国王夫妻と二人の子供たち。 |
その庭を、シモンに連れられて王子が時々散歩していたのです。会うことができない我が子の姿を、一瞬でもいいから見たい。そのために王妃は、いつ現れるか分からない王子を見逃したくないと、朝からじっと佇んでいたのです。明り取り窓から身動きすらしない王妃は、名のないひとりの哀れな母でした。
タンプル塔から コンシエルジュリーに移される王妃。 |
王妃はタンプル塔から、「死の控え室」と恐れられていた、コンシエルジュリーに移されることになったのです。
パリ発祥地のシテ島に10世紀に建築された宮殿が、宮廷の移動に伴い、最高法院が置かれることになったのは14世紀。
王宮管理者であるコンシエルジュが控えていたコンシエルジュリーは、それ以後、最高法院の管理者が詰めるようになります。その一部が監獄となり、主に重要な政治犯が捕らえられていました。革命のときには多くの人がここに収容され、処刑場へと連行されていたのです。
76日間王妃のお世話をした ロザリー。 |
しっかりした足取りで迎えの馬車に乗り、コンシエルジュリーへと向った彼女は、その時点ですでに自分の運命を悟っていたに違いありません。
独房に入れられた王妃の世話は、25歳のロザリー・ラモルリエールが最期の日まで行っていました。
靴屋の娘として生まれたロザリーは、コンシエルジュリー看守長リシャール夫妻に1年前から雇われていたのです。
牢屋の壁布の糸を使用して 王妃が作ったタペストリーと、 その上は壁布の切れ端。 |
タンプル塔から何の前触れもなく、強引にコンシエルジュリーに入れられたマリー・アントワネットは、看守長リシャールによって280番目の囚人として記録されました。
彼女の牢屋は3,5平方メートルの小さな部屋でした。それを屏風で二つに区切り、片側ではふたりの看守が24時間監視していたのです。
時折、ほころびている壁布から糸を作り、それを使って刺繡をすることもあったし、指輪を手の中で転がして、時間をつぶすこともありました。与えられた本に目を通すこともありました。けれども、窓の外に見える中庭に出ることは禁止されていました。
彼女は一日中牢屋に閉じ込められていたのでした。