2025年3月26日

オランダ王家とフランスのコリニー提督の関係

リヴォリ通りのルーヴル美術館北側近くに、コリニー提督に捧げる立派なモニュメントがあるのは知っていたが、そのすぐ後ろにプロテスタント教会があるのは、意外だった。

ある日、たまには裏通りを歩いてみようと、そのモニュメントの横の狭い道路に入ると、薄汚れた壁が見えた。壁の厚さと、頑固にこびりついた汚れから見ると、4~5世紀前の建物かも。だけど、一体の建物? 教会みたいだけれど、こんなところに教会? 

ルーヴル礼拝堂のプロテスタント教会。
17,18世紀の歴史的建造物。

それで、その先に向かい、建物の正面をみると、確かに教会。屋根の上に十字架がたっているから、間違いない。しかし・・・なんて目立たない祈りの場。不思議に思いながら、近寄って簡単な説明を見て、プロテスタントの教会であることが判明。そのとき、あっと思った。コリニー提督のモニュメントとこの教会のつながりが、わかったからだ。

ルーヴル美術館の北に面したリヴォリ通りにある,
コリニー提督のモニュメント。

フランスでは1562年~98年に、カトリックとプロテスタントの間の激しい宗教戦争があった。プロテスタントはユグノーと呼ばれ、その指導者がコリニー提督だった。戦いはフランス全土で繰り広げられ、1572年8月24日、「サン・バルテルミの虐殺」の際にコリニー提督は刺殺される。

名門貴族のコリニー提督
1519-1572

暗殺者に毅然と立ち向かうコリニー提督。
当時、宮廷はルーヴル宮に置かれていて、
22歳の国王シャルル9世は、
母后カトリーヌ・ドゥ・メディシスの影響を受けていた。
提督はベティジー通りの貴族館に滞在していて、そこで刺殺された。
現在のリヴォリ通りの北寄りの小さな通りで、ルーヴル宮近くなので、
館から徒歩で宮廷に赴いていた。

館の中で刺殺された提督の遺体は、
窓から外に放り投げられた。

コリニー提督の長女ルイーズ・ドゥ・コリニーは、父が亡くなった約10年ほど後に、オランダのオラニエ公ウィレム1世と結婚。コリニー家はフランス各地に膨大な領地を持ち、いくつもの爵位に輝く歴史ある貴族なので、オランダでもこの結婚は祝福された。


ルィーズ・ドゥ・コリニー
1555-1620
父と同じようにプロテスタント。

オラニエ公ウィレム1世
1533-1584

二人の間にフレデリック・ヘンドリック王子が生まれ、軍事にも外交にもたけ、オランダ総督として国に大々的貢献をする。彼の息子がウィレム2世となり、さらに孫がウィレム3世を名乗る。その後を継いだのは王女ウィルヘルミナで、18歳でオランダ女王になる。


1898年、
18歳でオランダ女王になったウィルヘルミナ。

彼女が女王だった1912年6月2日、パリを訪問した際に、先祖のコリニー提督に敬意を表すために、ルーヴル礼拝堂のプロテスタント教会を訪れた。その後教会の裏手にあるコリニー提督のモニュメントで、牧師たちの祈りに迎えられ献花した。そのウィルヘルミナ女王の曾孫が現在のオランダ国王ウィレム=アレクサンダー。このように、コリニー提督の血はオランダ王家の人々に引き継がれているのだ。こうした事実を知ると、オランダ王室への関心が一挙に深まる。

オランダ女王ウィルヘルミナ
1880-1962

2025年3月19日

マリー・アントワネット自叙伝  48

耐え難い日々

 フェルセンさまがブイエ侯爵と綿密に逃亡計画を立てたことは、すでに国民に知れ渡っていました。だからこそ、あの方の安否が心配だったのです。それに、私たちがヴァレンヌで捕らえられ、パリに引き戻されたことをフェルセンさまが知っていらっしゃると確信していたので、無事であることを伝えたかったのです。


   ご安心ください。私たちは生きています・・・

手短に無事でいることだけを伝えましたが、6月29日に、また書かないではいられませんでした。

愛する人よ、私は生きております。あなたのことが心配で仕方ありませんでした。
私 たちに関する情報がまったくなく、そのためにあなたが苦しんでいらしゃることにとても心を痛めております。
どうかこのお手紙があなたに届きますように。
私にはお手紙をお書きになりませんように。私たちを危険にさらすことになるでしょうから。     
どんな口実であっても、ここには絶対にお出でにならないでください。
人々は、私たちの逃亡をあなたが計画したことを知っています

