2018年7月31日

メトロの駅名は語る 94

Bonne-Novelle
ボンヌ・ヌーヴェル(8,9号線)

近くにある教会ノートルダム・ドゥ・ボンヌ=ヌーヴェルにちなむ駅名。
受胎告知に捧げるこの教会が、最初に建築されたのは1551年でした。

けれども16世紀、カトリックとプロテスタントの間の宗教戦争の際に、焼かれてしまいます。その後再建されたのは1628年で、ルイ13世の妃アンヌ・ドートリッシュが建築用の石を置いています。

ルイ13世の妃、アンヌ・ドートリッシュ。

スペイン国王の王女として生まれ、14歳でフランス国王ルイ13世に嫁ぎましたが、長年世継ぎに恵まれませんでした。

そのためにノートルダム・ドゥ・ボンヌ=ヌーヴェルに頻繁に通い、子供が授かるよう祈りを捧げていました。

アンヌ・ドートリッシュと未来の国王ルイ14世。

待望の王子が生まれたのは、結婚から23年後の1638年9月5日。
その王子が後に太陽王ルイ14世となり、絶対王政を築きます。

残念なことに教会はフランス革命で破壊され、その後再建されたのが現在のネオクラシックのシンプルな教会。

大天使ガブリエルが地上に降り立って、ヨセフの婚約者マリアに、神の恩恵によって男児が授けられると告げる受胎告知は、多くの画家が手掛けています。
ちなみにボンヌ=ヌーヴェルは、良き知らせという意味です。

フラ・アンジェリコによる受胎告知。
フィレンツェのサン・マルコ美術館の壁画で、1440年ころの作品。

数ある同じテーマの中で、私がもっとも好きな絵です。

2018年7月28日

メトロの駅名は語る 93

Richelieu-Drouot
リシュリュー・ドルオー(8、9号線)

リシュリュー枢機卿とドルオー将軍、ふたりの名を冠している駅。

リシュリュー枢機卿(1585ー1642)

リシュリューの偉業は数多くありますが、その中でもっとも重要なのは国王ルイ13世に及ぼした影響です。

小貴族の家に生まれ、聖職者の道を進んでいたリシュリューですが、説得力がある話術と政治的手腕を買われ、次々に要職に就き、ついにはルイ13世の宰相になります。

重要な貿易港、ラ・ロシェルを視察するルイ13世とリシュリュー枢機卿。

国を安全に治めるためには、王権を強力なものにする必要があるとし、中央集権化、絶対王政化の基礎を築いたリシュリューの努力は、後年、ルイ14世によって実現されます。

リシュリューはまた、アカデミー・フランセーズを創設し、正しいフランス語普及に多大な努力をし、その意思は今も引き継がれています。

現在パレ・ロワイヤルと呼ばれている地に、大邸宅を建築させたリシュリューでしたが、国王ルイ13世がルーヴル宮殿に住んでいたので、いつでも駆け付けられるようにと、直ぐ近くに暮らすことにしたのです。

ルイ13世に寄贈されたリシュリューの豪勢な館は、
国王の息子ルイ14世が子供時代を送っていました。

けれども数回激しい政変が起き、パリが嫌いになったルイ14世は、
弟オルレアン公に譲り、それ以後、代々のオルレアン公が暮らします。

オルレアン公が住むようになった、1760年代のパレ・ロワイヤルと庭園。

リシュリューが世を去ったときには、彼の遺言に従い館はルイ13世に寄贈され、その息子ルイ14世が幼少時代に暮したためにパレ・ロワイヤル(王宮)となったのです。リシュリュー存命中はパレ・カルディナル(枢機卿の城館)と呼ばれていました。

アントワーヌ・ドルオー将軍(1774ー1847)

一方、ドルオー将軍はナポレオンの時代に活躍した軍人で、稀に見る有能な砲兵とナポレオンが手放しで称えた人物。

小さい頃から数学に秀でた才能を発揮し、軍人の道を歩むようになったアントワーヌ・ドルオーは多くの戦いを経験。ナポレオンに軍人としての煌めきを認められたのは、1809年、ウィーンを占拠した皇帝がシェーンブルン城で観兵式をしたときでした。
 
