2017年12月23日

ランスのクリスマス


パリの北東のシャンパーニュで有名なランスには、二つの重要な教会があるので、クリスマスにはことのほか賑わいます。
重要な教会のひとつはサン・レミ・バリジカ。

サン・レミ・バジリカの
正面向かって右側の彫刻が特に素晴らしい。

バジリカ内にあるサン・レミ司教の霊廟。
フランク王国初代国王クロヴィスに洗礼を授けた司教です。
霊廟の内部。
厳かな雰囲気があり身も心も引き締まります。
現在のフランス北部にあたる地に、ゲルマン民族の一派フランク族が移住し、そこにフランク王国を築いたのがクロヴィス。彼がフランク王国初代国王を名乗ったのは5世紀のことでした。

クロヴィス国王はランスでサン・レミ司教から洗礼を受け、カトリック教徒になります。
その地には401年に建築された教会があり、クロヴィスがそこで洗礼を受けたのは498年(496年、49年説もあり) 12月25日でした。

10世紀になると司教をたたえる教会が建築され、そこにサン・レミ司教の霊廟が置かれ、サン・レミ・バリジカと呼ばれようになりました。

ロマネスク様式、ゴシック様式、ルネッサンス様式を取り入れたサン・レミ・バリジカは、厳かでいかにも祈りの場にふさわしい教会です。

もうひとつの重要な教会がノートル・ダム大聖堂。
13世紀に建築された、ゴシック様式の傑作ノートル・ダム大聖堂。
周囲にクリスマス・マーケットが広がっているけれど、
徹底的な寒さで長くいられない。
ランスの中心にあるノートル・ダム大聖堂は、クロヴィスが洗礼を受けた小さな教会跡に建築された、ゴシック様式の傑作です。この大聖堂で歴代のフランス国王が戴冠式を執り行いました。
日本人になじみ深いルイ14世、ルイ15世、ルイ16世も戴冠式を行いました。

1775年、ランスのノートル・ダム大聖堂でのルイ16世の戴冠式。
それ以前の100年戦争(フランスの王座をめぐって、シャルル王太子軍とイギリス・ブルゴーニュ軍の間の激戦)の時にジャンヌ・ダルクが出現。

苦境に陥っている王太子の軍の先頭に立って戦い、勝利をものとし、王太子はランスのノートル・ダム大聖堂でフランス国王になる戴冠式を執り行い、シャルル7世となったのです。

このころからランスでの戴冠式は、世界の注目を集めるようになります。

「微笑みの天使」像。心が和みます。
いつまでも見つめていたいほど柔和な笑顔。
この大聖堂で見逃せないのは左手の入り口の「微笑みの天使」像。
見ている人も自然に微笑みが浮かんでくるような、寛大で親しみ深い笑顔。

ノートル・ダム大聖堂はゴシック様式で、威厳に満ちています。
けれども「微笑みの天使」の彫刻には、表情があらわれています。そのためにこの部分は、ゴシック後に現れるルネサンス様式の先駆けとみなされています。こうした天使がいるのなら、やはり天国は平和でいい国にちがいないと思えます。

ブルーが多いステンドグラスもどれも美しく、ただただうっとり見とれます。

高い天井まで届くようにステンドグラスがほどこされ、
そのどれもが宝石のような輝きを放っていて鮮やか。
シャガールによるステンドグラス。
13世紀と同じ手法で旧約聖書、新約聖書を主に描いています。1974年作。
暗い個所にジャンヌ・ダルクの像もあります。
彼女のお陰でランスのノートル・ダム大聖堂で聖油を受け、正式にフランス国王になれたシャルル7世だったのに、ジャンヌが敵につかまり宗教裁判で魔女の汚名をきせられ、19歳で処刑されたとき、手助けをしなかったシャルル7世。

ジャンヌ・ダルクの像。
1920年にジャンヌは聖人とされ、今では聖女ジャンヌ・ダルクです。
ルーヴル美術館にある彼の肖像画を見ると、自信がなさそうで、これでは誰かの助けがないと王座につけなかったのがわかるような気がしないでもない。

でも感謝したいこともあります。以前はダイヤモンドは男性のみの特権だったのが、この国王が女性に許可したこと。

彼の愛する公式愛妾、アニエス・ソレルがダイヤモンドを付けられるよう、
ある日急に決めたことでした。
理由はともあれ、女性がダイヤモンドを身に付けられるようになったのは、シャルル7世のお陰。そういう意味で、とてもいいことをした国王です。

よいクリスマスを!
Joyeux Noël!

