2020年6月26日

メトロの駅名は語る 152

Vaugirard
ヴォジラール(12号線)

ヴォジラール通りがこの駅名の起源。

パリ西南の郊外にあった小さな村に、サン・ジェルマン・デ・プレ教会の神父ジラール・ド・モレが聖職者の館を建築させ、村はヴァル・ド・ジラール(ジラールの谷)と呼ばれるようになりました。それが時と共に変化しヴォジラールとなります。
13世紀のことでした。ヴォジラール村はその後パリ15区に仲間入りし、かつての村の主要な道路はヴォジラール通りとなり、現在はパリ15区から6区まで延びるパリ最長の道路で、4360メートルもの長さがあります。

ヴォジラールには広大な石灰石の採掘所があり、パリの多くの建造物に役立った他、レンガや粘土でも名を成していました。農業が盛んなのどかな村だったルイ14世の時代に、国王は愛妾モンテスパンとの間に生まれた子供たちの養育をスカロン夫人に任せ、ヴォジラール村の館に暮らさせていたこともあります。
パリでもっとも長いヴォジラール通りは様々な歴史を刻んでいますが、今でも残っている興味深い建物をいくつかご紹介します。

現在上院が置かれているリュクサンブール宮殿。

ブルボン朝を築いた国王アンリ4世の二番目の妃として迎えられたマリ―・ド・メディシスが、17世紀に建築させた宮殿は、リュクサンブール公爵の屋敷跡に造られたために、その公爵の名を冠してリュクサンブール宮殿と呼ばれるようになります。1778年に国王ルイ16世が弟プロヴァンス伯に贈与。彼はそこに暮らしていましたが、革命の際に妃と愛人を伴って国外逃亡をはかり、宮殿は没収され国が所有者となり、1793年には監獄として使用されていました。プロヴァンス伯は兄ルイ16世一家と同じ日に逃亡をはかり、悪運強い彼は逃亡に成功し、後年の王政復古で王座につきルイ18世を名乗ります。

アール・ヌーヴォーの外観が見事。

95番地にはアール・ヌーヴォ―の傑作があります。1891年にフェルディナン・グレーズが建築した建物で、ガラス、陶器、金属を使用した優美な出窓が円柱のように連なり、パリの石灰石の整然とした街並みに、アーティスティックな趣を与えています。

17世紀に建築されたサン・ジョゼフ・デ・カルム教会
かつてのカルム修道院は、このように広大な敷地内にありました。
右上にヴォジラール通りの文字が見えます。

革命時に悲劇の舞台となったカルム監獄は、広大な修道院内にありました。現在サン・ジョゼフ・デ・カルム教会がある70番地です。革命で多くの聖職者や貴族が捕らえられ、監獄が不足してきたために臨時の監獄を修道院内に設けたのです。1792年9月、数カ所の監獄で民衆たちによる虐殺が行われ、カルム監獄でも多数の人が暴徒たちの犠牲になりました。その中にはマリー・アントワネットの女官長で王妃がもっとも信頼を寄せていたランバル公妃もいました。ナポレオンと結婚したジョゼフィーヌが捕らえられていたこともあります。彼女は最初ボーアルネ子爵と結婚していたために、貴族夫人ということで捕らえられたのです。後にコンシエルジュリーに移され、処刑も覚悟していたのですが、危ういところで革命が終り、命拾いしナポレオンと再婚した幸運の女性でした。

ノートル・ダム・デ・ザンジュ礼拝堂
歴史的建造物に認定されています。

102 bis にあるノートル・ダム・デ・ザンジュ礼拝堂は、1863年に建築されたネオゴシック様式。外観は普通の建物のようで、そこが祈りの場だとは思えないほどシンプル。けれども一歩中に入ると、聖母マリアさまに捧げられた37枚の美しいステンドグラスに圧倒されます。

2020年6月24日

公園の主は

マロニエが早くも実をつけながら、豊かな葉を風になびかせている公園。ゆったりと散策する人もジョギングや気功をする人も増えてきましたが、注目の的はなんといっても雑草退治に一役かっているヤギさん。先日は子供の黒ヤギちゃんをご紹介しましたが、今回は立派な角の親ヤギさん。声をかけたら、じわじわと近づいてきてじっと私の顔を見る。きっと性格がいいかとか、仲良しになるのに値する人かなどと観察していたのにちがいない。