フランス軍に大勝利をもたらした
ワグラムの戦いで破格の戦力を示したドルオー将軍。
左ナポレオン、右ドルオー将軍。

その年の7月6日、ウィーン郊外のワグラムの戦いでオーストリア軍を破格の戦力で打ち破り、皇帝の全面的信頼を受けます。その後ロシア遠征にも参加。

ナポレオンが戦いを失いエルバ島に流刑されたとき、皇帝はドルオーに同行を求め、エルバ島総督に任命します。

皇帝が島を脱出した際にもドルオーは追従。そして、連合軍相手のナポレオン最後の戦闘となった、ワーテルローの戦いでも活躍。

再び失脚したナポレオンは、大西洋の孤島セントヘレナ島に送られます。王政復古で国王になったルイ18世から、重要な役職を提案されましたが、すべて断り、生まれ故郷ナンシーに引退し余生を過ごします。

最期までナポレオン皇帝のみに忠実だった偉大な軍人です。

2018年7月26日

パリの犬たち 176

やはり地球は病気だ、暑すぎる。

どうしてこんなにアツイの。
もう、ボク、息も絶え絶えだ。

太陽が強くて、目もあけていられない。
サングラスも持っていないし・・・

今日は33度、明日は34度だって。
いったい誰のせいで、地球が高熱病になったの?

早く地球を元の体にもどしてほしいワン。

2018年7月21日

メトロの駅名は語る 92

Madeleine
マドレーヌ(8、12、14号線)

マドレーヌ教会が駅近くにあり、コンサートや時には著名人の葬儀も行われます。国民的ロック歌手ジョニー・アリディが亡くなったとき、大イヴェントともいえるミサが行われたのはつい最近でした。

マドレーヌ教会はマグダラのマリアに捧げられている教会です。
マグダラのマリアはフランス語でマリー・マドレーヌとなります。

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの名作
「聖なる炎の前のマグダラのマリア」


マリアが生まれたマグダラ。

パオロ・ヴェロネーゼ作「マグダラのアリアの改宗」

イスラエルのマグダラで生まれたマリアは、イエス・キリストに出会い7つの悪霊を追い払ってもらい、それ以後ずっとイエスに伴っていたとされています。

一説では彼女は罪深い娼婦だったとも言われていますが、聖書にはその記述はありません。

マグダラのマリアはイエスのゴルゴダの丘での処刑と、その後の埋葬を見守り、イエスが復活した姿を最初に見ています。

主を失い意気消沈している弟子たちに、イエス復活を伝えたのもマグダラのマリアでした。それにより弟子たちは勇気を持ち、布教に情熱を注ぐようになったのです。

イエス処刑後、マグダラのマリアはラザロやマルタ、マリア・サロメたちと小舟に乗り、フランスのマルセイユ近くのサント・マリー・ド・ラ・メールに流れ着きます。

ジオットが描いたマグダラのマリアたちが
小舟でマルセイユに向かう姿。

上陸後、弟子たちはその界隈でキリスト教布教を熱心に行い、マグダラのマリアはサント・ボームの洞窟の中で祈り続けます。その地で世を去った彼女は、そこから遠くないサン・マキシマン・ラ・サント・ボームに葬られたとされています。

このように、マグダラのマリアがフランスに逃れてきたことから、フランス各地に彼女に捧げる教会が多数あります。

そのひとつがパリのマドレーヌ教会で、ルイ15世の時世の18世紀に建築開始。
ところがフランス革命で工事が中断され、ナポレオン時代に当初の目的とまったく異なる軍団を称える殿堂になります。
ナポレオンが失脚し王政復古で王朝時代が始まると、ルイ15世の意思を尊重し、再びマグダラのマリアに捧げる教会になります。
ナポレオン時代に古代ギリシャ・ローマの神殿のように建築されたために、建物の周囲をコリントの列柱が囲み、通常の教会とかなり異なる建築様式です。