本当はどれほどあの方に会いたかったことか。数分でいいから、ご無事な姿を見かたったことか。そしてできれば、あの方の胸にしっかりと抱きしめてほしかった。それがかなわないことは十分わかっていましたが、心はそう叫んでいたのです。

 

私たちは一日中監視されています。あなたがここにいらっしゃらないのですから、そんなことはどうでもいいのです。
でもご安心ください、何事も起きないでしょうから。
アデュー、もっとも愛する人よ。
あなたにもうお便りを差し上げられないかもしれませんが、誰も私の最期の日まであなたを愛するのを妨げることはできないのです


フェルセンさまにお手紙を書くのは、
大きな喜びでした。
離れていても、あの方の存在を身近に感じていました。
本はあまり読みませんでしたが、
時には、気晴らしに手にとることもありました。

ヴァレンヌから戻り、再びチュイルリー宮殿で暮らす私たちの日々は、ますます厳しくなっていました。当初は、私の寝室の中に監視人を置くことさえ提案されましたが、さがにそれはあまりにもプライバシーを損ねると、反対されほっとしました。宮殿に入る人のチェックも厳しく、許可書を見せることが義務づけられるようになりました。


それまで妹一家の身に起きたことに、さほど危険を感じていないようだった私の兄、神聖ローマ皇帝レオポルト2世が、やっと動きを見せ、プロセイン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム2世との共同宣言を発布したのは、1791年8月でした。ザクセン王国のピルニッツ城が舞台だったので「ピルニッツ宣言と呼ばれ、フランス国王の地位の安定を求めることを要求し、それが、ヨーロッパ諸国の君主にとっても重要なことであると説き、万が一の場合には、軍事介入する準備もあるという内容でした。

「ピルニッツ宣言」が発表され、
夫の国王としてに地位が安泰となったのです。

ザクセン王国のピルニッツ城。


この宣言は亡命貴族や反革命派を喜ばせましたが、後に革命家たちの激しい反感をかうようになるのです。「ピルニッツ宣言のおかげかどうかはっきりわかりませんが、9月3日には憲法が設定され、9月14日に新憲法の宣誓を国王が正式に行いました。立憲君主政になり、夫は国王の地位を保てるのです。でも、今までのように絶対的な権利はなく、憲法の支配下に置かれることになったのです。


これによって革命が一段落したように思われました。その実現に大活躍したのは、ヴァレンヌからパリに戻る際に、私たちの馬車に乗り国王一家の身に同情した、あの若い議員バルナヴです。あのとき彼の好意を感じたので、いざというときには役に立ってくれると確信し、チュイルリー宮殿に戻ってから意見を求めたり、秘密の手紙を外国に送る仲介を頼んだりしていました。彼は誰よりも私に忠実でした。


ヴァレンヌ事件前までは、国の改革を求める多くの議員と同じように、共和派のジャコバン派に所属していたバルナヴでしたが、ヴァレンヌ逃亡以後、共和政を主張する過激なジャコバン派と対立するようになって、ラ・ファイエット将軍やパリ市長バイイなどとフイヤン派をつくり、立憲君主政を守ってくださったのです。国民議会で、反対派議員たちに立憲君主政の重要性を力強く説いたのも、チュイルリー宮殿にずっと暮らすことを国民に知らせるために、家具の注文をすすめたり、王妃が健在であることを示すために、オペラ座に行くことをすすめたのもバルナヴでした。若いのにいろいろといい考えを持っているのですが、全面的信頼は寄せていませんでした。こうした激動の時代には、いつ心変わりをするかわからないからです。そういう私も同じです。自分でも何をしたいのか、考えがまとまらないことが多かったのです。


お手紙を差し上げられません、などとフェルセンさまに書いた私でしたが、結局、心を落ち着かせるために、筆を取らないではいられなく、何通も書き、特別なルートで送っていました。誰もがだまし、だまされていた時代に、心から信頼できるのはあの方だけでした。ただ、あの方がそのすべてを手にしたかはわかりません。フェルセンさまも私宛にお手紙を書いて下さったかもしれませんが、一向に届かず、心配が日に日に大きくなるばかりでした。