2017年12月22日

パリの犬たち 151

人も犬もダウンコート。
チョー寒いパリ。
だからダウンコートをきないわけにいかないのだワ〜ン。
そこまでは人間もボクたちも同じ。
でも、足元を見て見て見て。

なにか、ちょっとちがうでしょ。
そう、ママンはフカフカのあたたかいブーツなのに、
ボクと妹はハダシ。

これってどういう意味?
冬の道路はとってもつめたいんだよ。それなのに・・・・・

2017年12月21日

シモーヌ・ヴェイユへのオマージュ

フランスの女性政治家シモーヌ・ヴェイユが、89歳の波乱に富んだ生涯を閉じたのは2017年6月30日でした
フランスの偉大な政治家であり、
女性の地位向上に偉大な貢献をなした
シモーヌ・ヴェイユ。

この自伝の中で波乱に富んだ人生を
感動的に語っています。
貴重な写真も多く、大切にしている本です。
女史の葬儀はアンヴァリッドの中庭で執り行われ、政治家がそろって参列し、就任したばかりのマクロン大統領が感動的な言葉を述べました。
その様子はテレビで実況中継され、私も画面の前に釘付けになっていました。

理知的な美貌の持ち主で、
後年に、そのために命拾いしたと語っています。

アウシュヴィッツ強制収容所にとらわれている間に、
そこで監視員をつとめていたポーランド女性が、
シモーヌの美しさに打たれ、
あなたのような美人は死んではいけないと言います。

そして彼女のお陰で、
アウシュヴィッツよりはるかに居心地がいい収容所に、
母と姉と一緒にシモーヌは移ることができたのです。
ユダヤ人の建築家を父としてニースで生まれた女史は、1944年3月、バカロレアの試験を受けた16歳の年に、その結果発表前に友人と歩いていた路上で捕まり、強制収容所に送られます。

父と兄は捕まった後、消息不明。母と二人の姉と強制収容所で厳しい日々を生きている間に、母は亡くなります。

戦後、開放された彼女はバカロレアに合格したことを知り、法律を専攻し、政治学院でアントワーヌ・ヴェイユと知り合い、結婚。3人の息子に恵まれます。

不幸はヴェイユ女史を追いかけることをやめず、同じ強制収容所で励ましあいながら生き延び、無事にフランスに戻った姉マドレーヌが交通事故で突然世を去ったのです。その後、ヴェイユの末の息子も病で若い生涯を閉じます。

度重なる不幸に打ち勝ちながら、シモーヌ・ヴェイユは女性政治家として目覚ましい活躍をし、長年保健相を務め、勇気を持って妊娠中絶を合法化。
あらゆる機会に女性への差別を取り除く努力をパワフルに、けれども、常に女性であることを意識しエレガントな装いを保ちながら続けていました。

後年には欧州議会の初代議長に就任し、さらにフランス憲法評議会評議員を務め、政治と女性の地位向上に全勢力を傾けた人。

過酷な経験をしたヴェイユ女史は、平和がいかに重要であるか、機会があるたびに訴え、過去の敵ドイツにも積極的に接近し、ヨーロッパ諸国の融合を強く望んでいました。

2013年に政治家であり高級官僚だった夫を亡くして以来、人前に出ることがなかったヴェイユ女史は、科学の発展にもつくしました。

フランスのパストゥール研究所とイスラエルのワイズマン研究所による、ガン合同研究委員会が女史の発案で1974年に生まれたのです。

その基金募集のガラ・ディナーを、オペラ座とヴェルサイユ宮殿で交互に開催。バレーやオペラ、クラシック演奏に続くディナーが終わるのは、いつも夜中の1時、2時。

政治家、歌手、俳優女優など多彩な顔ぶれのゲストを迎え、メディアが大きく取り上げるので話題になっていました。

いつからかこのガラ・ディナーのご連絡をいただくようになり、ほとんど出席させていただいていました。

ヴェイユ女史は毎回のガラ・ディナーの初めにあいさつし、何度か遠くから知性に富む凛とした姿を拝見していました。私が会員になっているファム・フォロムの特別ゲストにお迎えして、同じレストランで会食したこともあります。
11月に受け取ったガラ・ディナーのご案内状。

女史へのオマージュのガラ・ディナーは、12月20日、プレイエル・コンサートホールで開催されました。

早めにプレイエル・ホールに着くと、機関銃を手にした数人の兵士が入り口で待機し、機動隊の車も見える。重要人物が出席する場合にはかなり厳重な荷物検査があり、招待状や身分証明書のチェックも厳しい。

