ロベスピエール(9号線)
フランス革命の旗頭だった革命家の名です。
マクシミリアン・ド・ロベスピエール (1758-1794) |
フランス北部にあるアルトワ州アラスで代々弁護士だった家に長男として生まれたマクシミリアン・ド・ロベスピエールは、わずか6歳のときに母を亡くします。父はさっさと子供たちを残して疾走し、子供たちは母方の祖父に引き取られて育ちました。
頭脳明晰なロベスピエールはアラスで学んだ後、フランスでもっとも優秀な高校と評判のパリのルイ・ル・グランに入学。その後は弁護士を目指して大学で法律を学びます。
故郷に戻った彼は弁護士として活躍し、1789年、革命が起きた年にアルトワ州から三部会の第三身分議員として立候補し、当選。30歳でした。
ジャコバン派の本拠が置かれていたジャコバン修道院。 現在、マルシェ・サン・トノレになっている場所にありましたが、 後年に取り壊されました。 マルシェ・サン・トノレの入り口に その歴史を語るプレートがあります。 |
ジャコバンの3巨頭。 左からロベスピエール、ダントン、マラー。 ダントンはロベスピエールによって断頭台に送られ、 マラーはシャルロット・コルデーに暗殺されます。 |
公正な国を自分たちの手でつくろうと意気込む急進派の人々が集まって、ジャコバン修道院でジャコバン・クラブを結成したのは1789年11月。そのメンバーに当初からなっていたロベスピエールは、目立って頭角を現し、またたく間に代表的存在になります。
ジャコバン派に属していた中から、思想に違いが現れたジロンド県出身の人々が集まり、1791年10月にジロンド派を結成します。
1792年になるとジャコバン派を母体とする山岳派が生まれます。その中心となったのはロベスピエールで、もっとも急進的な派でした。国民公会で一番高いところに議席を持っていたことから山岳派と名付けられました。
穏健なジロンド派と過激な山岳派は日を追って対立します。革命が進み国王の運命を決定する際に、処刑を唱えたのは山岳派でジロンド派は反対します。
日に日に山岳派が首都で勢力を増し、それに押されてジロンド派は地方に分散していきました。けれども山岳派の内部でも、過激な思想を持つ人とある程度穏健な考えを持つ人の間で分裂が起き、昨日までの同士たちを次々に処刑場に追いやる恐怖時代が始まったのです。
パリ市長舎内で起きたテルミドールのクーデター。 反対派に激しく攻撃され、 もはやこれまでと思ったロベスピエールは自殺を試みます。 けれども顎を砕いただけで逮捕され、 傷ついたままコンコルド広場に連行され処刑されます。 |
傷を負ったまま処刑場に連行される ロベスピエールと同士たち。 |
ロベスピエールと同士たちが処刑された日に、 ジャコバン派本部が置かれていた修道院が閉鎖されました。 |
実権を握っていたのはロベスピエールで、彼の指揮のもとに独裁政治が続き、それを倒すために、1794年7月27日、バラスとタリアンが率先してフランス革命歴テルミドール9日にクーデターを起こします。ロベスピエールとその腹心の仲間も捕らえられ、処刑され、1789年から続いたフランス革命は終焉を迎えたのです。
小ロベスピエールと呼ばれていた オーギュスタン・ド・ロベスピエール。 |
革命後の混乱の中から突如現れたナポレオンによって、フランスはヨーロッパを脅かす大国になっていきます。一時期ロベスピエールの弟オーギュスタンと親しかったために、ナポレオンも逮捕されましたが、すぐに釈放されています。兄と運命を共にすることを望んでいたオーギュスタンは、自分から進んで捕らえられ31歳で処刑されています。ナポレオンの軍人としての才能を最初に見出した人物はオーギュスタンです。
ロベスピエールは結婚しなかったし、子供も持たなかったので直径子孫はいません。彼が処刑される日まで暮らしていたアパルトマンはサン・トノレ通り398番地にあり、現在1階は華やかなブティックになっていますが、外壁にプレートがはめ込まれています。
ロベスピエールが1791年7月17日から 1794年7月28日までここに暮らしていたと サン・トノレ通り398番地のアパルトマンの外壁に書いてあります。 |
革命家モーリス・デュプレイはこの建物のオーナーで、 ロベスピエールの他数人に貸していました。 ロベスピエールの部屋は左に見える小さな噴水の真上で、 ベッドにはデュプレイ夫人の服から作った 花柄のベッドカバーがかけてありました。 素朴な机と麦わらの椅子が4脚あったとの記録があります。 |
このアパルトマンの中庭に面した2階の一室に、ロベスピエールはマリー・アントワネットが死刑寸前に書いた遺書を隠し持っていたのです。その部屋は彼が信頼を寄せていた革命家、モーリス・デュプレイから借りていました。
ロベスピエールが隠し持っていたマリー・アントワネットの遺書。 23 cm x 19 cmの紙で、遺書は二つに折られていました。 |
王妃は死刑判決を受けた後、陰惨な牢屋に戻り看守に紙とペンを要求し、2本のキャンドルの弱々しい灯りの中で、子供たちと共にタンプル塔に幽閉されていたルイ16世の妹に宛てて最期の言葉を綴ります。
けれども彼女の遺書は義理の妹の手に渡らず、ロベスピエールが没収し秘かに自分のアパルトマンに保管していたのです。それが発見されたのはロベスピエール処刑後で、政府が議員クルトワに命じて彼のサン・トノレ通りの家宅捜査をさせたときです。
おびただしい数の書類の他にクルトワは、マリー・アントワネットの遺書と髪の毛も見つけます。その髪の毛は王妃が遺書を書き終えた後、看守から借りたハサミで自ら切って子供たちに形見をとして渡してほしいと頼んだのでした。
クルトワはロベスピエール宅で見つけた書類を記録し政府に提出しましたが、マリー・アントワネットの遺書と髪の毛は、ロベスピエールと同じように自宅に隠していました。それから22年後、クルトワの妻が病に倒れ息を引き取る前に、夫に王妃の遺書を王家にお返しになってください、と嘆願します。当時は皇帝ナポレオンが失脚し、ルイ16の弟が王政復古で王座に就きルイ18世を名乗っていた時代です。
国王の側近に手紙を書き、長い間その存在すら知られていなかったマリー・アントワネットの遺書は、このときやっと明るみに出され世界が知ることになったのです。
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