アンヴァリッド(8号線)
廃兵院を意味する駅名で、廃兵院はフランス語でオテル・デ・ザンヴァリッドとなります。
1706年、廃兵院を訪れたルイ14世。 |
アンヴァリッドは外国との戦いが多かったルイ14世の時代に、傷痍軍人の面倒をみるために、国王の命令で建築された療養施設。医師や看護婦が常時いる恵まれた環境でした。
その一部が現在は軍事博物館になっているし、アンヴァリッドのドームの地下にナポレオンの遺骸が葬られてからは、ナポレオンのお墓として多くの観光客が訪れています。
1789年7月14日、群衆たちは武器を求めてアンヴァリッドに向かい、 32,000の銃と27の大砲を略奪し、バスティーユを襲撃し陥落させたのです。 この日から革命は過激化します。 |
1789年7月14日、バスティーユが群衆によって陥落し、革命が始まりますが、その襲撃に必要な武器の多くはアンヴァリッドから略奪したもの。
革命で旧体制が崩壊。共和国になったフランスでしたが、ナポレオンが登場しまたたく間に皇帝を宣言、第一帝政時代を迎えます。
皇帝ナポレオンは1818年2月11日、傷痍軍人をお見舞いするために アンヴァリッドに向かいました。 |
セント・ヘレナ島のナポレオンのお墓。 |
セント・ヘレナ島の総督、イギリス人のハドソン・ローの非人情な仕打ちで、かつてのフランス皇帝ナポレオンは、墓標すらない墓に葬られました。
部下ベルトランと散策しているときに訪れたゼラニュームの谷が気に入り、
「この島で世を去ることになったら、ここに葬って欲しい」と語った地に葬られたことは幸いなことでした。
けれども、彼の母レティシアが「息子の亡骸を、この腕の中に抱きたいのです」と、イギリス政府に再三願ったにもかかわらず、フランスに戻ることも許されず年月が経ちました。
「余がかくも愛したフランス国民に囲まれて、セーヌ川のほとりに憩うことを願う」という、かの有名な遺言が実施されたのは1840年12月15日。
1840年10月15日、 セント・ヘレナ島に到着したフランスの代表によって ナポレオンの棺が開けられました。 偉大な皇帝を目の前にし誰もが感動の渦に巻かれた瞬間です。 |
夜更けにフランス船に移されたナポレオンは、 一路フランスへと向います。 |
自ら建築を命じた凱旋門でしたが、 その完成を見ずに流刑されたナポレオンは、 今、無言でその下をくぐります。 |
皇帝にふさわしい盛大な葬儀がアンヴァリッドで催され、 ナポレオンは遺言通りに セーヌ川のほとり、フランス国民が見守る中に安住の地を見出しました。 |
それから100年後の同じ日の早朝、アンヴァリッドで低い太鼓の音が響きました。ナポレオンが最期まで思いを馳せていた息子ローマ王の遺骸が、ウィーンからパリに戻り、敬愛していた父と同じアンヴァリッドのドームの下に葬られたのです。
父が待つアンヴァリッドに葬られたローマ王。 21歳の若さで、 オーストリアの人質になったまま世を去りました。 |
ローマ王はナポレオンとオーストリア大皇女マリー・ルイーズの間に生まれ、ナポレオン失脚に伴い故郷に戻った母に育てられ、そこで21歳の若い生涯を閉じ、ハプスブルク家の墓地に埋葬されていました。
このようにアンヴァリッドは、ナポレオン崇拝者にとって欠かせないモニュメントです。
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