こうした日々に耐えられず、ある日、心から信頼できる、ハンガリー人のエステルハージ伯爵に重要なお願いをしました。

ヴァランタン・エステハージ伯爵。
フランス王家に忠実で、
心から信頼していたハンガリー貴族。

エステルハージ伯爵は、以前からフェルセンさまと私のことを知っていらした方なので、伯爵には誰にも知られたくない事も頼めたのです。エステルハージ家はハンガリーでもっとも重要な貴族で、ハンガリーとオーストリアにいくつもの豪奢なシャトーを持っていて、ハプスブルク家にとても忠実でした。大家族なのでいくつかの分家がありますが、私たちと親しかったのはヴァランタン・エステルハージ伯爵です。私より15歳年上で有能な軍人でもありました。実は、結婚前に、夫になるルイ・オーギュスト皇太子の肖像画を、オーストリアの私に届けてくださったのも、エステルハージ伯爵だったのです。ですからその時から数えると20年ほどのお付き合いです。1784年に伯爵がご結婚なさったときには、夫と揃って結婚式に出席しました。幸せな時代のとても懐かしい思い出です。


そうした伯爵に頼んだ秘め事は、フェルセンさまにリングを渡して欲しいことでした。そのリングは、革命時に数人の王党派の人が持っていたもので、表面にフランス王家の紋章の3つのユリの花が、そして裏面には「彼らを見捨てるのは臆病者」という言葉が刻んでありました。暗黙のうちに、王党派の連帯を意味するようなリングだったのです。あの方の指のサイズを知っていた私は、それを受け取ってから、自分の指にはめ、温もりを逃がさないように紙にくるみ、手紙と一緒にエステルハージ伯爵に託しました。


エステルハージ伯爵にはそれ以前にも、フェルセンさま宛てのお便りを託したことがあります。

 

   どれほど距離があろうとも、どれほど国々が隔てていようとも、

   心を離ればなれにすることは絶対にできません。

   私はそれを日に日に強く感じております・・・

 

あの方に、偽りのない私の気持ちを伝えたかったのです。エステルハージ伯爵にあの方へのリングを託すとき、お手紙を添えました。

 

紙に包んであるのがあの方へのリングです。
私のために持っているようにとお伝えください。
あの方にぴったり合うサイズで、包装する前に、2日間自分の指にはめていました。
あの方に私からだと、必ずお伝えくださいませ。
あの方がどこにいらっしゃるのか私にはわかりません。
愛する人から何の連絡も受けられず、

どこに暮らしているかを知ることができないのは、恐ろしいほどの苦悩です


「あの方」は、大文字にしました。万が一を考えてお名前を書くわけにはいかないので、知恵を絞ってそうしたのです。フェルセンさまからのお便りが私の元に無事に届くようになったのは、9月末ころで、それ以降、あの方の様子が手に取るようにわかるようになりました。私たちが置かれている状況を伝えたり、考えを綴ったり、意見を求めたりしていました。お手紙はあぶり出しインクや、レモン汁を使って書いていました。火であぶったときに、初めて文字が見えてくるので、当時、秘密の通達に使っていたのです。帽子の折り返しの中に入れたり、クッキーの箱の中に入れたり、本の間にはさんだり様々な方法でお手紙を送っていました。1791年に私からフェルセンさまに送った手紙は11通で、フェルセンさまから受け取ったのは10通でした。あの方からのお手紙から、亡命貴族にお会いになったり、私のお兄さまに援助を求めるためにウィーンに行ったり、スウェーデン国王とコンタクトを取ったりして、積極的に動いていらしたことがわかりました。


フェルセンさまが愛用していたパリ最古の薬局。
1715年にすでに存在していて、
1762年に科学アカデミー会員のカデ・ドゥ・ガシクールの時代に、
大評判になりフェルセンさまも利用していたのです。

