ブローニュ=ジャン・ジョレス(10号線)
パリ西側のブローニュの森及び近くの町ブローニュ=ビヤンクールと、政治家であり社会主義者ジャン・ジョレスの名を冠した駅名。
ブローニュの名は、1308年、フィリップ4世国王の王女イザベルが、英仏海峡に面したブローニュ=シュール=メールの聖堂で、イギリス国王エドワード2世と結婚式をあげたのがきっかけになっています。
1326 年、後にイギリス国王エドワード3世になる息子と、 フランス滞在後イギリスに戻るフィリップ4世の娘イザベル。 |
その聖堂には聖母マリアが幼子キリストを抱く像がまつられていて、重要な巡礼地になっていたのです。伝承によるとその像は、633(636?)年に住民が小さな礼拝堂で祈りをあげていると、聖母マリアが出現し、浜辺に打ち上げられた小舟の中に母子像があるので,それをまつる教会を建築してほしいと伝えます。
約1メートルの木製の聖母子像のための教会が完成すると、人々が巡礼の旅をするようになります。数人に奇跡が起きると遠方からの巡礼者も増えるようになり、寄付金が増え立派な聖堂になり、歴代のフランス国王も訪れるようになったのです。
娘の結婚式をブローニュ=シュール=メールの聖堂で行ったフィリップ4世は、巡礼のために遠方まで行けない人のために、パリ近郊にブローニュ=シュール=メールの聖母マリアに捧げる教会を建築させます。その教会を中心として町が形成されブローニュ=ビヤンクールとなったのです。
16世紀のノートル・ダム・ド・ブローニュ。 |
ブローニュ=シュール=メールの聖母子像は革命の際に焼かれ、残念なことに今は残っていません。けれどもブローニュ=ビヤンクールのノートルダム教会に、伝承に従って製作された聖母子像があります。小舟の上でキリストを抱く聖母マリアが描かれていて、天使が見守っています。7世紀に村人たちが波打ち際で見つけたときには、その像の周りに眩しいほどの光があったとされています。そう思いながら像を見ると格別な輝きがそこから漂っているように思えます。
小舟の上の聖母子像。 7世紀にブローニュ=シュール=メールで見つけた像は木製でしたが、 ブローニュ=ビヤンクールのノートルダム教会のは輝くばかりの銀製です。 |
一方、政治家であり社会主義者のジャン・ジョレスは、社会党形成に欠かせない重要な人物でした。
ジャン・ジョレス(1859-1914) |
哲学を専攻し哲学教授を務めていた時代もありましたが、その後社会主義者となり、議員に立候補。1905年、社会党が結成されるとジョレスが創刊した「リュマニテ」誌が党の機関紙になります。
ジョレスは第一次世界大戦にフランスが参戦するのを猛烈に反対し、熱烈な愛国者の怒りをかい、パリ中心にあるカフェで暗殺されます。1914年7月31日21時40分のことで、戦争に参加するフランスが総動員に踏み切る前日でした。
ジャン・ジョレス暗殺の場面を描いたデッサン。 |
事件を聞いて多くの人がっ現場に集まりました。 ジョレスは右手に見える救急車で病院に運ばれます。 |
ジャン・ジョレスが暗殺された モンマルトル通りのカフェ・デュ・クロワッサンに、 記念碑があります。 |
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