パリ市民たちがヴェルサイユへ
10月5日早朝に、市場に集まった女性たちが、 その近くにあるパリ市庁舎前広場に向かいました。 |
パリ市庁舎とその手前のグレーヴ広場。 |
ヴェルサイユ宮殿への行進の指揮をとったのは、7月14日にバスティーユを襲撃したとき、司令官を捕らえ革命の英雄と称えられたマイヤールです。彼はまず女性たちと市長舎に入り、銃と大砲を略奪します。その後、国民のみじめな生活を見てもらいたいから、王をパリに連れて来るのだと口走りながら、宮殿に向かって行ったのです。この行進に出来るだけ多くの人を参加させようと、パリ市長舎近くの教会の鐘を派手にかき鳴らしたそうです。
女性たちの指揮をとったマイヤール |
市庁舎に入り込み、銃や大砲まで奪いました。 ラ・ファイエット将軍率いる兵が到着したときには、 パリ市民はすでに多くの武器を奪っていました。 |
その行進には女性だけでなく、男性も数百人いました。パリを出発した時には7000人ほどだったのが、途中から加わる人もいてヴェルサイユに到着したのは1万人を越えていたようです。許しがたいのは私たちのことを「パン屋とパン屋のおかみさん」などと言っていたこと。それを知ったときには怒りがこみあげてきました。一国の王と王妃をこのように呼ぶなんて、ハプスブルク家とブルボン家が同時に侮辱されたようでした。王家や王政に反対する過激な印刷物や動きに目を光らせていたフェルセンさまは、10月5日のパリ市民たちの結束を知って、心配のあまり、愛馬に乗って宮殿へと急いだのでした。
パリからヴェルサイユ宮殿に向かう 女性を中心としたパリ市民たち。 |
馬に乗る女性、太鼓をたたく女性が行進の先頭の立っていて、 女性の力がいかに大きいかを見せていました。 |
その日、いつもの通り 私はお気に入りのプティ・トリアノンの庭園にある 洞窟に腰かけていました。 |
事情が全く分からないので、不安を抱えたまま、小雨が降っている中を宮殿に早足で向かいました。すると、どうでしょう。宮殿の隅々まで緊張感が行き交い、大騒ぎの状態だったのです。早朝からムードンの森で狩猟を楽しんでいた夫も呼び戻され、側近たちと不安な表情で意見を交換していました。そうした中に、フェルセンさまの姿を見つけて嬉しかったのですが、あの方も厳しい表情をしていて、かなり重大なことが起きたのに違いないと心配が大きくなるばかり。
宮殿は大騒ぎ。 事情がよくわからないために、 不安と混乱が大きかったのです。 |
パリから数千人もが宮殿に向かい、国王に直接会って話をしたいと騒いでいる。武器さえも持っている。身の危険が迫っている国王一家をどうするべきかと、様々な意見が飛び交っていたのです。国務大臣サン・プリースト伯爵の提案は、群衆がヴェルサイユに向かうのを妨げるために、その途中にあるサン・クルーやセーヴル、ヌイイの橋を軍隊に占拠させ、国王は800人の衛兵と共に群衆に向かい、その間に、王妃をはじめとする王家の人々は、ランブイエ城に避難し、国王は後にその城に向かわれるのが最良でしょうと意見を延べまでた。パリ市民たちに首都に戻るよう国王が説得し、万が一それに従わない場合には、軍に発砲を命じるのだと伯爵は付け加えました。その場にいらしたフェルセンさまは、サン・プリースト伯爵の意見に賛成のようでした。
国務大臣、サン・プリースト伯爵。 |
14世紀に建築されたランブイエ城 古めかしいシャトーで私は気に入りませんでした。 夫は私のご機嫌をとるために、酪農場を建てさせました。 私がプティ・トリアノンの村里の酪農場が好きなのを知っていたからです。 |
夫はその案に納得したようですが、私は反対でした。この大きな危険の中で夫と離れたくない、というより、夫ひとりをそうした状況の中に残して、自分だけが安全な場に避難したくなかったのです。私がそのように発言すると、側近たちはかなり驚いたようです。まさかこの私が、夫のために自分の身を危険にさらすとは思ってもいなかったのでしょう。でも私は王妃です。国王である夫と運命を共にするのは、当然のことだという自覚があったのです。