ナポレオン失脚後、王政復古の時代に完成したマドレーヌ教会。

2018年7月17日

サッカー、ワールドカップ決戦に沸くフランス

7月15日。サッカーのワールドカップ決戦の日、フランス中が大騒ぎ。
クロアチアとの決戦はフランス時間午後5時からだというのに、その何時間も前から熱気に満ちていました。

その日、「ジャポニズム 2018年」のイヴェントのひとつ、和太鼓TAOの公演があるので、午後1時ころ久しぶりにメトロで移動。

ホームに降り立った途端、すごい人の波に圧倒され、無事に目的地に着くかしらと思ったくらいの熱気。ラッパを吹いたり、国家を歌ったりしていて、もうすっかりフランスが優勝したかの雰囲気。国旗を体に巻いている人もいれば、顔に三色旗を描いている人もいる。

駅にとまるたびに乗ってくる人が増え、ドアがなかなか閉まらない。一年に2、3回しかメトロに乗らない私は、この異常事態に怖くなり、ひたすら早くメトロから降りたいと願うばかり。でも、目的地は終点だからそうもいかない。

彼らはきっとトロカデロ駅で降りるに違いない、と期待していたら、その通り、どっと降りて急に静かになりました。トロカデロ駅からエッフェル塔の足元にあるシャンドマルスまで歩いて、そこで巨大スクリーンで決勝戦を見ながら感激を分かち合うのが目的なのです。

決勝戦の最中に、車の中から大声て実況する人たち。
試合の興奮が街中に広がります。
警備の人も試合が気になっているので、
それを察して歩きながら経過を知らせる人もいます。
国旗の生産が間に合わないほど人気だったそう。

公演の後、決勝戦最中にメトロに乗ると、また人の波。
多分シャンゼリゼに向かっていると想像し、その数駅前で降りて徒歩で我が家に戻ることにする。

決戦後、勝っても負けても車の通行止めをしているシャンゼリゼ大通りでカンパイするのです。

キオスクも国旗を飾って応援。
どのカフェも外まで人があふれていて、ゴールのたびに大歓声。

途中、道路工事をしている人が、「今、1対1だ」と大声で実況してくれるし、車を運転しながら、これまた大きな声で道行く人に状況を知らせる人もいる。

カフェはテレビを見る人で路上まで人があふれている。フランスのゴールが決まると、一斉にジャンプ。

このようにサッカー一色のパリに、フランス人の団結精神を強く感じた忘れえぬ日でした。さすが、革命を起こした国、団結力は半端ではない。
そういえば国家も革命の時に生まれたもので、それが今でも愛されているフランスです。


2018年7月14日

ジャポニズム2018 パリで開幕

日仏友好160周年を記念する様々なイヴェントが、2018年7月から2019年2月までフランス各地で開催されます。

多岐にわたるイヴェントは60を超える大規模なもの。
正式には「ジャポニズム2018 響き合う魂」と呼ばれ、日本の美の深さ、美意識、価値観を多くのフランス人に紹介するのが目的。

この記念すべき重要なイヴェントは、ロスチャイルド館での「深みへ―日本の美意識を求めて」展で始まります。

18世紀のロスチャイルド館。
均整が取れたネオクラシックです。
エントランスで迎えるのは、現代作家による、
鉄と真鍮でクリエイトしたドラ。

日本人ならではの展覧会の始まりの印。

旧貴族館と縄文土器が、
時代も国籍も超えた響きを奏でています。

手前は縄文時代の土器の破片を並べています。
意表をついた展示方法に感嘆するばかり。

同じサロンの窓辺には、
縄文時代(16000年―2300年前)の土器がふたつ飾られています。
炎と冠。

ジャポニズム2018の開催を告げる展覧会のヴェルニサ―ジュは7月13日、かつてサロモン・ド・ロスチャイルド男爵夫妻の館だった瀟洒な館でありました。18世紀の気品あふれるロスチャイルド館は、シャンゼリゼ大通り近くにあり、フランスのかつての栄華を伝えるネオクラシックの建造物。

