2024年10月11日

マリーアントワネット自叙伝 37

 不安な日々とフェルセンさま

 バスティーユが群衆によって襲撃された翌日の7月15日、夫は2人の弟を伴って国民議会に行き、軍隊の撤去とネケールを再び財務長官にすると約束しました。かなり激化した国民たちを納得させるために、仕方なかったのです。


ヴェルサイユ宮殿の中庭には、驚くほど多くの群衆が集まっていました。彼らが声を揃えて、国王一家が姿を見せることを要求したので、それに従うことにしました。夫、私、娘、息子、全員がバルコニーに姿を見せると「国王バンザイ!」の声があがったのですが、心から喜んでいる様子は全く感じられず、私の胸には、不安がいっぱいに広がっていました。これ以降、何が起きるかわからないので、末の弟アルトワ伯や、目に余る浪費で国民の怒りを買っていたポリニャック侯爵夫妻は、いち早く亡命しました。彼らの他に、夫のいとこのコンデ公一家や、その他の貴族たちも続々とフランスを離れて行きました。

国民の要望にこたえるために、
家族揃って2階のバルコニーに立ちました。

私が大嫌いな上の弟プロヴァンス伯は、そのままヴェルサイユに残っていました。万が一のことを考えて、夫がそのような指示を出したのです。忠実な身近な貴族たちが次々に亡命し、不安は増す一方でした。心の頼りにしていたヴェルモン神父さまさえ、フランスから逃げ出して行ったのです。


7月17日に夫はパリ市長舎に向かいました。それを知った私は、もしかしたら夫に二度と会えないのではないかと、大きな不安に駆られました。何しろバスティーユが襲撃された日に、当時のパリ市長フレッセルが殺され、その後新たに市長になったのがバイイで、テニスコート場の誓いで議長を務めた人。そのような市長から呼ばれて、王がのこのこ出かけることに同意したことに、苛立ちさえ感じました。

1789年7月17日、夫はパリ市庁舎に向かいました。


市長舎に着いた夫はバイイ市長に迎えられ、設定されたばかりの三色帽章を受け取り付けたのです。それが後にフランス三色旗になりますが、赤と青はパリ市の色で、その間に国王の色の白をはさみ、国民と国王は平等という意味があったのです。それを付けることは、平等になったことを認めたのと同じこと。それだけでなく、市長舎の広場に集まっていた群衆にこたえるために、夫は窓から顔を出し愛嬌を振りまいたそうです。ここまでくれば、もう国王の権威がないも同然。無事に宮殿に戻ってきた夫の姿を見て、安堵から涙を流した私でしたが、国王になる人と結婚したのに、と不満を口にしないではいられませんでした。気分を害した私を、夫はただ悲しそうに見るだけでした。同じ日にバスティーユの解体が始まりました。

パリ市庁バイイに迎えられるルイ16世。


このような時に、有能で勇気あるあの方が傍にいてくれたらと、何度思ったことでしょう。フェルセンさまはこの時、フランス北部のヴァランシエンヌに駐屯していらしたのです。でも、パリやヴェルサイユで起きている事態の危険を感じたあの方は、私たち、とうより、私の身を案じて一刻も早く首都に戻らなければと思っていたようです。お妹さまにそのようにお手紙を書いたのです。多くの貴族たちが危険を察して国外に逃亡していたというのに、フェルセンさまはヴェルサイユに戻る決意を固めていたのです。本当に気高い騎士道精神の持ち主です。


多くの貴族たちが先を争って亡命していったために、彼らのために働いていた人々が失業し、国民たちの暮らしはさらに厳しくなったようです。パリには不穏な空気が漂い、そうした市民たちの心をつかんでいたのが、革命家たちが発行していた王政非難のパンプレットや印刷物でした。8月26日には自由や平等など、17条の革命の基本的原則を掲げた「人権宣言」が国民議会で取り入れられました。国民たちは公に自分たちの人間としての、また市民としての権利を主張したのです。それまで何世紀もの間、当然のように続いていた国王支配から脱出すべきだと結束したのです。

人間と市民の権利の宣言「人権宣言」。
8月26日に国民議会で設定されました。

このような世の動きや乱れを危険だと感じた夫は、フランドル連隊に援助を頼みました。オランダ南部、ベルギー、フランス北部に広がるフランドル地方に駐屯していた連隊です。王宮と王家の人々を守ってもらうのが目的でした。9月23日にフランドル地方のドゥエから、大量の武器と共にヴェルサイユに到着した連隊を歓迎するために、10月1日に宮殿内のオペラ劇場で祝宴を催すことにしました。劇場の舞台の上に馬蹄形にテーブルが並べられ、ワインやお料理が山のように置かれ、誰もが美味に酔っていました。


宮殿のオペラ劇場の舞台上に豪華な食事を振る舞いました。
思いがけない接待に連隊の人々は大喜びし、まるでお祭り騒ぎ。

私はその場に行くつもりはなかったのです。なぜなら、それは軍人たちのためのお祝いだったからです。でも、狩猟から戻ってきた夫が、ちょっと様子を見ようなどどいうものですから、子供たちも連れてオペラ劇場に向かいました。最初は2階にある王家専用の囲いがある部屋にいたのですが、私たちが家族そろってそこにいるのを見た軍人たちが、バンザイとか乾杯などと叫んだり、拍手をしたりトランペットを吹いたりして大歓迎するので、そこから出て1階に行くことにしました。私たちを守るために来てくださったのだから、ご挨拶するのは当然だと思ったので、皆さんに笑顔を振りまきました。夫と私は軍人たちにごく普通に挨拶していただけでしたが、国王夫妻を身近にして調子に乗ったのか、アルコールを飲みすぎたためか、床に寝転がったり、テーブルの上で踊ったりする人もいました。

ヴェルサイユ宮殿内のオペラ劇場の2階の王家の特別室。
格子があるので、階下からに見にくくなっているので、
ここでゆったりとオペラや劇を鑑賞していました。

夫の希望で階下に行き、フランドル連隊の人々に挨拶しました。


この日は宮殿の衛兵も多数出席していたし、数人の国民も混ざっていたようです。この騒ぎを見ていた人が誇張して自慢げに語り、それがパリに伝わり、翌日、革命家たちがパンフレットに書き立てたのです。


・・・民衆がパンも食べられない貧困にあえいでいるのに、ヴェルサイユ宮殿ではとんでもない祭典を催した・・・

・・・床にまで食べ物が散らばっていたし、王妃は軍人ひとりひとりに愛嬌を振りまき、パリ市の三色記章が、足で踏みにじられさえしていた・・・

・・・こんなことを許すわけにはいかない。今や立ち上がり、結束する時なのだ、目覚める時が来たのだ、体制を変えなければならないのだ・・・


国民たちの怒りは、火に油を注いだように一気に広がりました。恐ろしいことに、怒りの矛先が私に向けられていることもわかりました。不安の中に暮らしていましたが、フェルセンさまがパリに留まる決心をして下さったことは、とても心強いことでした。