振り方に関して、まだ意見が飛び交っていました、

「ヴェルサイユ宮殿を離れパリに暮らすようになったら、市民たちのいいなりになるばかりで、王権さえも危険にさらされます、もはや、議論などしている場合ではございません」

 と、サン・プリースト伯爵は一刻も早く馬車に乗ってランブイエへとせきたてました。夫も承知し、馬車を用意し出発しようとしたとき、馬車が群衆に囲まれ動けなくなっていると知らされました。それを知った夫は

「宮殿に残る」

と、力なく側近に伝えました。

その後、8月に決めた「人権宣言」にも、国民議会の希望で署名し正式に認めました。そのとき気が弱い夫は涙を流していました。勇気あるフェルセンさまは、力ずくで馬車を出すつもりでいらしたし、私は夫と一緒ならば、とランブイエに行く決心をしたというのに、結局、宮殿に留まることになってしまったのです。これが私たちの運命を決定したのです。フェルセンさまはこの日の出来事を悔んで、後年に日記に書いています。

 

・・・あの日のことをはっきり覚えている。ヴェルサイユ宮殿での我々のあらゆる苦悩を。あのとき、あの方たちが宮殿から去っていたのであれば、救われたというのに! ・・・


やっと国民衛兵司令官ラ・ファイエット将軍が約2万の国民衛兵と到着しました。彼は国民衛兵軍の最高司令官なので、国民側か王家側か最初はわからなかったのですが、宮殿の中に入るすぐに、国王一家を命にかけてお守りしますと誓い、パリ市民たちも納得させたと言うので、一応信じることにしました。ラ・ファイエット将軍は貴族出身なのです。その言葉を聞いて安心し、6日朝2時ころに寝室に向かいました。ラ・ファイエット将軍の指示で、その夜は国民衛兵ではなく近衛兵が宮殿を守ることになり、国民衛兵たちはいくつかの宿舎で休息に入りました。将軍は宮殿から少し離れたところにあった、貴族ノアイユの豪華な邸宅に向かい、そこでぐっすりお休みになったのです。

ラ・ファイエット将軍
バスティーユ襲撃の後、国の治安を守るための
国民衛兵軍司令官に任命されました。

今考えると、近衛兵だけでなく、パリから引き連れてきた国民衛兵も宮殿を守っていたなら、その後の悲劇を避けられたかもしれない。有能な指揮官であるならば、様々な事を予測して、万が一を考えてそれなりの準備をすべきだった。それなのにラ・ファイエット将軍は、自分が来たからには王家の人々は大丈夫、パリ市民たちも自分の言う事を聞き入れ宮殿に押しかけるはずがないと自信満々。安心しきって貴族の邸宅でやすらかに眠ってしまったのです。将軍のこの判断の間違いは悔やんでも悔やみきれません。

2024年10月13日

ボルゲーゼ美術館の傑作展

リニューアル工事のために1年間閉鎖されていたジャックマール=アンドレ美術館が、再オープンに伴い開催しているのは「ボルゲーゼ美術館の傑作展」。この美術館は、裕福な銀行家アンドレとその妻ジャックマールが建築させた19世紀の優美な大邸宅。芸術をこよなく愛し、多くのコレクションをしていた夫妻でした。特にイタリア・ルネッサンスに傾倒し、その時期の名作も数多く収集していた夫妻なので、今回の展覧会はお二人にふさわしい。

19世紀にアンドレとジャックマール夫妻が建築させた邸宅。
建物の手前には美しい庭園があります。

ローマにあるボルゲーゼ美術館はイタリア・ルネッサンスとバロックの作品が多く、しかもため息が出るほどの名作ばかり。美術館はもともと枢機卿スピキオーネ(スピオーネ)・ボルゲーゼ(1577-1633)の別邸として17世紀に建築されたもの。彼は教王パウルス5世の甥にあたる。ボルゲーゼ家は代々芸術家を庇護していて、そのお蔭で、多くの優秀なアーティストが生まれています。特にマルカントニオ4世・ボルゲーゼは破格の美術愛好家で、絵画や彫刻のコレクションは増える一方。彼はナポレオン支持者でもあった。その子供カミッロ・フィリッポ・ボルゲーゼがナポレオン1世皇帝の妹ポリーヌと結婚し、フランスと深い絆が生まれているのです。ボルゲーゼ美術館が国立美術館になったのは1903年で、イタリア・ルネッサンスとバロックの宝庫として多くの訪問者を迎えている。

