2024年11月13日

マリー・アントワネット自叙伝 40

チュイルリー宮殿が新しい住まい

ルイ14世の時代には、宮廷が置かれていたチュイルリー宮殿でしたが、国王がヴェエルサイユ宮殿を居城とした1683年から、チュイルリー宮殿はほとんど放置され、ルイ15世が幼いときに短期間ですが暮らしたそうです。その後は、アーティストや生活に困っている人たちが好き勝手に住んでいたのでした。そのために、私たちが暮らすようになったとき、荒れ果てた状態で、デリケートな息子は思わず悲鳴をあげたほどでした。きっとお化け屋敷に思えたのでしょう。

巨大なチュイルリー宮殿。私たちが暮らしていたのはこの一部。
庭園は誰もが自由に入れました。

タペストリーもカーテンも破れ、窓ガラスも割れていて、冷たい風が吹きこんでいました。ドアもきちんと閉まらないので、養育係のトゥルーゼル夫人は、家具を積み上げてドアが開かないようにし、それでも心配なので、夜通し寝ないで息子を見守っていたのでした。

パリに暮らすようになったとはいえ、国王一家の身分に変わりはありません。ですからそれにふさわしい内装が必要。翌日からヴェルサイユ宮殿からたくさんの家具が運ばれてきました。馴染み深い家具を身近にしたときには、親しい友人に再会したようにうれしかったものです。

チュイルリー宮殿で使用していた家具。
ヴェルサイユ宮殿から運んできた家具もありました。

親しい人といえば、フェルセンさまは私たちがチュイルリー宮殿に入る前にそこに行き、お迎えしようと考えていたのです。ところがサン・プリースト国務大臣が忠告したのです。
「貴殿と王妃が特別に親しいことは、皆、知っている。今は非常に微妙な時期であるから、国王ご夫妻にご迷惑がかかることも考えられるので、慎重にするように」
国務大臣の意見をもっともだと判断して、あの方は私たちが到着した日には宮殿に姿を見せませんでした。でも、フェルセンさまは宮殿からさほど遠くない館に住んでいたので、少し希望が湧いてきました。

 ヴェルサイユ宮殿から家具が運ばれてきて、一応、精神的に落ち着いたのですが、私たちの生活は規制され、それが日に日に厳しくなっていきました。夫の最大の趣味の狩猟は禁止されたし、舞踏会やコンサート、観劇もありません。あれほど愛していた離宮プティ・トリアノンも、庭園も、村里も、王妃の劇場も何もかも、すべて過去の中に追いやられてしまいました。チュイルリー宮殿の庭園のお散歩をするのにも、国民軍衛兵が見張っていました。庭園は一般に公開されていたので、パリ市民の憩いの場として誰でも入れたのです。チュイルリー宮殿は広大でしたが、私たちが使用できる部屋数は限られていました。不便だったし不満だったけれど、私たちの権限はすっかりなくなり、改善を頼むことは不可能でした。

国民軍衛兵に見守られながらお散歩。

近衛兵の代わりに国民衛兵軍兵士が宮殿の外も中も見張っていて、息苦しさを覚えるほどでした。ときどきお散歩を許されたのは、せめてもの慰みでした。そうした日々の最大の慰みは息子と娘でした。この子たちがいなかったら、屈辱の生活に耐えられなかったでしょう。義理の妹エリザベート王女さまも、女官長のランバル夫人も、同じ宮殿に暮していたので、頻繁にお会いしていました。夫の弟プロヴァンス伯夫妻は、カルチェ・ラタンにあるリュクサンブール宮殿に住み、ときどきお食事のためにチュイルリー宮殿にいらしていました。

パリ郊外のベルヴュ城に暮らしていたおば様たちは、そのままそこで監禁状態で生活していましたが、何回かお食事のためにチュイルリー宮殿に足を運びました。革命が起きる前に、ソフィー王女さまは47歳でお亡くなりになっていたので、私が特に嫌っていたアデライード王女さまとヴィクトワール王女さまのお2人だけです。性格が悪い人ほど長生きするのですね。気丈な人は精神力が強くそれが長生きさせるのでしょう。