夫が新憲法の宣誓を行ったために、外国元首たちは、フランス国王は国民の決定に従う弱腰、と見るようになったのは予期せぬ出来事でした。でもヴァレンヌ逃亡の失敗で、私たちの立場が弱くなったので、仕方なかったのです。信頼を取り戻すために、私がそれぞれの君主宛てにお手紙を書くことを、フェルセンさまが提案され、ロシアのエカテリーナ2世女帝やスペイン国王、イギリス国王に援助を依頼しましたが、どなたも自国のことでいっぱいで、フランスの国王一家の運命など、どうでもよかったようでした。それに反して、亡命貴族たちはますます結束し、いつでもフランスに攻め入る準備があるような脅しをし、革命家たちを刺激していました。それに大きな危険を感じた私は、兄レオポルト2世に、自重する命令を出すようにと頼んだほとでした。

2025年3月13日

リヴォリ通り、こんなにスッキリ

コロナで多くのパリ市民が自転車を利用し、大気汚染や騒音が少なくなり、クリーンな街になったことに満足したパリ市長アンヌ・イダルゴは、ぜひこれを続けたいと、2022年に大々的に車追い出しにかかり、過酷とも言える案を提出。

その実現が急速的に行われ、東西4kmにも及ぶパリ中心を走るリヴォリ通りが、大変身。バスティーユ 広場近くからコンコルド広場まで続くリヴォリ通りは、以前は車の量が多く、そのために渋滞、クラクション、ひどい排気ガスで、通りに面したアパルトマンは、窓を開けておけない状態だった。

そのほとんどが自転車優先道路になり、右端がバス、タクシー専用で、その隣のみが一般車用。配達の車は許可をとれば右端を使える。緊急のための車もそこを使用できる。けれども一般の車は、一車線だけだから、一列に並んでノロノロ運転を強いられる。違反すると罰金だから、皆、おとなしく並んでいる。

チュイルリー公園の横手を走るリヴォリ通り。
右橋はバス、タクシー専用、その左隣が一般の車用。
そして、広々した道路が自転車専用。右から左から自転車が走って来るので、
しっかり左右を確認しないと危ない。

チュイルリー公園ちかくのリヴォリ通りは、何もここまでしなくてもいいのでは、と思うほど自転車専門の道路幅が広い。誰もが気持ち良さそうに自転車に乗っているけれど、信号無視が多くて、横断するのに歩行者は十分注意しなくてはならない。今後は、他の道路も同じような運命になるそう。コンコルド広場にも木が植えられ、車での移動はますます不便になる。このように、改造が着々と進んでいるパリ。

2025年3月11日

カラフルな3つの光景

 ファッションウィークが終って、落ち着きを取り戻したパリ。その期間に目にしたカラフルなパリの光景を・・・



キラキラ輝くマドモアゼル。
これほど独創的な装いは、ファッションウィークならでは。
この時期には、どんな服装も不思議に思えないから、不思議

思わず立ち止まるほどフレッシュなディスプレイ。
フルーツはすべてに布地で作っている。

カラフルと言えば、
やはりパレ・ロワイヤルのメトロの入り口は欠かせない。
ジャン=ミッシェル・オトニエルのこの驚異的作品は、
2000年作だとは思えないほど斬新さにあふれている。
とくに、太陽光線を受けたときの輝きは、息を呑むほど美しい。

2025年3月6日

ジャンヌ・ダルクの最初の肖像画

「フランスを救った少女」「オルレアンの乙女」と呼ばれるジャンヌ・ダルク。彼女の19歳の短い生涯は、多くの書物や雑誌、新聞などの記事、そして映画でしられているので、今さらここで書く必要はないと思う。けれども、ジャンヌ・ダルクが実際にどのような容姿だったかはわかっていない。ところが、国立古文書館が彼女の最初の肖像画を展示することになり、幸運にもそのヴェルニサージュに招待されたので、ここではジャンヌ・ダルク肖像画について語ります。

昔、肖像画を描いてもらうのは、王侯貴族とか高位の聖職者のみだった。だから、無名で爵位も何もないジャンヌ・ダルクの生前の肖像画があるわけがない。今回、国立古文書館で展示しているのは、彼女の最初の肖像画で、1429年5月10日に描かれたデッサン。

フランスの王朝が始まって以来の、
重要な記録、書類を保管している国立古文書館。
この建物の最も古い部分は14世紀にさかのぼり、
その後、高位の貴族が館を建て、ルイ14世の有能な軍人スービーズ公が
瀟洒な館に建て替え、その子孫が代々典雅な生活を送っていました。
ところが革命が起き、国に没収され、
ナポレオンが皇帝になったときに、国立古文書館になったのです。