17世紀に建築されたローマのボルゲーゼ家の別荘。
現在はボルゲーゼ美術館。

ナポレオン・ボナパルトの時代にボルゲーゼ家の多くの芸術作品がフランスに送られ、今でもルーヴル美術館で展示されているのがあるけれど、今回ジャックマール=アンドレ美術館で見られる40の作品は、傑作ぞろい。その上、すべて借りているだけ。来年1月5日以降はパリで鑑賞できない。それだけに貴重。

絶対に見逃したくない展覧会なので、平日のランチタイムだったらすいているかも、と期待していたけれど、とんでもない、すごい行列。ルネサンス発祥国イタリアの、当時の芸術性豊かな空気が会場いっぱいにみなぎっていて、誰もがそこに身を置く幸せに浸っている印象を受けました。

展示室はテーマによって8つに別かれている。

私が絶対に見たかった、
ラファエロ作の「一角獣を抱く貴婦人」。1506年頃の作品で、
レオナル・ド・ダヴィンチの「モナ・リザ」と類似点があるとされている。
裕福な貴族の女性ならではの風雅な服装、豪華なジュエリー、
落ち着きある態度、冷静な視線。静謐な美しさがあり、ただじっと見ていたい。

ボッティチェリの
「聖母子、若い洗礼者ヨハネと6人の天使」
珍しい円形の作品で思い切った試みとされている。

「レダと白鳥」
レオナルド・ダ・ヴィンチの作品に基づいた絵で、
彼が手掛けたオリジナルは紛失したが、
それに最も忠実に描かれた最も古い作品。

ギリシャ神話の全能の神ゼウスが白鳥に変身し、
スパルタ王の妻レダを誘惑し、
2人の間に子供が生まれた物語がテーマ。

カラヴァッジョの「果物籠を持つ少年」1596年頃の油絵。
ボルゲーゼ枢機卿がコレクションを始めた初期に購入。
カラヴァッジョは光と影の明暗をはっきり区別する技法で、
ドラマティックな絵を描いていたが、彼の人生そのものも劇的だった。

ヴェロネーゼの「洗礼者ヨハネの予言」
1566-1570頃の油絵。
中央に描かれた洗礼者ヨハネによって、
右側の3人のレビ人と左端の救世主キリストが分かれている。
ヴェネツィアの教会からボルゲーゼ家に寄贈された作品。

ルーベンス作「スザンナと長老たち」
貞淑な妻スザンナが水浴びしている時、
老人たちに言い寄られている場面が描かれていて、
スザンナの躍動感がある姿に迫力がある。
展覧会会場はこの豪奢な階段を上った2階奥。
ぜひもう一度行きたい。

2024年10月11日

マリーアントワネット自叙伝 37

 不安な日々とフェルセンさま

 バスティーユが群衆によって襲撃された翌日の7月15日、夫は2人の弟を伴って国民議会に行き、軍隊の撤去とネケールを再び財務長官にすると約束しました。かなり激化した国民たちを納得させるために、仕方なかったのです。


ヴェルサイユ宮殿の中庭には、驚くほど多くの群衆が集まっていました。彼らが声を揃えて、国王一家が姿を見せることを要求したので、それに従うことにしました。夫、私、娘、息子、全員がバルコニーに姿を見せると「国王バンザイ!」の声があがったのですが、心から喜んでいる様子は全く感じられず、私の胸には、不安がいっぱいに広がっていました。これ以降、何が起きるかわからないので、末の弟アルトワ伯や、目に余る浪費で国民の怒りを買っていたポリニャック侯爵夫妻は、いち早く亡命しました。彼らの他に、夫のいとこのコンデ公一家や、その他の貴族たちも続々とフランスを離れて行きました。

国民の要望にこたえるために、
家族揃って2階のバルコニーに立ちました。

私が大嫌いな上の弟プロヴァンス伯は、そのままヴェルサイユに残っていました。万が一のことを考えて、夫がそのような指示を出したのです。忠実な身近な貴族たちが次々に亡命し、不安は増す一方でした。心の頼りにしていたヴェルモン神父さまさえ、フランスから逃げ出して行ったのです。


