2023年11月8日

マリー・アントワネット自叙伝 12

退屈な毎日

フランスで最初に描かれた肖像画。
宮廷画家ジョゼフ=シフレッド・デュプレシの作品で、
アメリカドル紙幣のベンジャミン・フランクリンの肖像画も手掛けた画家。

 祭典に明け暮れしていた日々があっという間に終わり、本格的に皇太子妃の生活が始まりました。オーストリアでは家族愛にあふれるお母さまのお蔭で、暖かい雰囲気に包まれ自由な日々を送っていたのに、嫁ぎ先のフランス宮廷の規則のうるさいこと。想像以上でした。

私はたった14歳。それなのに、オーストリア人の女官はひとりもいないで、フランス人だけ。しかも、皆、私よりはるかに年上。話も趣味も合うわけがないのです。


特に私の女官長に選ばれたノアイユ伯爵夫人は、26歳も年上で、長年ルイ15世のお妃マー・レクザンスカさまの女官を務めていらした高位の貴族夫人。そうした女官長が、外国からお嫁入りした若く未熟な私に、フランス宮廷のしきたりを一刻も早く教えようと、朝から晩まであれこれあれこれうるさいのです。

あまりにも礼儀礼儀とやかましいノアイユ伯爵夫人を、「マダム・エティケット」と名付けたほどでした。我ながら、いいあだ名を考えついたものです。


着るものにも口を出し、体をしめつけるコルセット着用を義務づけるのです。

「これは、フランスの古くからの伝統なのですからお守り下さい」

ですって。

流行遅れの古めかしい服にも不満があったけれど、一応それは我慢し、コルセットは何回か言い争って最終的に私の勝ち。やっといくらか体の解放感を味わえました。このような女官長がずっと傍にいたら、窒息してしまう。王妃になったらすぐに、ノアイユ伯爵夫人を辞めさせようと心で強く誓っていました。


女官長ノアイユ伯爵夫人。
26歳も年上の古い頭の持ち主。


窮屈でちっとも面白くない皇太子妃の一日は、朝9時か10時の起床に始まります。着替えをし、朝のお祈りを捧げ、朝食をいただきます。といってもココアかコーヒーと、クロワッサンに似たパンだけ。


オーストリアでは毎朝このパンをいただいていました。それは17世紀のウィーンで作られたパンで、トルコとの戦いに勝利を得て、その記念にトルコ国旗の三日月形をヒントにしたと言い伝えられています。「小さい角」という意味のパンが起源だとも言われています。


どちらにしても、クロワッサンは私がお嫁入りのときにフランスに持ってきて、それがずっと現代まで続いているのですから、フランス食文化に貢献しているのです。それなのに、そのことはあまり知られていないし、感謝されていないのは不満です。


シンプルな朝食の後、国王の王女さまたちのお部屋に行ってご挨拶し、その後、王家の人々と揃って礼拝堂に行きミサを受けます。


昼食は皇太子さまとふたりでいただいていました。いつまでたっても私に興味を示さない夫との会話もほとんどなく、退屈で仕方ないひとときでした。2人の間に会話がなかっただけでなく、皇太子さまは妻の顔をまともに見ることもなかたったのです。たまに目が合うと、緊張しているのか、まばたきばかり。彼は極度の近視なので、私の顔がよく見えなかったのかもしれません。


午後のひとときを叔母さまたちと過ごした後は、クラヴサンや歌のレッスンです。音楽はシェーンブルン城で腕を磨いていたので得意です。ですからこのレッスンは楽しくて仕方ありませんでした。


お夕食まではお散歩やゲームの時間です。国王一家とのお食事と団欒を終えて、ベッドに入るのは結構遅く夜11時ころでした。そのために朝起きるのが遅いのです。こうした変化がない日々が続いていたのです。


お母さまは私の行動を些細なことも含めて全部知ってました。私がお手紙で知らせることもありましたが、それ以上に、お母さまから頼まれて、私の監視役として滞在していた駐仏オーストリア大使メルシー伯爵が、事細かに報告していたのです。


お父さまの故郷、ロレーヌ地方の貴族の家に生まれたメルシー伯爵は、トリノやサンクトペテルブルクの大使を務め、私がお嫁入りする4年ほど前から駐仏大使の職にあった人で、お母さまに徹底的に忠実でした。フランス皇太子さまと私の結婚をまとめるために、ひと役かったのはメルシー伯爵でした。ですから結婚後、私の行動のすべてに目を光らせていたのも、今考えると無理もないことです。両国に対して責任があるのですから。


駐仏オーストリア大使のメルシー伯爵。

このようにノアイユ伯爵夫人とメルシー伯爵に一部始終監視され、注意ばかり受けている新婚時代は、バラ色からほど遠いものでした。