縄文土器から現代アートまで、日本特有の文化を展示する「深みへー日本の美意識を求めてー」展は、フランス人だけでなく日本人にとっても興味深いし、学ぶことが多い展覧会です。

いろいろ鑑賞している間に、
友人の渡辺浩子さんにお会いして、思わず歓声を。

話題はもっぱらジャポニズムです、もちろん。

北斎の名作も数点。
うす暗い同じ展示室には、
僧侶であり画家の仙厓義梵の貴重な作品が展示してあり、
魂に響くような語りかけを感じます。

伊勢神宮の模型。
虚飾を廃した清らかな姿に心が打たれます。
トゲいっぱいのユーモアあふれる現代作家の作品が
2階でお迎え。

地下はそれまでと全く異なる世界。
ゆったりと絶え間なく姿を変えるフォームが圧巻。

数メートルの高さになったり、岩山や洞窟を描いたり、
氷山に思えたり・・・・
息が通ったように動くフォームに、
自分を忘れてしまうようなすごいインパクトがある。

1975年生まれの現代美術家、名和晃平さん作です。

日本の過去と現代が美しいハーモニーを奏でている展覧会。
これを機会に、日本人である誇りをさらに強く持とうと思っています。

Hôtel Salomon de Rothschild
11 rue Berryer
75008 Paris

7月14日ー8月18日

2018年7月12日

パリの犬たち 175

ヴァカンス・シーズンよ。

7月も半ば。
ヴァカンスでお出かけした人もたくさんいるパリ。
パリジャン、パリジェンヌがいなくなったかわりに
エトランジェがいっぱい。

英語、イタリア語、スペイン語、日本語、中国語、韓国語・・・・・
いろいろな言葉が飛び交って頭が悲鳴をあげている。

ネ、パパ、今年はどこに行くの?
エッ、モロッコのタンジェ!!
すご~くうれしい。

あそこは親切な人が多いからね。
犬もおっとりしているし、海もある。
心はすでにモロッコだワン。

2018年7月9日

メトロの駅名は語る 91

Invalides 
アンヴァリッド(8号線)

廃兵院を意味する駅名で、廃兵院はフランス語でオテル・デ・ザンヴァリッドとなります。

1706年、廃兵院を訪れたルイ14世。

アンヴァリッドは外国との戦いが多かったルイ14世の時代に、傷痍軍人の面倒をみるために、国王の命令で建築された療養施設。医師や看護婦が常時いる恵まれた環境でした。

その一部が現在は軍事博物館になっているし、アンヴァリッドのドームの地下にナポレオンの遺骸が葬られてからは、ナポレオンのお墓として多くの観光客が訪れています。

1789年7月14日、群衆たちは武器を求めてアンヴァリッドに向かい、
32,000の銃と27の大砲を略奪し、バスティーユを襲撃し陥落させたのです。
この日から革命は過激化します。

1789年7月14日、バスティーユが群衆によって陥落し、革命が始まりますが、その襲撃に必要な武器の多くはアンヴァリッドから略奪したもの。

革命で旧体制が崩壊。共和国になったフランスでしたが、ナポレオンが登場しまたたく間に皇帝を宣言、第一帝政時代を迎えます。

皇帝ナポレオンは1818年2月11日、傷痍軍人をお見舞いするために
アンヴァリッドに向かいました。


わずか10年ほどの帝政時代が終わりを告げ、ナポレオン失脚のために一致団結した連合軍の決定で、大西洋の孤島セント・ヘレナ島に流刑された皇帝は、1821年5月5日5時45分、その地で生涯を閉じます。


セント・ヘレナ島のナポレオンのお墓。

セント・ヘレナ島の総督、イギリス人のハドソン・ローの非人情な仕打ちで、かつてのフランス皇帝ナポレオンは、墓標すらない墓に葬られました。

部下ベルトランと散策しているときに訪れたゼラニュームの谷が気に入り、
「この島で世を去ることになったら、ここに葬って欲しい」と語った地に葬られたことは幸いなことでした。

