2024年11月4日

マリー・アントワネット自叙伝 39

 アデュー ヴェルサイユ

10月6日朝方6時ころ、群衆が宮殿正面玄関にあたる「名誉の門」を突破して、「名誉の中庭」に入り込み「大理石の中庭」にまで迫ってきたのです。そのすぐ上は王の寝室です。

「大理石の中庭」ここに入れるのは高位の人だけ。
2階の中央が王の寝室。ルイ14世の時代から同じ場所です。

その後数人が武器を手にしたまま「大理石の中庭」の左手にある「王妃の階段を駆け上り、「控えの間の外で私の護衛に当たっていた2人の衛兵をきりつけました。その内のひとりの衛兵が断末魔の声をあげ、それを耳にした私の侍女のひとりアンギエ夫人がドアを細く開けると、

「王妃を救え、暴徒たちが殺すために宮殿に入って来た!

と苦しそうに告げて、息絶えたのです。

アンギエ夫人は二つの間を通り抜け、その先にある私の寝室に走って入って来て、手短に言いました。声は震え、顔は恐怖で蒼白でした。

「暴徒たちが宮殿に入ったのです、一刻も早く逃げなければなりません!

侍女のうわずった声にせかされて、簡単に身支度を整え、ベッドの左側にある秘密のドアを開け、狭い通路を急ぎ足で夫の寝室へと向かいました。

大理石の「王妃の階段」
ここを武器を手にした暴徒たちが上って来たのです。
一刻も早く逃げなければと告げた、
侍女のひとりアンギエ夫人。

「王妃の寝室」
ベッドの左側の壁の一部はドアになっていて、
ここから王の寝室に行けるのです。
宮殿にはいざという時のための隠し扉がいくつもあるのです。

やっと夫の寝室につき、ドアを必死に叩きましたが、聞こえなかったのか、重いドアは一向に開きません。1度、2度、3度、冷たくはだかるドアを叩きながら、私は恐怖の固まりになり、流れる涙をふく余裕すらありませんでした。数分後にやっとドアが開けられた時には、疲れがどっと出て、声も出せないほどでした。まだ目覚めていない眠そうな顔の息子と娘も、侍女や侍従に守られながら夫の部屋に入り、家族全員の無事な姿を見た時には、安心から力が抜けて立っていられませんでした。


国王一家を命をかけてお守りしますと豪語したラファイエット将軍が、そのころまだベッドの中でまどろんでいたのは信じがたいことです。やっと彼が国民衛兵と到着し、宮殿内にいた暴徒たちを全員追い出し、少し安堵しました。


パンも小麦粉も必要なだけあげますと、夫は群衆に約束し「人権宣言」にも署名し、自由と平等を正式に認め、これで満足してパリに戻って行くかと思ったら、群衆は、何が何でも国王一家をパリに連れて行き、自分たちの近くに住ませるのだと言い張るばかりでした。宮殿から追い払われたパリ市民たちは、国王の寝室の下にある大理石の中庭に集まり、「王をバルコニーへ!と、大合唱をはじめました。それに応えて夫が姿を見せると、「国王バンザイ!」の声が、あちらこちらから上がりました。


群集の「王をバルコニーへ」の大合唱におうじて、
夫は寝室の外のバルコニーに出て手を振り、
万歳の嵐に包まれました。

これでパリ市民たちが満足したと安心したのです。ところが、その後、下から響いてきた声は夫を、私を、側近たちをも緊張させる言葉だったのです。

「王妃をバルコニーに!

「王妃をバルコニーに!

数年前から「オーストリア女」とか「赤字夫人」などと呼ばれ、国民から嫌われていることを知っていたので、銃や槍を手にする気が立った群衆の前に出たら、と誰もが心配したのです。でも、王妃の自覚があった私は意を決して、娘と息子の手を取りバルコニーに出ようとしました。その時です、

「子供はダメだ!

と叫び声が響いたのです。つまり私だけを要求したのです。さすがの私も一瞬、体が硬直しました。それを見てラ・ファイエット将軍が私をうながし、一緒にバルコニーに出てくださったのです。毅然とした態度を崩さない王妃に向かって、群衆は国王のときのようにバンザイの声を上げることもなく、恐ろしいほどの沈黙が両者の間に流れていました。それを危険だと悟ったラ・ファイエット将軍が、私の手を取り、うやうやしくキスしたのです。国民衛兵軍最高司令官が王妃に敬意を示したのです。その途端「王妃バンザイ!」の声があがり ほっとしました。表面的には王妃の威厳を保っているように見えたかもしれませんが、実際には恐怖で足が震えていたのです。


私が意を決して恐怖で震える心を抱えながらバルコニーに出ると、
誰もが言葉を失ったかのように、あたりが沈黙に包まれました。
そこに大きな危険が感じられ、恐ろしさで卒倒しそうでした。
その時ラ・ファイエット将軍がバルコニーに進み出て、
私に敬意を示し、群集の沈黙を破って下さったのでした。

 群衆は繰り返し「パリへ!「パリへ!」と叫んでいました。それほどパリに行くことを望むのであれば、と夫はパリに行くことを承知しました。私たちが馬車にのせられて、ヴェルサイユを離れたのは午後1時25f分でした。馬車はそのままパリへと向かったのですが、ノロノロと走るので7時間はかかりました。その道中、好奇心にかられた国民が、私たちを見物するために騒ぎながらよってきて、遠慮なくジロジロ見るので屈辱に耐えるのがやっとでした。そうした時でも、できる限り王妃の気品と威厳を保つ努力をしていました。それが私の無言の、それでいて力強い抵抗だったのです。馬車を取り囲む女性たちは、まるでお祭のように騒いでいたし、中には、はしゃいで大砲の上に乗る人もいてびっくりしました。それを馬車の中から冷たく見ていた私でした。

宮殿の正面玄関で馬車にのりましたが、
まさか、これが多くの思い出がある宮殿との
永遠のお別れになるとは思ってもいませんした。

パリまでの行進の先頭に立ったのは国民衛兵で、小麦やパンなどを山のように積んだ多くの荷車を囲むパリ市民たちがそれに続いていました。その後ろを近衛兵が王家の人々の馬車を守るように行進。馬車には夫、私、2人の子供、養育係り、夫の弟のプロヴァンス伯爵、夫の妹のエリザベート王女さまがのっていました。誰もひとことも発することもなく、ただ馬車の揺れに身を任せていたのです。時々、夫がハンカチで涙を拭いて、心が痛みました。側近や親しい貴族たちの馬車が私たちのすぐ後方にいたのは、心強いことでした。後で知ったことですがフェルセンさまもそうした馬車に乗っていたのです。


馬車の周りには多くのパリ市民が群がり、
気分が悪くなるほどでした。

馬車がパリに着いたのは、暗くなり始めたころで、パリ市長バイイが、まずトロカデロの丘の城門で出迎え、その後揃ってパリ市長舎に向かいました。

「パリに国王ご一家をお迎えすることはこの上もない光栄なことでございます」

などと、バイイが歯が浮くような心にもないことを言っていましたが、本当はパリに私たちを連れてきたことを自慢したかったのだと思います。

あたりが暗くなりはじめたころにパリに着きました。
どこも大騒ぎする群集でいっぱい。

チュイルリー宮殿に着き、馬車をおりたときには
すっかり暗くなっていました。


それが終わってチュイルリー宮殿に入ったのは夜10時。そこが私たちの新しい住まいなのです。その時点では、この宮殿は仮住まいで、いつかヴェルサイユ宮殿に戻れると誰もが信じていました。