もしかしたら、政府関係の方がいらっしゃるのかも、と思っていたら、やはりそうでした。

司会をつとめたテレビの人気トップのニュースキャスターが、挨拶で語ったのです。保健相、経済相、駐仏イスラエル大使がお出になっているのです。

フランス共和国親衛隊の華やかな演奏が、ソワレ開始を告げます。
ヴェイユ女史の愛息、ジャン・ヴェイユ弁護士が、
母へのオマージュの始まりを感慨深く見つめていました。
すぐお隣でその光景を拝見できたのはこの上ない光栄です。
演奏後、写真を撮らせていただきました。
女史に驚くほどそっくりで、
感動しないではいられませんでした。
ブリジット・マクロン大統領夫人からの特別メッセージを、ニュースキャスターが読み上げ、その後、女優イザベル・ユペールがシモーヌ・ヴェイユのいくつかの名演説を朗読。
ピアノの演奏がそれに続き、デイナーが始まったのは夜10時過ぎ。

プレイエル・ホールの中に特別に設置されたディナー会場。
シックで気品があり、女史へのオマージュのエスプリが感じられます。
周囲を圧倒するほどの威厳、理性、知性、実行力、勇気、エレガンスを持つヴェイユ女史は、格別なオーラを放つ稀有な人です。フランスの歴史に残る女性にふさわしい、感動的な素晴らしいオマージュでした。

2017年12月18日

ルドワイヤンでの講演に出席

ナポレオン史学会主催の講演は、今回も前回と同じに3つ星レストランのルドワイヤンが会場。
テーマは「フランス王家の食卓の歩み」。
講演者はナポレオン史学会会長。

中世からナポレオン3世の第二帝政時代までの、王室の食卓マナー、お料理、食材など幅広い内容で、一時間半の講演はとても充実していました。
白いクリスマスツリーが両サイドを飾る階段。
それをのぼった2階の個室が講演会場。

壁の鏡にクリスマスツリーが映り、
このシーズンならではの詩情あふれる雰囲気を放っています。
一角にはチョコレートの大きなケーキ。
もちろん本物ではないけれど、
チョコレートの香りが漂っているような錯覚を起こします。
出席者はナポレオン史学会会員なので、皆、歴史が好きでしかも知識が豊富。
講演者が語っている間に
「そのことに関して付け加えたいことがある」
などと口を挟み、自分が知っていることを話し出す殿方もいる。

そういうことが数回あって、いかにも議論好きのフランス人らしいと関心。
いろいろな知識を得られて私は嬉しかったけれど、途中で意見を入れられると講演者は話しずらいと思う。
にもかかわらず、笑顔を保ちながら
「そうです、そういうこともあるのです」
と、飛び入りの話にさらなる知識を加えるのだから素晴らしい。

同じテーブルに3人の同じような服装の女性が並んで目立ちました。
そうです、赤と黒の服が共通点。
気品があって親切なご婦人と同席で良かった。
次回は会場をがらりと変えて、学生街のコンテンポラリーなレストランだそう。テーマが面白そうだったら行こう。

2017年12月17日

雨の日のパリの美しい夜景

今年の12月はなぜか雨の日が多いパリ。
そうした日の夜景はとびきりキレイ。
3つの光景をお届けします。
左はクリヨン・ホテル、右はオートモビル・クラブ。

コンコルド広場。大観覧車は来年姿を消す運命にあります。
美観を損ねるからというのがその理由。
ヴァンドーム広場。
整然と並ぶクリスマス・ツリーが、凛とした気品を漂わせています。

2017年12月16日

ブラスリー・ブノワでにぎやかに女子会

女性6人の、まことににぎやかで華々しい女子会をブノワで楽しみました。
1912年にオープンした4区のブノワは、ブラスリーで唯一の星付き。現在はかの著名なアラン・デュカスがオーナー。

20世紀初頭の趣をたっぷり味わえるインテリア。
1912年の創業以来、グルメに欠かせないブラスリー。
創業当時の典型的なパリのブラスリーの趣が引き継がれていて、それも魅力のひとつ。
浮彫をほどこしたガラスの仕切り、壁にはめ込まれた大きな鏡、窓辺のレース、太い柱、木彫・・・そのどれもが20世紀初頭の良き時代に浸る心地よさを与えてくれます。

ここでは、時代の流れに動かされない本物のブラスリーのインテリアと、伝統的フレンチを味わえます。

プレゼンテーションのプレートはリモージュ焼きのレイノー。
光沢のある白地ときめ細やかな絵柄で有名です。
シャンパングラスがおしゃれなので、
サーヴィスの人に伺ったら、
「ムッシュー・デュカスのコレクションで、
19世紀のグラスです」。

