祖国を屈辱のドイツ支配から解放したい、そのためにフランス国民に語りかけたいというド・ゴールの熱い願いをかなえたのは、イギリス首相ウィンストン・チャーチルでした。自尊心の固まりで頑固なド・ゴールに、チャーチルは好感を持っていなかったようですが、フランスがドイツ支配にいることを許せず、BBC放送での呼びかけを許可したのです。それだけでなくチャーチルは、8月7日、ド・ゴールによる行政機構「自由フランス」の結成を認め、資金も調達。この資金は後年に返却しています。
BBC放送でフランスに呼びかける50歳のシャルル・ド・ゴール。 写真は呼びかけの当日ではなく、後日に撮影されたもの。 |
ド・ゴールに呼びかけを許可した 66歳のウィンストン・チャーチル首相。1940年撮影。 |
ド・ゴールの呼びかけは、戦争を停止させるために国の指導者たちが新たな政府を樹立した、という言葉で始まっています。フランス中部にあるヴィシ―で、ドイツに協力するペタン元帥を首相とするヴィシ―政権が生まれることに断固として反対していたド・ゴールは、それが正式に成立する6月22日前にフランスを離れロンドンに向かったのです。ペタンはド・ゴールの上司でした。
フランスは確かにドイツに敗北したが、それは単に武器の力の前に屈しただけであり、これですべてが終わったわけではない、とド・ゴールの言葉は続きます。
「フランスの抵抗の炎は消えてはならない、消えることもない」
自国民に訴えるド・ゴールの祖国愛は、やがて国内に対独レジスタンス運動を起こさせ、組織化され、後年、連合軍の大規模な協力を得て各地で激戦を繰り広げ、その結果ドイツを降伏させフランスに自由が戻ったのです。
「自由フランス」の事務所でのド・ゴール。 |
今年はその呼びかけから80年記念の年。コロナウイルスのために入国から2週間の隔離の義務がある両国ですが、この記念すべき日にマクロン大統領は、ロンドンに向かい、チャールズ王太子夫妻に迎られ、市内にあるド・ゴールの銅像に献花しました。
1939年9月第二次世界大戦が勃発し、わずか半年後の1940年5月からドイツのフランス侵攻がはじまりました。早くも6月15日にはパリが占領され、17日、ド・ゴールはロンドンに亡命し、18日、フランス国民にレジスタンスを呼びかけたのです。ド・ゴールの敏速な行動、ロンドンからの呼びかけがなかったら、フランス国民が一致団結したあの壮烈なレジスタンス運動は起きなかったかもしれない。6月18日は忘れえぬ日、忘れてはならない日なのです。
モン・ヴァレリアンの記念碑。 |
ロンドンに発つ前にマクロン大統領は、パリ近郊にあるモン・ヴァレリアンでのセレモニ―に出席。ただコロナウイルスの問題があるので、限られた人だけが式典に参加。この地には要塞がありましたが、ドイツに占拠され多くのレジスタンスの英雄がナチス・ドイツによって処刑されました。後年ド・ゴールが大統領になったときに、そうした人々に捧げる記念碑を建てさせたのです。
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