2019年5月29日

メトロの駅名は語る 125

Duroc
デュロック(10、13号線)

ナポレオンの時代の重要な軍人の名を冠する駅名。

ジェロー(ジェラール)・クリストフ・ミッシェル・デュロック元帥
(1772-1813)

由緒ある軍人の一人息子として生まれたデュロックは、小さい頃から軍事教育を受け、日の出の勢いで昇進。ナポレオン・ボナパルトのイタリア遠征の際、スロベニアからイタリア北部に流れるイゾンツォ川で、宿敵オーストリア軍相手に功績を成したとき25歳でした。彼はこの戦いで重傷を負っていますが、ナポレオンから高く評価され、エジプト遠征に同行。ナポレオンが秘かに本国の戻る際にも傍らにいた腹心の部下でした。

ナポレオンの皇帝戴冠式の日のデュロック。

ナポレオンが、第一統領、皇帝と国の重要な地位に上るに従い、デュロックは欠かせない存在になり、皇帝の全ての戦いに参戦します。彼は「ナポレオンの影」と呼ばれていたほど常に身近にいた人だったのです。


1813年、ロシア=プロシア軍相手の「バウツェンの戦い」。

1813年5月20日に始まった、ロシア=プロシア軍相手とするドイツのバウツェンの戦いでは、フランスは兵の人数が敵に比べて少なかったにもかかわらず、勝利を得ました。けれどもその戦いでデュロックは40歳の惜しい命を落としたのです。

死の間際の腹心の部下デュロックの元に駆け付けた
皇帝ナポオレオン。
デュロックが重傷を負ったことを知ったナポレオンは、直ちに野戦ベッドに横たわる部下の元に行き、弱々しい手を取り、しばらくの間声を発することも出来ず沈黙が続きました。デュロックが息を引き取ると皇帝は自分のテントに入り、その夜は誰とも口をきかなかったと記録されています。

それから2年後の1815年、連合軍との戦いに敗れ、失脚したナポレオンは別荘マルメゾンからロシュフォール港に向いました。彼はその時から忘れがたい部下デュロックの名で暮らそうと思っていました。ロシュフォール港からフランス領のエクス島に着いたナポレオンは、そこから敵の艦隊の目をかすめてアメリカに亡命する計画でした。けれども行く手を遮られ、あきらめざるを得ませんでした。

状況から判断して紳士国イギリスに身柄をあずけ、ロンドンの郊外でデュロック名で余生を送るのがいいと考えますが、結局それはかなわぬ甘い夢で、大西洋の孤島セント・ヘレナ島に流刑され生涯を閉じたのです。その島まで同行した部下にナポレオンは、デュロックだけが全面的に信用出来る人だったと打ち明けています。

長年セント・ヘレナ島の粗末な墓に葬られていたナポレオンは、
長年の交渉の結果イギリスから本国帰還の許可を得て、
1840年12月15日、アンヴァリッドに移されました。
セーヌ川のほとりにという遺言通りに。

ナポオレオンの遺骸がフランスに戻り、アンヴァリッドのドームの下に葬られ後、皇帝から愛されていたデュロックも同じアンヴァリッドに移され、今でも片時も離れることなく見守っています。「ナポレオンの影」と称されていた彼にふさわしいことで、ナポオレオンもきっと喜び安心していることでしょう。