立派な角のヤギさん。
ボンジュールと声をかけたら、うれしそうな顔になった気がしたけれど・・・

池の中やほとりで幸福感を味わうカモさんたち。

マスク、サングラス、帽子で正体不明。
また来るからねと声をかけて、お仕事の邪魔にならないように公園の中程にある池に向かう。前回はカモさんが少なかったのでちょっと心配したけれど、何と集団でゆうゆうと泳いだり芝生の上で日光浴を楽しんでいる。コロナで公園が閉まっている間は、どこかに避難していて、再オープンした直後は用心のためか、少数しか見かけなかった。ところが安心感が戻ったのかこの日はコロナ以前と同じのにぎわい。よかったよかった。本当によかった。ヤギさんとカモさんがいないなんてパリの公園にふさわしくない。マスクは外せないけれど、たくさんの元気をもらいました。

2020年6月23日

メトロの駅名は語る 151

Volontaires
ヴォロンテール(12号線)

近くのヴォロンテール通りが駅名の源。この道路をつくるために、近辺に住む住人たちがボランティアで働いたためにヴォロンテール(フランス語でボランティア活動のこと)と名付けられました。

ヴォロンテール通り37番地にサン・ジャック病院があり、その前で第一次世界大戦の英雄ポール・メストルの立派な葬儀が行われました。いくつもの輝かしい勲章を授与されたメストル将軍は、この病院で生涯を閉じたのです。

ポール・メストル将軍(1858-1922)

1922年7月27日、ヴォロンテール通り37番地の
サン・ジャック病院前で執り行われたメストル将軍の葬儀。

サン・ジャック病院の創立を思い立ったのは、新しい治療方法ホメオパシ―に情熱を捧げる医者たちでした。誰もが持っている自然治癒力に働きかけるこの治療方法は、19世紀後半から注目されるようになったのです。

当初、病院はサン・ジャック通りにあったのですが、1884年、ヴォロンテール通り37番地に移り、現在はホメオパシ―専門ではなく総合病院になっています。

2020年6月21日

パリの犬たち 234

歩く場所が少なくて不便だワン。

裏通りを優雅にお散歩しているボクたち。
ママンはボクに合わせてツートンカラー。
ママ友は〇〇ちゃんに合わせて白いコート。

人もいないしゆったりと歩いていたら、
ナンと右も左も、歩道と車道にイスやテーブルがいっぱい並んでいる。
   
歩ける場所が少なくて、すごく不満だワン。
しかも時々車も通るし・・・危ないよ~~
ママンに聞いたら
コロナでレストランの中にたくさんの人が入れないから、
9月末まで歩道も車道も使っていいことにしているんだって。
それじゃしかたないね。寛大なボクは直ぐに納得。

2020年6月19日

80年前の呼びかけ

第二次世界大戦初期の1940年6月18日、当時ほとんど無名だったシャルル・ド・ゴール将軍が、亡命先のロンドンでBBC放送を通してフランス国民に立ち上がるようにと呼びかけました。フランスはほとんど戦わずにドイツに敗れ、降伏し、その支配下にあったのです。

祖国を屈辱のドイツ支配から解放したい、そのためにフランス国民に語りかけたいというド・ゴールの熱い願いをかなえたのは、イギリス首相ウィンストン・チャーチルでした。自尊心の固まりで頑固なド・ゴールに、チャーチルは好感を持っていなかったようですが、フランスがドイツ支配にいることを許せず、BBC放送での呼びかけを許可したのです。それだけでなくチャーチルは、8月7日、ド・ゴールによる行政機構「自由フランス」の結成を認め、資金も調達。この資金は後年に返却しています。

BBC放送でフランスに呼びかける50歳のシャルル・ド・ゴール。
写真は呼びかけの当日ではなく、後日に撮影されたもの。

ド・ゴールに呼びかけを許可した
66歳のウィンストン・チャーチル首相。1940年撮影。

ド・ゴールの呼びかけは、戦争を停止させるために国の指導者たちが新たな政府を樹立した、という言葉で始まっています。フランス中部にあるヴィシ―で、ドイツに協力するペタン元帥を首相とするヴィシ―政権が生まれることに断固として反対していたド・ゴールは、それが正式に成立する6月22日前にフランスを離れロンドンに向かったのです。ペタンはド・ゴールの上司でした。

