ルドルフ皇太子 |
第一次世界大戦が始まるまで、オーストリア=ハンガリー帝国を治めていたハプスブルク家。その皇太子ルドルフの悲劇的最期は、「うたかたの恋」と題して映画や宝塚で感動を呼びました。
フランツ・ヨーゼフ皇帝とその妃、通称シシーの間に生まれた唯一の王子ルドルフは、メランコリックな瞳とほっそりとした長身の気品ある青年だった。
自由主義者であり理想主義者だった彼は、帝国維持に固守する父と意見が合わず、何度も衝突を繰り返していたのです。
ルドルフには妃がいました。が、彼を見かけた男爵令嬢マリー・ヴェッツェラがひと目ぼれし、皇太子と親しくなるために様々な工作をし彼の愛人となる。
マリー・ヴェッツェラ |
もともとデリケートなルドルフは次第に帝国の将来に不安を抱き、父との激突にも耐えられなくなり、マリーに心中したいと打ち明ける。
情熱のすべてを捧げていた皇太子の願い。マリーはおそらくその申し出を喜んで受けたに違いない。彼女は母宛に遺書を書く。
その遺書がオーストリアの首都ウィーンの銀行で見つかったのだ。
オーストリア国立図書館の8月上旬の発表によると、1926年から銀行に預けられていた書類入れの引き取り手が長年連絡してこないので、開けて中を調べたところ、この遺書が発見されたのだという。
悲劇があったマイヤーリンクの館。 ルドルフの父の命令で直ちに取り壊され、 カルメル派の修道院と教会が 建築された。多くの遺品が展示されている。 |
マリーが書いたその遺書は、実は、以前すでに内容が公になっている。
2013年に講談社+α文庫で出版していただいた私の本、「最期の日のマリー・アントワネット ハプスブルク家の連続悲劇」に、それに関して詳しく書いています。
この本を準備していたときの参考資料に、それが記載されていたからです。
二人の暗殺説もあったけれど、いろいろな資料から心中だと判断して、そのように書いたので、今回、彼女直筆の遺書が見つかって、
やはりそうだったのかと感慨が一層深まります。
木立の中のマイヤーリンクの館。 左後は悲劇が起きた当時のままの 貴重な一角。 |
いったん明らかにされた遺書は、その後書類入れに入れられ銀行に保管されていたということになる。
それはマリーの家族の依頼だったのだろうか。
その点は発表されていないが、ミステリーとされていた歴史上の悲劇に関する書類が見つかったことは重要だ。
さらに詳しく知りたい人は、上記の私の本を参考にしてください。皇太子とマリーが最後のひとときを過ごしたマイヤーリンクの館も訪問して、しっかり調べて書いた本です。今このようにブログに書いていると、あのときの感動が蘇って再度行きたくなってしまう。
歴史はやはり面白い。