7月17日に夫はパリ市長舎に向かいました。それを知った私は、もしかしたら夫に二度と会えないのではないかと、大きな不安に駆られました。何しろバスティーユが襲撃された日に、当時のパリ市長フレッセルが殺され、その後新たに市長になったのがバイイで、テニスコート場の誓いで議長を務めた人。そのような市長から呼ばれて、王がのこのこ出かけることに同意したことに、苛立ちさえ感じました。

1789年7月17日、夫はパリ市庁舎に向かいました。


市長舎に着いた夫はバイイ市長に迎えられ、設定されたばかりの三色帽章を受け取り付けたのです。それが後にフランス三色旗になりますが、赤と青はパリ市の色で、その間に国王の色の白をはさみ、国民と国王は平等という意味があったのです。それを付けることは、平等になったことを認めたのと同じこと。それだけでなく、市長舎の広場に集まっていた群衆にこたえるために、夫は窓から顔を出し愛嬌を振りまいたそうです。ここまでくれば、もう国王の権威がないも同然。無事に宮殿に戻ってきた夫の姿を見て、安堵から涙を流した私でしたが、国王になる人と結婚したのに、と不満を口にしないではいられませんでした。気分を害した私を、夫はただ悲しそうに見るだけでした。同じ日にバスティーユの解体が始まりました。

パリ市庁バイイに迎えられるルイ16世。


このような時に、有能で勇気あるあの方が傍にいてくれたらと、何度思ったことでしょう。フェルセンさまはこの時、フランス北部のヴァランシエンヌに駐屯していらしたのです。でも、パリやヴェルサイユで起きている事態の危険を感じたあの方は、私たち、とうより、私の身を案じて一刻も早く首都に戻らなければと思っていたようです。お妹さまにそのようにお手紙を書いたのです。多くの貴族たちが危険を察して国外に逃亡していたというのに、フェルセンさまはヴェルサイユに戻る決意を固めていたのです。本当に気高い騎士道精神の持ち主です。


多くの貴族たちが先を争って亡命していったために、彼らのために働いていた人々が失業し、国民たちの暮らしはさらに厳しくなったようです。パリには不穏な空気が漂い、そうした市民たちの心をつかんでいたのが、革命家たちが発行していた王政非難のパンプレットや印刷物でした。8月26日には自由や平等など、17条の革命の基本的原則を掲げた「人権宣言」が国民議会で取り入れられました。国民たちは公に自分たちの人間としての、また市民としての権利を主張したのです。それまで何世紀もの間、当然のように続いていた国王支配から脱出すべきだと結束したのです。

人間と市民の権利の宣言「人権宣言」。
8月26日に国民議会で設定されました。

このような世の動きや乱れを危険だと感じた夫は、フランドル連隊に援助を頼みました。オランダ南部、ベルギー、フランス北部に広がるフランドル地方に駐屯していた連隊です。王宮と王家の人々を守ってもらうのが目的でした。9月23日にフランドル地方のドゥエから、大量の武器と共にヴェルサイユに到着した連隊を歓迎するために、10月1日に宮殿内のオペラ劇場で祝宴を催すことにしました。劇場の舞台の上に馬蹄形にテーブルが並べられ、ワインやお料理が山のように置かれ、誰もが美味に酔っていました。


宮殿のオペラ劇場の舞台上に豪華な食事を振る舞いました。
思いがけない接待に連隊の人々は大喜びし、まるでお祭り騒ぎ。

私はその場に行くつもりはなかったのです。なぜなら、それは軍人たちのためのお祝いだったからです。でも、狩猟から戻ってきた夫が、ちょっと様子を見ようなどどいうものですから、子供たちも連れてオペラ劇場に向かいました。最初は2階にある王家専用の囲いがある部屋にいたのですが、私たちが家族そろってそこにいるのを見た軍人たちが、バンザイとか乾杯などと叫んだり、拍手をしたりトランペットを吹いたりして大歓迎するので、そこから出て1階に行くことにしました。私たちを守るために来てくださったのだから、ご挨拶するのは当然だと思ったので、皆さんに笑顔を振りまきました。夫と私は軍人たちにごく普通に挨拶していただけでしたが、国王夫妻を身近にして調子に乗ったのか、アルコールを飲みすぎたためか、床に寝転がったり、テーブルの上で踊ったりする人もいました。

