2024年10月1日

マリー・アントワネット自叙伝 36

 国民たちの結束

ルイ=ジョゼフが亡くなったので、次男ルイ=シャルルが皇太子の地位に就きました。活発でおちゃめなルイ=シャルルが、将来、国を動かす重要な役割を果たさなければならい国王の座に就くのかと思うと、不憫でなりませんでした。国王の弟という自由な立場の方が、ずっと合っているような子だったのです。


4人の子供に恵まれたのに、今や2人のみになってしまいました。この2人は何があっても守っていかなければと心に誓い、子供たちの前では涙を見せないように心がけました。優しく、それでいて強い母でいなくては、と切実に感じでいたのです。そうした状況でしたが、王妃の役割も以前と変わらずこなしていました。三部会を開催してから、世の中が急速に変化していたように思えたので、それまであまり関心がなかった政治が気になるようにもなりました。


ルイ=ジョゼフを失って数日後、第3身分の平民たちの不満が爆発し、17日には聖職者であり政治家のシェイエスが、平民たちの部会を「国民議会」とするようにと提案し、19日には聖職者たちに国民議会に合流することを強く呼びかけ、日に日に国民議会議員が増えていったのです。それに危険を感じた夫は、20日に国民議会の議場を閉鎖する命令を出し、行き場がなくなった彼らは、急遽、テニスコートに集まり、憲法制定まで解散しないと結束を誓ったのでした。あまりの威勢に驚いたのは夫です。どのような対策を練ったらいいか判断を下せなかった国王ともあろう夫は、平民たちが勝手につくった国民議会を認め、貴族たちにも合流するようになどと、とんでもないことを言い始めたのです。これをそのままにしておくわけにはいかない。弱気になってきた夫に対し、末の弟のアルトワ伯と私、それに強硬派の側近たちも含めて、もっと強い態度を示さなければいけないと反発しました。

平民たちはテニスコート場に集まり結束しました。

軍隊を派遣して、国王の強さを見せつけて欲しいと提案しただけでなく、平民に味方する民主主義者の財務長官ネケールを辞めさせ、国民議会も解散させなければならないとも主張しました。軍隊の派遣は直ぐに実行されました。武器を持った多くの軍人たちの姿を見た時には、ほっとしました。これで国民議会の議員も怖気づいて、傲慢な態度をとらなくなると安堵しました。ヴェルサイユとパリに派遣された軍人たちは約3万人と聞いていました。私たちは安心しましたが、国民たちは挑戦的だと非難の言葉を投げ、逆に態度を強固にしたのです。結束も以前より強くなってしまったのでした。


夫に革命が起きたことを告げる
リアンクール公爵。

7月15日早朝、側近のリアンクール公爵が驚くべきことを告げました。

「バスティーユが襲撃され、司令官が殺されました!

いきなり起こされて、頭がまだよくさえず、公爵が語る事情がよくわからかった夫は、

「それは反乱なのか」

 と尋ねたそうです。

国王と王妃は別々の寝室で休むのが習慣なので、私はその場にいませんでした。夫によると公爵の答えは

「いいえ陛下、革命でございます」

それまでどの国でも革命など起きたことがなかったので、夫はかなり衝撃を受けたようです。私は革命という言葉の意味もわかっていませんでした。反乱とか暴動は知っていましたが。なぜこのような事態になったかというと、軍隊を配置したことと、国民に人気があった財務長官ネケールを罷免したことが、主な理由だったようです。私たちの圧力を受けた夫が、7月11日に国民よりだったネケール財務長官を罷免した情報は、翌7月12日に早くもパリに伝わっていたのです。

国民に人気があったスイス人のネケール財務長官

それに激しく反発したのは、パレ・ロワイヤルに集まっていた人々でした。パレ・ロワイヤルは夫のいとこで王位を狙っていたオルレアン公フィリップ・エガリテのお屋敷で、資金不足におちいり、庭園の周囲に建物を建築させ、商人たちに貸していたのです。カフェやレストランもあり、繁華街として賑わいを見せていたパレ・ロワイヤルは、娼婦たちが多く、怪しげな場所にもなっていました。そこはまた、新たな時代を築きたいと意気込む若者たちの集会の場でもあったのです。


国民に人気があるネケールが辞めさせられたことを知って、興奮しながらパレ・ロワイヤルに集まってきた人々は、ひとりの若い男性の叫び声を耳にします。弁護士でジャーナリストのカミーユ・デムーランです。彼は集まった群衆に向かって

「武器を取れ!

と決起をうながしたのです。

この言葉に動かされたパリ市民たちは、武器の調達に走り回りました。翌日になると、群衆の危険な動きを鎮めるために、国王の軍隊が大挙してパリを包囲した、などというとんでもない噂が広がったのです。それは人々に恐怖心と抑えきれないほどの怒りを与え、ますます結束させてしまったのです。

パレ・ロワイヤルの庭で「武器を取れ」と演説する
若い弁護士カミーユ・デムーラン。

14日には、群衆たちがパリ市長舎に押しかけて、自分たちを守るために武器を調達するよう市長に頼みます。けれども市長舎にはたいした武器がないことがわかり、アンヴァリッドから銃を奪うことにしたのです。でも、そこには十分な火薬も弾丸もなく、バスティーユにはたくさんあると知った群衆は、今度は大挙してバスティーユへと向かったのです。バスティーユの司令官と群衆の代表が、火薬と弾丸を渡すことに関して話し合いをしている間に、外にいた人々の間でいざこざが起き、急に激しさが増し、バスティーユの守備隊が次々と殺され、暴徒になった群衆が中になだれ込んだのです。要塞だったバスティーユは、当時、牢獄の役目を果たしていて、7人の囚人がいたそうです。悲惨なことに司令官は捕まり、パリ市長舎に連れて行かれる間に殺されてしまいました。

7月14日、アンヴァリッドに群衆たちが向い、
武器を略奪。

火薬と弾丸を求めてバスティーユ監獄に向かい、
守備隊とのもめ合いが始まりました。

当時の監獄内。

囚人たちは群衆によって監獄から解放されました。
7人しか捕らわれていなかったのです。

バスティーユはその後焼かれ姿を消します。

詳細を知って恐怖にかられた夫は、リアンクール公爵の助言に従い、翌日、国民議会に行く決心をします。この辺りから加速度的に事態が悪化しました。