けれども、彼の母レティシアが「息子の亡骸を、この腕の中に抱きたいのです」と、イギリス政府に再三願ったにもかかわらず、フランスに戻ることも許されず年月が経ちました。

「余がかくも愛したフランス国民に囲まれて、セーヌ川のほとりに憩うことを願う」という、かの有名な遺言が実施されたのは1840年12月15日。

1840年10月15日、
セント・ヘレナ島に到着したフランスの代表によって
ナポレオンの棺が開けられました。

偉大な皇帝を目の前にし誰もが感動の渦に巻かれた瞬間です。
夜更けにフランス船に移されたナポレオンは、
一路フランスへと向います。
自ら建築を命じた凱旋門でしたが、
その完成を見ずに流刑されたナポレオンは、
今、無言でその下をくぐります。
皇帝にふさわしい盛大な葬儀がアンヴァリッドで催され、
ナポレオンは遺言通りに
セーヌ川のほとり、フランス国民が見守る中に安住の地を見出しました。

それから100年後の同じ日の早朝、アンヴァリッドで低い太鼓の音が響きました。ナポレオンが最期まで思いを馳せていた息子ローマ王の遺骸が、ウィーンからパリに戻り、敬愛していた父と同じアンヴァリッドのドームの下に葬られたのです。

父が待つアンヴァリッドに葬られたローマ王。
21歳の若さで、
オーストリアの人質になったまま世を去りました。

ローマ王はナポレオンとオーストリア大皇女マリー・ルイーズの間に生まれ、ナポレオン失脚に伴い故郷に戻った母に育てられ、そこで21歳の若い生涯を閉じ、ハプスブルク家の墓地に埋葬されていました。

このようにアンヴァリッドは、ナポレオン崇拝者にとって欠かせないモニュメントです。

2018年7月6日

ハイジュエリーの華麗な世界 3

オートクチュール・ウィークにパールの王者ミキモトが、ニュー・コレクションを披露し話題を呼びました。この期間にコレクションをパリで発表するのは、メゾンにとって初めてのこと。

ヴァンドーム広場のブティック内は白いリボンが交差し、精美な空間になっていました。パールと今回のコレクションテーマ「リボン」から生まれた装飾なのでしょう。

ミキモトの店内は真っ白いリボンが交差し、
パールのように清らか。

襟を立てているようなオリジナリティあふれるネックレス。
オートクチュールとの融合の輝きが光っています。

このジュエリーにもオートクチュールのエスプリがたっぷり。
歩くたびにパールが揺れるようで、
シックに装うレディの姿が目に浮かびます。
堅いパールなのに、
布地の柔らかさが感じられる驚異的なクリエーション。

何て優美なカフスでしょう。
パールならではの品格がほとばしっています。

ブシュロンは今年創立160年。
今ヴァンドーム広場に面した本店はリニューアル盛んで、完成したときには、どのような姿を見せてくれるかとても楽しみ。

ニュー・コレクション発表会場はそのすぐ近くのパヴィオン・ヴァンドーム。エントランスから幻想的な世界が広がっていて、圧倒されました。

エントランスを飾るメゾンの象徴のヴァンドーム広場の円柱。
アイビーが絡みながら徐々に上へとのぼっていくテクノロジーに
驚かされます。

もうこれだけでも一大スペクタクル。
アイビーはブシュロンのアイコン的存在です。
濃いブルーのネックレス「夜の花」。
ミステリーを秘めているような色合いから、
大人のエレガンスが放たれています。
圧倒的なヴォリューム感があるアジサイのネックレス。
センターのトルマリン・ローズは42,96カラット。

ひときわの注目を浴びていたジュエリーです。
フェミニンでチャーミングで女性の心を揺れ動かします。
グラフィックなアールデコのネックレス。
エメラルドの落ち着いた光沢が魅惑的。