ジャンヌ・ダルクの最初の肖像画は、パリ議会書記官であり顧問だったクレマン・ドゥ・フォーカンベルグが、記録簿の端に突発的に描いたもの。イングランドに包囲されていたオルレアン開放のために、ジャンヌ・ダルクが指揮をとり、大激戦の結果勝利を得たのは5月8日。その2日後に、オルレアン開放の記述をし、その日英雄となったジャンヌ・ダルクを、ページの開いている箇所に描いたのだった。

もちろん、ジャンヌ・ダルクを目の前にして描いたのではなく、想像なので、勇ましい姿ではなく、女性らしくドレスを着て、長い髪で、左手に立派な剣を、右手に旗を持っている。いずれにしても、彼女の生前中に描かれた唯一のデッサンなので、貴重極まりない。ジャンヌ・ダルクの姿を素早く描いたクレマン・ドゥ・フォーカンベルグの記録簿は、国立古文書館の奥深くに保管していて、通常、見るのは不可能。それだけに、目の前に展示されているのだから、感激もひとしお。

フォーカンベルグの記録簿。
この右ページの左上に、ジャンヌ・ダルクが描かれている。
非常に小さく、かなり傷んでいるが、
15世紀の貴重な空気が漂っているようで、感激しないではいられない。

デッサンはかなり小さく、6cm。
右手で持っている旗にはJHSと書いてある。
これはキリストと神の命令で、武器を持つようにという意味だそう。
左手の剣は先が鋭く両刃なっている。
ドレスはウエストを絞ったデコルテ。
デッサンはもちろん、美しい文字も
ジャンヌ・ダルクが活躍していた百年戦争の時代へと誘なう。
かつての有力な貴族の館だった面影は、今でも残っている。
その時代の豪奢なサロンが展示会場。

ジャンヌ・ダルクの肖像画は、
この3枚のパネルの下のカバーがあるガラスケースに入っていて、
見るさいにカバーを開け、その後直ちに閉じるようになっている。

パネルは左から、
ジャンヌ・ダルクに助けられ正式にフランス国王になったシャルル7世、
シャルル7世に紹介されるジャンヌ・ダルク、
1429年5月8日にパリ襲撃した際のジャンヌ・ダルク。

19世紀に描かれたジャンヌ・ダルクの肖像画。
15世紀風の様式で描かれている。
展示会場の隣の部屋には、1574年の記録簿があり、
驚くほどの分厚さに圧倒されました。


フランスの重要な資料を目の前にして、
心が豊かになった日でした。

2025年3月1日

マリー・アントワネット自叙伝 47

 パリへの屈辱の旅

 パリに向かう私たちの馬車の周囲は、4000人ほどの人に囲まれていました。後ろ髪をひかれる思いでパリに向かって馬車が動き始めても、ブイエ侯爵が軍隊と現れる望みを失いたくなくて、窓の外ばかり見ていました。でもその期待は、はかなく崩れました。10数分の差でヴァレンヌ近郊に到着したブイエ侯爵は、大勢の国民衛兵や村人たちに取り囲まれた私たちの馬車がパリに向かっているのを見て、国王が首都に戻る決心をしたと思ったのです。


ヴァレンヌとその近郊を流れるレール川。


ブイエ侯爵が率いる軽騎兵と、私たちの馬車の間にはレール川が流れていました。その川を横切るのは、危険が大きすぎるとブイエ侯爵が判断したのはわかります。でもその少し先に行けば道路が交差していて、水にぬれることもなく馬車に近づけたのです。優れた軍人たちが国民衛兵や群衆を追い払い、夫に事の次第を確かめ、馬車を彼らの手から救出することができたのです。けれでもブイエ侯爵は、いとも簡単に軍の退却を命じ、ご自身は逃亡計画の首謀者であることが発覚されたときのことを恐れ、そのまま馬を走らせ、ベルギーのアルロンへ亡命したのです。

ベルギーのアルロン。
この町でフェルセンさまは、逃亡が失敗に終わったことを
ブイエ侯爵から知らされたのです。


そこにはあの方がいました。その町で、ブイエ侯爵逃亡が失敗に終わったとフェルセンさまに告げたのす。6月23日だったそうです。ブイエ侯爵はその亡命先で、ヨーロッパ各国の君主に、フランス国王一家救出を積極的に頼んでいたそうです。ヴァレンヌで取るべき行動をとらなかった後悔が、きっと大きかったのでしょう。6月22日朝、ヴァレンヌを離れた馬車は、サント・ムヌーで食事のためにいったんとまり、その後シャロンに到着し、その夜をその町で過ごすことになりました。