こうなると、お味も一段と素晴らしく感じられます。
最初にいただいたのはサーモン。
身が厚いのでサーモンの美味をしっかり味わえます。
そえ付けのポテトがおわかりしたいくらい美味しい。
メインの舌平目。
このようにロールにしているのは初めて。
付け合わせはホウレンソウ。

どれも量が多いけれど、これが伝統的フレンチの特徴のひとつ。
全部いただきましたよ。
サーヴィスはきびきびしていて、気持ちいいほど。
笑顔を絶やさないし、一度何か頼むと必ずそれを実行してくれる。

軽いお料理がもてはやされている今日この頃ですが、体の中にいつまでも残るしっかりしたお味の正統なフランス料理はやはりいい。それを満喫できる貴重なレストランです。
6人の女子会。
言葉をいつ挟もうかと、タイミングをつかむのが難しいほど、
にぎやかで楽しい夕食会でした。

2017年12月14日

メトロの駅名は語る 66

Nationale
ナショナル(6号線)

革命の時代に形成されたギャルド・ナショナル(国民衛兵)から生まれた駅名。

1789年、フランスの経済は最悪な状態で治安も悪く、これ以上、政府をあてにしていられないと、国民は自分たちを守る組織を作ることにします。
国民衛兵司令官に任命されたラファイエット。
パリで創設された国民衛兵は中流階級の人で成り立っていて、最初の司令官は、アメリカ独立戦争で活躍したラファイエット将軍でした。この組織はまたたく間に全国に広がります。
国民衛兵に守られながらヴェルサイユ宮殿を後にし、
パリに向かう国王一家。
これを最後にヴェルサイユ宮殿に戻ることはありませんでした。
7月14日のバスティーユ襲撃後、10月6日、国王一家が住むヴェルサイユ宮殿に向かった市民たちが、王家の人々を守る近衛兵とぶつかりあった際、それを鎮めたのが国民衛兵。
国王一家がパリに連れていかれる際に、暴徒の手にかからないように護衛していたのも国民衛兵でした。

パリのチュイルリー宮殿に暮らすようになった国王一家。
当初は庭園の散歩も許されていました。
成人の国民衛兵と同じ制服を着た少年兵士と
会話を交わす国王たち。
その後革命が悪化するに従って、国民衛兵の指導者に過激な人物が選ばれるようになり、ついに、国民衛兵は革命のために戦うようになったのです。

ところが革命家たちが処刑され、王党派が力を盛り返してくると、国民衛兵は王党派につきます。

1795年10月5日、パリのサン・ロック教会近辺で、国民衛兵と王党派が団結して反乱を起こし、当時の不評だった総裁政府打倒をこころみます。

その時、それまで無名に等しかったナポレオン・ボナパルトが、総裁政府の命令で反乱軍を見事に打ち破ったのです。

総裁政府の命令を受け、ボナパルト将軍は反乱を短時間で鎮めます。
これをきっかけに
ナポレオン・ボナパルトは英雄視されるようになります。
サントノレ通りにあるサン・ロック教会前で、
ボナパルト将軍は王党派・国民衛兵を打ち破りました。

彼は街中であるにもかかわらず、大胆にも大砲を放ち、
短時間で勝利を得たのです。
これによって国民衛兵は解散に追い込まれ、ナポレオンは英雄と称えられ、出世街道を驚異的な速さで進んでいくのです。

ナポレオンが失脚し王政復古が実現すると、国民衛兵も息を吹き返し、19世紀のナポレオン3世の第二帝政まで続きました。けれども、その後再び消えてしまいます。

ところが近年になって一連のテロが起き、それに対抗するために2016年、オランド前大統領によって、予備軍の役目を果たす国民衛兵が新しい形で生まれました。

志願者と予備兵で構成されている現在の国民衛兵は、75000人もいるそうで治安維持のためにいいと好評です。たしかに兵士の姿を随所で見ると安心感があります。

2017年12月13日

クリスマスの華やぎ最高潮

今年のクリスマスは、例年以上の華やかを散りばめているパリ。
特に、ふたつのデパートがあるオスマン大通りのイルミネーションは、かつてないほどゴージャス。

ご覧の通りの豪華さ。心が浮き立たたないではいません。
ひっきりなしに色が変わり、多くの人が立ち止まって見とれます。
警察の車が数台止まっているので安心。
光のカスケードのようなイルミネーション。
カラフルで文句なしにキレイ。
通常は色の規制があってシックな街並みのパリ。
それがクリスマスだけ煌びやかな色が許されるのです。
こうした光景を見ていると、全細胞が活性化されます。
大通りの木々にカラフルなイルミネーションが灯され、しかも頻繁に色が変わり、夢の境地に入ったみたい。