ヴェルサイユ宮殿内のオペラ劇場の2階の王家の特別室。
格子があるので、階下からに見にくくなっているので、
ここでゆったりとオペラや劇を鑑賞していました。

夫の希望で階下に行き、フランドル連隊の人々に挨拶しました。


この日は宮殿の衛兵も多数出席していたし、数人の国民も混ざっていたようです。この騒ぎを見ていた人が誇張して自慢げに語り、それがパリに伝わり、翌日、革命家たちがパンフレットに書き立てたのです。


・・・民衆がパンも食べられない貧困にあえいでいるのに、ヴェルサイユ宮殿ではとんでもない祭典を催した・・・

・・・床にまで食べ物が散らばっていたし、王妃は軍人ひとりひとりに愛嬌を振りまき、パリ市の三色記章が、足で踏みにじられさえしていた・・・

・・・こんなことを許すわけにはいかない。今や立ち上がり、結束する時なのだ、目覚める時が来たのだ、体制を変えなければならないのだ・・・


国民たちの怒りは、火に油を注いだように一気に広がりました。恐ろしいことに、怒りの矛先が私に向けられていることもわかりました。不安の中に暮らしていましたが、フェルセンさまがパリに留まる決心をして下さったことは、とても心強いことでした。

2024年10月8日

シャネルとオバジーヌ修道院

12世紀に建築されたオバジーヌ修道院が注目を集めています。というのは。老朽化したその修道院の修復にメゾン・ シャネルが資金援助をするため。ココ・シャネルシは12歳から18歳までオバジーヌ修道院で過ごし、後にデザイナーになったとき、そこをインスパイア源とした多くの作品を生んだ原点とも言えるのが、この修道院。

稀にみる才能と生き方を世にしらしめた
ココ・シャネル。

2020年には、オバジーヌ修道院の庭園をオートクチュールのショー会場グラン・パレに再現し、シャネルが修道院生活から影響を受けたと思われるデザインを多く披露。彼女を一躍有名にしたリトルブラックドレスからもわかるように、シンプルなデザイン、黒や白が生み出す清潔感、不必要な装飾をはぶいた合理性など、規律が厳しく質素な修道院を思い起こさせます。

ボルドー県、ポワチエ県地域のシトー派修道院の中心的存在になっていたオバジーヌ修道院が、大きな飛躍を遂げ立派な建物になったのは17世紀。ところが1789年のフランス革命で、教会の財産はすべて国のものとなり、修道院は廃止される運命に陥る。王政が廃止され共和国になって数10年後の1840年、12世紀の建物の一部と教会が歴史的建造物に認定されます。

修道院内のピエタ像。
素朴な造りであるだけに、心の奥深くに染み入る。

修道院の中に女子孤児院が設置されたのは1860年で、聖心修道女たちが面倒をみていて、高い評判を呼んでいました。そこでココ・シャネルは感受性豊かな10代の大半を過ごし、精神的強さ、独立心、簡素な中に輝く美、裁縫を学んだことは、彼女のその後の人生にとって非常に重要だった。メゾンのロゴさえも、修道院のステンドグラスから生まれているのです。

シャネルが築いたメゾンが修道院修復工事に資金を提供することによって、今、再び、彼女の生き方、考え方が注目されています。

2024年10月5日

ルイ16世が最期まで気にかけていたのは・・・

 フランス海軍士官ラ・ぺルーズ伯爵が、ルイ16世から太平洋探検を命じられたのは1785年。4年後の1789年6月にはフランスへ戻る計画だったのが、探検の途中で消息を絶ってしまう。案じた国王は「ラ・ぺルーズの情報はないのか」とずっと心配していたのです。しかも処刑の寸前までだったという。国王は科学と地理学に大きな興味を持ち、知識も豊富だった。

1785年6月26日、ルイ16世は自分の図書室にラ・ぺルーズを呼び、
太平洋探検を命じ、長時間かけて計画を綿密に立てました。

ラ・ぺルーズ伯爵(1741-1788)