この町にはなつかしい思い出があります。
1770年、皇太子ルイとの結婚のために
フランス入りした私を歓迎するために、
立派な凱旋門を建築し「皇太子妃門」と名付けて下さったのです。

 

翌日、シャロンを過ぎて少ししたころ、国民議会が派遣した3人の議員が馬車に乗り、お互いに窮屈な思いをしながらパリに向かうことになりました。国民議会から派遣された特使たちは、パリまで私たちの護衛にあたるようにとの命令を受けていたのです。3人とも身なりもきちんとしていて礼儀正しく、私たちを監視するのではなく、群衆から守るために来たことがよくわかりました。ラ・トゥール=モブールは由緒ある貴族出身ですが、革命に賛成した自由、平等主義者。ペティオンは弁護士で堅い性格。バルナヴはブルジョア出身でデリケートな性格。こうした3人の議員でしたので、安心感を持てました。

ラ・トゥール=モブール

ペティオン

バルナヴ


私たち6人が乗っている同じ馬車で、3人が護衛にあたるのがいいと思ったようですが、さすがに9人が座る場所はなく、いろいろ考えた末、ラ・トゥール=モブール男爵は侍女たちの馬車に同乗するとご自分で決めました。それでも2人の議員の席が充分ないので、息子を私の膝の上に乗せ、夫との間にバルナヴが座り、娘を脚の間に挟んだトゥルゼル夫人と義理の妹との間に、ペティオンが座りました。


身動きできない状態でしたが、結構、会話がはずみました。当初、議員たちは国王一家と直接言葉を交わすことに、緊張していましたが、時間が経つに連れて、まるで普通の家族のように気さくな一家だとわかったようで、驚いていました。3人の議員の中で、バルナヴが一番若く、私より11歳年下で、王妃と会話ができることにとても感動していたようです。彼は徐々に、私たちが置かれている境遇に心を動かされるようになり、何とかしたいと思っていることが感じられました。女性はこうした心の動きに敏感で、それはちょっとした言葉つかいや顔の表情でわかるものです。パリに戻ったら、秘密の内に私たちのために役立てようと決めたほどでした。23日はドルマンで一夜を過ごすことになりましたが、群衆の騒ぎが大きいために、ほとんど眠れませんでした。次の宿泊地モーの町に着いたのは夕方8時ころで、パリには翌25日早朝に向かうことになりました。モー市では司教館に泊まることができ助かりました。

モーの立派な司教宮殿。

夫と息子が泊まった部屋。


いよいよパリに向かう日はさすがに緊張しました。過激な革命家がうようよしていて、いつ危険に襲われるかわかりません。国民衛兵が護衛にあたっているとはいえ、突発事故が起きる可能性は高いのです。案の定、群衆は馬車の行く手をさえぎり、罵倒の声が四方からとんできました。ですから、ラ・ファイエット将軍が白い愛馬に乗ってパリの入り口で待機しているのを目にしたときには、心からほっとしました。


パリ市内に入ると、群衆がさらに多くなり、その中をエトワール広場、シャンゼリゼ大通り、ルイ15世広場をゆっくり通りながら、チュイルリー宮殿に到着しました。馬車を降り、宮殿の居室に入り、ほこりにまみれた帽子と服を脱いだ時、この5日間の短い間に、何年も年をとったような疲れがどっと押し寄せました。

国民を見捨て亡命を図った国王一家に対する憎悪は、
想像以上に大きく、身の危険をはっきり感じました。

群衆の憎しみがこもった声を浴びながら、
あちこちまわされ、チュイルリー宮殿に引き戻されたのです。
ルイ15世広場にも、ご覧の通り多数の群衆が押し寄せていました。
チュイルリー宮殿に戻される私たちの、
屈辱的な絵まで描かれたのです。


2日後、私はフェルセンさまにお手紙を書かずにはいられませんでした。逃亡が失敗に終わったことを知って、あの方がどれほど私の身を心配しているかと思うと気が気ではなかったのです。