クリスマスまで後わずか。デパートだけでなく、サントノレ通りのお店も皆、日曜日も営業。買い物客が多く中に入れず外で待つこともある。そうした時にはドリンクサーヴィスもあるのです。フランスの経済が上昇する気配が感じられ幸せ気分です。

2017年12月12日

新鮮な空気を求めて郊外に

パリも他の大都市と同じように、いくつもの問題を抱えています。
その中で一般市民の生活にとって気になるのが公害。

ときにはエッフェル塔が、かすんで見えないことすらある。
しかも一年に何度も。
この問題を解決するために、パリ市長が車の走行を厳しく制限しているけれど、まだまだ深呼吸したくなる空気ではない。

だから、木や花がたくさんある公園に定期的に行くようにしているけれど、美観を重視しているので人工的な部分も多い。
なので、ときには森に行って、手つかずの自然を体いっぱいに浴びたくなる。

この、自然の美しさ・・・
もう、感激の連続。

葉が全部落ちても魅力的な木々。
水に映る光景がとってもポエティック。
週末にちょっとお出かけしました。
心身をリセットするために結構歩いたけれど、ついでに、というよりこれも郊外に行ったときの楽しみのひとつで、スイーツをいただきました。

暖炉では薪が赤々と燃えている。このように目の前で薪が燃えるのを見ていると、クリスマスに家族がその前に集まって、大きなケーキを分かち合っているほのぼのとした姿が浮かんできます。

お散歩の途中で味わったスイーツ。
見た目にかわいいだだけでなく、お味もかわいい。


赤々と燃える暖炉。情緒があっていい。
体だけでなく、心にも温かさが広がります。
ファミリーをテーマにした幸せな物語りが浮かびそう。
そうです、クリスマスを象徴するケーキ「ブュッシュ・ド・ノエル」が薪の形をしている理由のひとつはここにあるのです。薪はフランス語でブュッシュ、クリスマスはノエル。

趣向をこらした「ブュッシュ・ド・ノエル」が多いから、ついつい誘惑されてしまう。
今年はいくつ食べることになることやら。

2017年12月11日

ジョニー・アリディ 国葬のような葬儀

フランスを代表するもっともポピュラーな歌手、ジョニー・アリディが肺がんで74歳の生涯を閉じました。12月9日の葬儀は前代未聞のもので、テレビでの実況中継を1500万人が見たほど。

ロック歌手として絶大な人気を持ち、シルヴィー・ヴァルタンと結婚。離婚後も華やかな私生活を繰り広げ、大規模なショーをするたびに話題を呼び、人気は常にトップ。

闘病生活を送っていることを皆知っていたけれど、あのジョニーだったら克服し、再びパワーあふれるショーをと願っていたフランス人。けれどもジョニー・アリディは不死身ではなかった。

ジョニー・アリディの葬儀がおこなわれたマドレーヌ教会。
ちょっと寂しそうなジョニーの大きなポートレートが印象的。
長年国民的アイドルだった彼の葬儀は格別で、ガラス張りの車に棺がのせられ、700台のバイクにエスコートされながら凱旋門、シャンゼリゼ大通り、コンコルド広場を通ります。

その間、ジョニー専属のミュージシャンが、コンコルド広場でヒット曲を演奏し続け、沿道に集まった無数の人々が大声で大合唱。

無数のファンがジョニーのヒット曲を歌い続けます。
地方からバスを連ねて多くのファンがパリに到着。最後の別れを告げます。
前夜から葬列が通る道路は車の通行禁止。
マドレーヌとコンコルドのメトロは閉鎖。
白い花が飾られた教会の階段。
左に赤いバラの花をほどこしたギター。
ロック歌手にふさわしい、パリのエスプリこもる配慮に感動。
ミサをあげるマドレーヌ教会の入り口では、ジョニーの息子、娘、マクロン大統領夫妻が棺の到着を待ち、そこでも群衆が歌いジョニーの名を声を張り上げて叫んでいました。

数分後、静寂があたりに流れました。ジョニーの棺が到着したのです。バイクはコンコルド広場で姿を消し、かわりに黒い乗用車に導かれながら、アイドルの車、彼の最後の妻、二人の養女をのせた車が続きます。

棺がマドレーヌ教会前に安置され、司教、家族、友人代表が見守る中で、マクロン大統領がジョニー・アリディの生涯を語り、偉大な業績を語り、「彼に拍手を捧げましょう」と締めくくり、割れるような拍手があたり一面から舞い上がり、冬の寒い空に向かって勢いよくのぼっていきました。

その後、ミサのために無言のジョニーは教会の中へ。
国民的歌手にふさわしい、国葬級の葬儀でした。