Richelieu-Drouot
リシュリュー・ドルオー(8、9号線)
リシュリュー枢機卿とドルオー将軍、ふたりの名を冠している駅。
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リシュリュー枢機卿(1585ー1642)
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リシュリューの偉業は数多くありますが、その中でもっとも重要なのは国王ルイ13世に及ぼした影響です。
小貴族の家に生まれ、聖職者の道を進んでいたリシュリューですが、説得力がある話術と政治的手腕を買われ、次々に要職に就き、ついにはルイ13世の宰相になります。
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重要な貿易港、ラ・ロシェルを視察するルイ13世とリシュリュー枢機卿。 |
国を安全に治めるためには、王権を強力なものにする必要があるとし、中央集権化、絶対王政化の基礎を築いたリシュリューの努力は、後年、ルイ14世によって実現されます。
リシュリューはまた、アカデミー・フランセーズを創設し、正しいフランス語普及に多大な努力をし、その意思は今も引き継がれています。
現在パレ・ロワイヤルと呼ばれている地に、大邸宅を建築させたリシュリューでしたが、国王ルイ13世がルーヴル宮殿に住んでいたので、いつでも駆け付けられるようにと、直ぐ近くに暮らすことにしたのです。
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ルイ13世に寄贈されたリシュリューの豪勢な館は、
国王の息子ルイ14世が子供時代を送っていました。
けれども数回激しい政変が起き、パリが嫌いになったルイ14世は、
弟オルレアン公に譲り、それ以後、代々のオルレアン公が暮らします。
オルレアン公が住むようになった、1760年代のパレ・ロワイヤルと庭園。 |
リシュリューが世を去ったときには、彼の遺言に従い館はルイ13世に寄贈され、その息子ルイ14世が幼少時代に暮したためにパレ・ロワイヤル(王宮)となったのです。リシュリュー存命中はパレ・カルディナル(枢機卿の城館)と呼ばれていました。
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アントワーヌ・ドルオー将軍(1774ー1847) |
一方、ドルオー将軍はナポレオンの時代に活躍した軍人で、稀に見る有能な砲兵とナポレオンが手放しで称えた人物。
小さい頃から数学に秀でた才能を発揮し、軍人の道を歩むようになったアントワーヌ・ドルオーは多くの戦いを経験。ナポレオンに軍人としての煌めきを認められたのは、1809年、ウィーンを占拠した皇帝がシェーンブルン城で観兵式をしたときでした。
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フランス軍に大勝利をもたらした
ワグラムの戦いで破格の戦力を示したドルオー将軍。
左ナポレオン、右ドルオー将軍。 |
その年の7月6日、ウィーン郊外のワグラムの戦いでオーストリア軍を破格の戦力で打ち破り、皇帝の全面的信頼を受けます。その後ロシア遠征にも参加。
ナポレオンが戦いを失いエルバ島に流刑されたとき、皇帝はドルオーに同行を求め、エルバ島総督に任命します。
皇帝が島を脱出した際にもドルオーは追従。そして、連合軍相手のナポレオン最後の戦闘となった、ワーテルローの戦いでも活躍。
再び失脚したナポレオンは、大西洋の孤島セントヘレナ島に送られます。王政復古で国王になったルイ18世から、重要な役職を提案されましたが、すべて断り、生まれ故郷ナンシーに引退し余生を過ごします。
最期までナポレオン皇帝のみに忠実だった偉大な軍人です。