フランスは確かにドイツに敗北したが、それは単に武器の力の前に屈しただけであり、これですべてが終わったわけではない、とド・ゴールの言葉は続きます。
「フランスの抵抗の炎は消えてはならない、消えることもない」
自国民に訴えるド・ゴールの祖国愛は、やがて国内に対独レジスタンス運動を起こさせ、組織化され、後年、連合軍の大規模な協力を得て各地で激戦を繰り広げ、その結果ドイツを降伏させフランスに自由が戻ったのです。

「自由フランス」の事務所でのド・ゴール。

今年はその呼びかけから80年記念の年。コロナウイルスのために入国から2週間の隔離の義務がある両国ですが、この記念すべき日にマクロン大統領は、ロンドンに向かい、チャールズ王太子夫妻に迎られ、市内にあるド・ゴールの銅像に献花しました。

1939年9月第二次世界大戦が勃発し、わずか半年後の1940年5月からドイツのフランス侵攻がはじまりました。早くも6月15日にはパリが占領され、17日、ド・ゴールはロンドンに亡命し、18日、フランス国民にレジスタンスを呼びかけたのです。ド・ゴールの敏速な行動、ロンドンからの呼びかけがなかったら、フランス国民が一致団結したあの壮烈なレジスタンス運動は起きなかったかもしれない。6月18日は忘れえぬ日、忘れてはならない日なのです。

モン・ヴァレリアンの記念碑。

ロンドンに発つ前にマクロン大統領は、パリ近郊にあるモン・ヴァレリアンでのセレモニ―に出席。ただコロナウイルスの問題があるので、限られた人だけが式典に参加。この地には要塞がありましたが、ドイツに占拠され多くのレジスタンスの英雄がナチス・ドイツによって処刑されました。後年ド・ゴールが大統領になったときに、そうした人々に捧げる記念碑を建てさせたのです。

2020年6月15日

ヤギさんに会いに公園に

今日は絶対にヤギさんがいる、と自分で勝手に決めて公園に行ったら・・・
私のお願いが届いたのか、ちゃんといつもの場所にいるではないですか。もう大感激。黒い小さいヤギさんでチョーかわいい。除草はあまり興味がないようだけれど、そこにいるだけでいい。

かわいい黒ヤギちゃん。
突然おおきなワンちゃんが出現。驚いた我が黒ヤギちゃんは思わず緊張。

もっとよく見たいとワンちゃんが近づき、
恐れた我が黒ヤギちゃんは逃げる体制に入る。
それを察した賢いワンちゃんが
ボクはこんなにやさしいよ、と満面の笑みを浮かべます。
馬で巡回する警官、池でヨット遊びを楽しむ子供たち、鮮やかな色を見せる花々。以前の日々がどんどん戻っている平和なパリです。

馬で公園を見回る警官。
スマホを向けたら「ボンジュール」と言葉をかけてくれて、
やはりパリはいいなぁと思わずにいられない。
池で貸しヨットを浮かべて遊ぶ子供たち。
ちゃんとソーシャルディスタンスを守っています。
鮮やかな色とフォルムが華やかなアーティチョーク(だと思う)

2020年6月13日

歩道も車道もレストラン

カフェもレストランもテラスで営業はOKとなったパリでは、歩道だけでなく、何と車道の一部にもテーブルやいすが並べられ、皆、楽しそうにお食事。

車道に張り出したラーメン屋さん。
今やラーメンはパリジャンの日常食。
イタリアン・レストランも車道でにこやかにサーヴィス。

車道ではもちろん車が走るから、臨時レストランは柵で囲っている。これなら安心してお食事ができる。カラフルなパラソルまであって至れりつくせり。まるで避暑地にいるみたいで気分転換に最適。パリはますます車道の幅が狭くなり、パーキングも減る一方。自転車全盛時代がすぐそこに迫っている感じです。

2020年6月11日

パリのエスプリがあちらこちらに

ロックダウン解除からまだ間もないけれど、ずいぶん明るさが戻ったパリ。25日にはエッフェル塔も再オープンするし、日に日に生き生きした表情を見せています。パリならではの優れた感性が見られる光景も増えてきたので、いくつかお届けしますね。

芳しい香りはパリにぴったり。
ゲラン香水店から華やぎが飛び散ります。
レインボーは今の時期にとてもふさわしい。
心に明るさが広がります。
レインボーの中央にルイ・ヴィトンのハイジュエリ―が飾られています。