ラ・ぺルーズ伯爵率いるフリゲート艦、ブッソル号とアストロラブ号は、1785年8月1日ブルターニュ地方のブレスト港を出港。チリ、カリフォルニア、アラスカ、日本、カムチャッカ半島などをまわり、その後、太平洋の島々を探検し、さらにオーストラリアへと向かい、そこで突然消息を絶ってしまう。

フリゲート艦、ブッソル号とアストロラブ号。
アラスカを通過したときの絵とされています。

それ以前に、ラ・ぺルーズはカムチャッカ半島で部下のひとりバルテルミー・ドゥ・レセップスに、それまでの探検記録をヴェルサイユに届けるよう命じ、彼は約一年かけてロシアを横断し、1788年に無事にフランスに到着。レセップスは探検隊の唯一の生還者となったのです。消息を絶つ前に、ラ・ぺルーズがシドニー沖に停泊していたイギリス艦シリウス号に、手紙や記録を託していたのは幸いです。

ルイ16世が最期まで気にかけていたラ・ぺルーズの消息を知るために、捜査隊が太平洋に向かいますが、革命とその後の混乱で打ち切られてしまう。本格的捜査に乗り出したのはフランス系アイルランド人のピーター・ディロンで、1826年のこと。彼はソロモン諸島のヴァニコロ島近くで、フリゲート艦の残骸を見つけたのです。周囲の島から遺品も発見。それを持ち帰り、ただ一人の生還者レセップスに見せ、確かにラ・ぺルーズ率いる探検隊の物であることが判明。

ピーター・ディロンによる残骸発見の翌年に描かれた絵。
手前が沈没寸前のアストロラブ号。左後ろがブッソル号。

バルテルミ―・ドゥ・レセップス(1766-1834)
有能な外交官であり探検家。
ラ・ぺルーズの探検隊唯一の生存者。

現在残されている遺品はさほど多くないけれど、修復工事が終わったトロカデロの海洋博物館に展示してあり、関心を集めている。
ルイ16世とラ・ぺルーズが
大きな期待を寄せながら準備したであろう遺品を目の前にすると、
無念でならない。

リリーフをほどこしたブロンズの重厚な鐘。
ルイ16世が絶対的信頼を寄せていた
海軍士官ラ・ぺルーズ伯爵の立派な胸像。

2024年10月1日

マリー・アントワネット自叙伝 36

 国民たちの結束

ルイ=ジョゼフが亡くなったので、次男ルイ=シャルルが皇太子の地位に就きました。活発でおちゃめなルイ=シャルルが、将来、国を動かす重要な役割を果たさなければならい国王の座に就くのかと思うと、不憫でなりませんでした。国王の弟という自由な立場の方が、ずっと合っているような子だったのです。


4人の子供に恵まれたのに、今や2人のみになってしまいました。この2人は何があっても守っていかなければと心に誓い、子供たちの前では涙を見せないように心がけました。優しく、それでいて強い母でいなくては、と切実に感じでいたのです。そうした状況でしたが、王妃の役割も以前と変わらずこなしていました。三部会を開催してから、世の中が急速に変化していたように思えたので、それまであまり関心がなかった政治が気になるようにもなりました。


ルイ=ジョゼフを失って数日後、第3身分の平民たちの不満が爆発し、17日には聖職者であり政治家のシェイエスが、平民たちの部会を「国民議会」とするようにと提案し、19日には聖職者たちに国民議会に合流することを強く呼びかけ、日に日に国民議会議員が増えていったのです。それに危険を感じた夫は、20日に国民議会の議場を閉鎖する命令を出し、行き場がなくなった彼らは、急遽、テニスコートに集まり、憲法制定まで解散しないと結束を誓ったのでした。あまりの威勢に驚いたのは夫です。どのような対策を練ったらいいか判断を下せなかった国王ともあろう夫は、平民たちが勝手につくった国民議会を認め、貴族たちにも合流するようになどと、とんでもないことを言い始めたのです。これをそのままにしておくわけにはいかない。弱気になってきた夫に対し、末の弟のアルトワ伯と私、それに強硬派の側近たちも含めて、もっと強い態度を示さなければいけないと反発しました。