おば様たちが暮らしていたベルヴュ城。

おば様たちが暮していた時代のベルヴュ城庭園には、村里がありました。プティ・トリアノンのお庭のはずれの、私のお気に入りの村里に似ていたそうです。やはり私に抑えきれないほど嫉妬していて、それに対抗するように造らせたのでしょう。ベルヴュ城は、ルイ15世が愛妾ポンパドゥール夫人のために建築させたシャトーで、国王亡き後私の夫のものになり、後に、おば様たちにプレゼントしたのです。何しろヴェルサイユ宮殿のファーストレディはこの私ですから、居心地が悪く、別のシャトーに暮らしたがっていたのです。それに窮屈な儀礼を逃れたかったのでしょう。私だって本当はそうしたかった。意地悪なおば様たちは、私嫌いの人をベルヴュ城に集めて悪口を楽しんでいたのです。そういう噂は私の耳にも入っていました。それだからといって、生まれつき性格がいい私は意地悪などしませんでした。ほんとうです。デュ・バリー夫人の件だって、おば様たちの策略に私がはまっただけです。

ある日大きな不幸が突然訪れました、お兄さま、ヨーゼフ2世が亡くなったのです。お兄さまが、あの、大好きで頼りがいがあったお兄さまが旅立ってしまいました。ほんとうに何てことでしょう。窮地に追いこまれ、援助を必要とている時期だというのに。1790年2月20日の事でした。

お父さまが逝去された後、ヨーゼフ2世として、お母さまと共同で帝国を治めていたお兄さまは先進的な人でした。啓蒙主義者で、国民のために精力的に改革をし、文芸人でもあったお兄さまは、モーツアルトを庇護したり、ドイツ語の普及にも貢献しました。あまりにも多くの改革をしたので反感をかうこともありましたが、帝国の近代化はお兄さまの勇気ある決断あってのもの。行動的なそうしたお兄さまを頼りにしていたのに、1790年2月20日に病で亡くなったのです。48歳の若さでした。

頼りがいがいがあるヨゼフ2世お兄さまでした。

立派な葬儀が執り行われたそうです。

このころから、私の悲劇は加速度的に深まったように思えます。ヨーゼフ2世お兄さまには跡継ぎがいなかったので、私のすぐ上のお兄さまがレオポルト2世と名乗って即位したのですが、わずか2年後に亡くなってしまい、その後皇帝になったのは、その息子のフランツ。彼が2歳のときに私がフランスにお嫁入りしたので、ほとんど記憶にない人。頼りになるわけがありません。その間にフランスの状況は悪化する一方でした。幸いなことにフェルセンさまがいらして慰めてくださいました。その当時の様子を彼はお妹さまにお手紙で知らせていました。

・・・何てお気の毒な人よ。

   行動にしても、勇気にしても、繊細な心にしても天使のような方です。
   このような人を、どうして愛さずにいられることか。
   あの人は大変不幸ですが、勇気を保っています。
   私は可能な限り慰めるようにしています。
   そうしなければいられないのです。
   あの人は私にとってパーフェクトな女性なのだから・・・

フェルセンさまが暮らしていた
マティニョン通り17番地の貴族館。
王家に忠実な由緒ある
ブルトゥイユ伯爵の館のひとつ。

パリの中心にあるこの館から、
フェルセンさまは
チュイルリー宮殿に来てくださいました。

1789年からマティニョン通りの貴族の館に暮らしていたフェルセンさまは、私に会うために何度もいらしてくださいました。彼がお出でになると私の顔が明るくなるので、夫も喜んで迎えていました。私のために何でもする覚悟があるフェルセンさまと、2人の子供たちがいなかったら、最悪な日々を耐えることはできなかったでしょう。実際に、みじめな我が身を思って、ほとんど毎日泣いていました。実家はあてにならないし、夫の家族も、義理の妹以外は敵のような存在で、信用できない人ばかり。側近もいつ裏切るかわからない。その上、八方ふさがりの中で、夫が適切な判断を下すこともできないでいるので、イライラするばかり。こうした環境の中で暮らしていた私は、必然的に強くならざるを得なかったのです。