そうしている間に、女性たちを中心とした行進が、宮殿前に到着し、近衛兵たちといざこざを起こしているとの知らせが届きました。パリからの長い道のりを休むことなく、しかも雨が降り出し、食べ物もほとんど口にすることもないまま歩き続け、ヴェルサイユ宮殿近くに到着した市民たちは、疲労と寒さ、空腹で怒りが頂点に達し、かなり殺気立っていたようです。
宮殿前に到着したパリ市民たち。 疲労、空腹、寒さ、雨で憔悴しきっていたそうです。 |
そのうちマイヤールを先頭に女性たちは国民議会に強引に入り、「パンをパンを」と金切り声を上げ、マイヤールと6人の女性が宮殿で夫に会うことが許されたのです。夫はその代表の人たちに、希望のものはすべて差し上げますなどと、やさしく声をかけ、それでおさまったのかとほっと安堵したのですが、外で待っていた群衆は納得しなかったのです。そんな言葉に騙されない、欲しいのは王妃の首だなどと、恐ろしいことを口にするようになったのです。これ以上、国王一家を、国民から遠いヴェルサイユ宮殿に暮させておくわけにはいかない。パリに連れて行って、自分たちの悲惨な生活を見せるのだと、いつの間にかパン要求が、国王一家をパリに暮らさせ、自分たちで監視することになっていたのです。
中には近衛兵に立ち向かう人もいました。 |
時間が経つに連れて苛立った女性たちが近衛兵ともみ合い、大騒ぎになりました。武器を持っているとはいえ、相手が女性なので、衛兵たちもどうしていいのか戸惑っていたようです。その間、国王一家の身の振り方に関して、まだ意見が飛び交っていました、
「ヴェルサイユ宮殿を離れパリに暮らすようになったら、市民たちのいいなりになるばかりで、王権さえも危険にさらされます、もはや、議論などしている場合ではございません」
と、サン・プリースト伯爵は一刻も早く馬車に乗ってランブイエへとせきたてました。夫も承知し、馬車を用意し出発しようとしたとき、馬車が群衆に囲まれ動けなくなっていると知らされました。それを知った夫は
「宮殿に残る」
と、力なく側近に伝えました。
その後、8月に決めた「人権宣言」にも、国民議会の希望で署名し正式に認めました。そのとき気が弱い夫は涙を流していました。勇気あるフェルセンさまは、力ずくで馬車を出すつもりでいらしたし、私は夫と一緒ならば、とランブイエに行く決心をしたというのに、結局、宮殿に留まることになってしまったのです。これが私たちの運命を決定したのです。フェルセンさまはこの日の出来事を悔んで、後年に日記に書いています。
・・・あの日のことをはっきり覚えている。ヴェルサイユ宮殿での我々のあらゆる苦悩を。あのとき、あの方たちが宮殿から去っていたのであれば、救われたというのに! ・・・
やっと国民衛兵司令官ラ・ファイエット将軍が約2万の国民衛兵と到着しました。彼は国民衛兵軍の最高司令官なので、国民側か王家側か最初はわからなかったのですが、宮殿の中に入るすぐに、国王一家を命にかけてお守りしますと誓い、パリ市民たちも納得させたと言うので、一応信じることにしました。ラ・ファイエット将軍は貴族出身なのです。その言葉を聞いて安心し、6日朝2時ころに寝室に向かいました。ラ・ファイエット将軍の指示で、その夜は国民衛兵ではなく近衛兵が宮殿を守ることになり、国民衛兵たちはいくつかの宿舎で休息に入りました。将軍は宮殿から少し離れたところにあった、貴族ノアイユの豪華な邸宅に向かい、そこでぐっすりお休みになったのです。
ラ・ファイエット将軍 バスティーユ襲撃の後、国の治安を守るための 国民衛兵軍司令官に任命されました。 |
今考えると、近衛兵だけでなく、パリから引き連れてきた国民衛兵も宮殿を守っていたなら、その後の悲劇を避けられたかもしれない。有能な指揮官であるならば、様々な事を予測して、万が一を考えてそれなりの準備をすべきだった。それなのにラ・ファイエット将軍は、自分が来たからには王家の人々は大丈夫、パリ市民たちも自分の言う事を聞き入れ宮殿に押しかけるはずがないと自信満々。安心しきって貴族の邸宅でやすらかに眠ってしまったのです。将軍のこの判断の間違いは悔やんでも悔やみきれません。
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