平民たちはテニスコート場に集まり結束しました。

軍隊を派遣して、国王の強さを見せつけて欲しいと提案しただけでなく、平民に味方する民主主義者の財務長官ネケールを辞めさせ、国民議会も解散させなければならないとも主張しました。軍隊の派遣は直ぐに実行されました。武器を持った多くの軍人たちの姿を見た時には、ほっとしました。これで国民議会の議員も怖気づいて、傲慢な態度をとらなくなると安堵しました。ヴェルサイユとパリに派遣された軍人たちは約3万人と聞いていました。私たちは安心しましたが、国民たちは挑戦的だと非難の言葉を投げ、逆に態度を強固にしたのです。結束も以前より強くなってしまったのでした。


夫に革命が起きたことを告げる
リアンクール公爵。

7月15日早朝、側近のリアンクール公爵が驚くべきことを告げました。

「バスティーユが襲撃され、司令官が殺されました!

いきなり起こされて、頭がまだよくさえず、公爵が語る事情がよくわからかった夫は、

「それは反乱なのか」

 と尋ねたそうです。

国王と王妃は別々の寝室で休むのが習慣なので、私はその場にいませんでした。夫によると公爵の答えは

「いいえ陛下、革命でございます」

それまでどの国でも革命など起きたことがなかったので、夫はかなり衝撃を受けたようです。私は革命という言葉の意味もわかっていませんでした。反乱とか暴動は知っていましたが。なぜこのような事態になったかというと、軍隊を配置したことと、国民に人気があった財務長官ネケールを罷免したことが、主な理由だったようです。私たちの圧力を受けた夫が、7月11日に国民よりだったネケール財務長官を罷免した情報は、翌7月12日に早くもパリに伝わっていたのです。

国民に人気があったスイス人のネケール財務長官

それに激しく反発したのは、パレ・ロワイヤルに集まっていた人々でした。パレ・ロワイヤルは夫のいとこで王位を狙っていたオルレアン公フィリップ・エガリテのお屋敷で、資金不足におちいり、庭園の周囲に建物を建築させ、商人たちに貸していたのです。カフェやレストランもあり、繁華街として賑わいを見せていたパレ・ロワイヤルは、娼婦たちが多く、怪しげな場所にもなっていました。そこはまた、新たな時代を築きたいと意気込む若者たちの集会の場でもあったのです。


国民に人気があるネケールが辞めさせられたことを知って、興奮しながらパレ・ロワイヤルに集まってきた人々は、ひとりの若い男性の叫び声を耳にします。弁護士でジャーナリストのカミーユ・デムーランです。彼は集まった群衆に向かって

「武器を取れ!

と決起をうながしたのです。

この言葉に動かされたパリ市民たちは、武器の調達に走り回りました。翌日になると、群衆の危険な動きを鎮めるために、国王の軍隊が大挙してパリを包囲した、などというとんでもない噂が広がったのです。それは人々に恐怖心と抑えきれないほどの怒りを与え、ますます結束させてしまったのです。

パレ・ロワイヤルの庭で「武器を取れ」と演説する
若い弁護士カミーユ・デムーラン。

14日には、群衆たちがパリ市長舎に押しかけて、自分たちを守るために武器を調達するよう市長に頼みます。けれども市長舎にはたいした武器がないことがわかり、アンヴァリッドから銃を奪うことにしたのです。でも、そこには十分な火薬も弾丸もなく、バスティーユにはたくさんあると知った群衆は、今度は大挙してバスティーユへと向かったのです。バスティーユの司令官と群衆の代表が、火薬と弾丸を渡すことに関して話し合いをしている間に、外にいた人々の間でいざこざが起き、急に激しさが増し、バスティーユの守備隊が次々と殺され、暴徒になった群衆が中になだれ込んだのです。要塞だったバスティーユは、当時、牢獄の役目を果たしていて、7人の囚人がいたそうです。悲惨なことに司令官は捕まり、パリ市長舎に連れて行かれる間に殺されてしまいました。

7月14日、アンヴァリッドに群衆たちが向い、
武器を略奪。

火薬と弾丸を求めてバスティーユ監獄に向かい、
守備隊とのもめ合いが始まりました。

当時の監獄内。

囚人たちは群衆によって監獄から解放されました。
7人しか捕らわれていなかったのです。

バスティーユはその後焼かれ姿を消します。

詳細を知って恐怖にかられた夫は、リアンクール公爵の助言に従い、翌日、国民議会に行く決心をします。この辺りから加速度的に事態が悪化しました。