コルヴィザール(6号線)
ナポレオンが全面的な信頼を寄せていた主治医、ジャン=二コラ・コルヴィザールの名を冠しています。
ジャン=二コラ・コルヴィザール(1755-1821) |
検事だったコルヴィザールの父は、息子に法律を学ぶよう説得しますが、それを無視して医学を選び、激怒した父は仕送りを拒否。コルヴィザールはオテル・デュー病院で準看護人として働きながら、勉学を続けます。
コルヴィザールが働いていた、セーヌ左岸の慈善病院。 16世紀の王妃マリー・ド・メディシスの発案で生まれました。 |
手術に長けていただけでなく、医学教授としての業績も素晴しく、ナポレオンから全面的信頼を受け、1804年、ナポレオンが皇帝になると主治医に任命されます。
コルヴィザールの落ち着きある態度と、確かな診断を評価していたナポレオンは、「医学は信用しないが、コルヴィザールは信用する」と言っていたほどでした。
ナポレオンの二番目の妃マリー・ルイーズとローマ王。 当時、皇帝夫妻が暮らしていたチュイルリー宮殿で、 1811年3月20日、ナポレオンが待ち望んでいた息子が誕生。 主治医はコルヴィザールでした。 |
ナポレオンが迎えた二番目の妃マリー・ルイーズの出産を手掛けたのもコルヴィザールでした。
ナポレオンは難産で苦しむマリー・ルイーズの傍らに付き添っていたのですが、出産までに時間がかかるとコルヴィザールに告げられます。
それではと、隣室で熱いお風呂に入ったりしながら待機していたナポレオンは、子供が生まれたことを知らされると、妃の部屋に矢のように飛び込ます。
危険を伴う難産だと告げられ、
「万が一の場合には妃を救え」
と命じていた皇帝は、てっきり死産だと思い、子供には見向きもしないで妃を腕の中に抱きしめます。
ところが、コルヴィザールが新生児をぬるま湯に入れ、軽くたたき、ブランデーをほんの一滴口の中に入れ、暖かいタオルにくるんだ瞬間、元気な産声が響いたのです。
ナポレオン皇帝の王子。 ローマ王の称号で呼ばれていました。 長身で気品ある風貌、知性に富む青年になりますが、 結核で21歳の生涯を閉じます。 |
「余の息子だ、ああ、余の息子だ」
と感激の言葉を何度も発しました。
皇帝から信頼され、業績を認められ、男爵の称号を授かり、パリ近郊に立派なシャトーを持つまでになったコルヴィザールは、1821年、66歳の生涯をパリで閉じます。
ナポレオンが流刑地セント・ヘレナ島で世を去った半年後のことでした。
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