ティファニーカラーのブル―が鮮やか。
ゴージャスなハイジュエリ―が増えてきました。
おうちの中にいるディオールの子供たち。
メンズシューズの老舗ウエストン。
格別な感性が光る独創的なディスプレイ。
マスク姿にもパリのエスプリが宿っているステキなファミリー。
メトロ排気口のゾウさん。カラフルな衣装で視線をとらえます。
アメリカの女性彫刻家CAROLE FEUERMANの像が
入り口で待っているヴィラージュ・ロワイヤル。
村のようにこじんまりしたこの空間は、傘の装飾でお馴染み。
ときどき色違いの傘に変わり、そのたびに新鮮味を味わえます。

2020年6月8日

3ヵ月ぶりの公園。

夏のように暑かったり、急に気温が下がってジャケットが必要になったり、相変わらず気まぐれなパリのお天気。そうした中でうれしいニュースは、ヴェルサイユ宮殿が6月6日に再オープンしたこと。目の前が大きく開かれたような感じがします。

そういえば公園も開いたはず、と急に思い出したので探検してきました。まず驚いたのはウイークエンドなのに、あまり人がいなかったこと。きっと子供連れがたくさん来ていると思ったのに・・・

ちゃんと距離を保っているのは感心。
メリーゴーランドはご覧の通り閉まっています。
木々に囲まれた公園内のレストランはオープンしていて、
時間を気にしないで美味を楽しめます。
手入れはこれから。
好き勝手にのびているのも自然でいい。

気をつけて見るとメリーゴーランドも閉まっているし、ブランコなどがある遊び場も囲いがしてあって入れない。人が少ないのも無理もない。きっと様子を見て徐々に解放していくのでしょう。除草のお仕事に励むヤギさんは絶対にいる、と期待に胸をふくらませていたのに、姿が見えなくてガッカリ。とってもさみしい。

池の周りもゆったりしたディスタンスで椅子が置かれ、
安心感があり憩うのには最適。
マスクはどこでも着用。
ジョギングをしている人もいるから、公園内も注意しないと。
池には鴨もほとんどいないし、ハト、カラス、カモメもいない。公園がずっと閉まっていて食べ物を分けてくれる人間がいないので、自給自足のために街中にでも行ったのでしょう。花壇にはお花がほとんどないし、木の枝も伸び放題。以前の姿を取り戻すにはまだ時間がかかりそう。

でも、広々していてそこにいるだけで幸せ。また来週も行くつもり。ヤギさんがいるのを期待しながら・・・

2020年6月7日

パリの犬たち 233

離れていたいの。

「マスクをつけていないから、お散歩のとき離れていないといけないんだワン」
「そう、そういう決まりがあるの」

「でも、もうちょっと近づいてもいいと思うけれど」
「えッ、そうかしら」

「ワタシは大反対。離れていた方がすっきり。ほ~ら、これでいいの」
「顔はかわいいけれど、性格がどうもだなぁ」

2020年6月4日

メトロの駅名は語る 150

Falguière 
ファルギエール(12号線)

フランスの彫刻家であり画家のアレクサンドル・ファルギエールの名を冠する駅名。

アレクサンドル・ファルギエール。自画像。
(1831-1900)

1859年、ナポレオン3世の第二帝政時代に彫刻部門でローマ賞を獲得したファルギエールは、国内外に数点の彫刻作品が展示されているほか、画家としての才能も高く評価されています。アカデミックで品格ある作品が特徴で、パリ市内ではロダン美術館とオルセー美術館で作品を鑑賞できます。

ローマ賞の起源はルイ14世の時代にさかのぼり、絵画、彫刻、建築、版画の部門の優秀な人を選出し、イタリアのヴィラ・メディチで一定の期間学べる特権が与えられていました。後年、これに音楽部門も加わります。栄えある賞を得たファルギエールはその後ボザールで教鞭を取り、多くの優秀な生徒を世に送ります。その一人はアントワーヌ・ブールデルで、代表作「弓をひくヘラクレス」は上野の国立西洋美術館にあります。

ワシントンにあるファルギエール作の
ラファイエット将軍像。

ファルギエール作。
オルセ―美術館の踊り子。

ファルギエールと同時代の彫刻家はロダンで、このふたりの名はバルザック像を巡って盛んに語られていました。フランス文芸家協会はその創立者であるバルザックを称える像をロダンに依頼。ロダンは寝間着姿のバルザックの像を石膏で製作しましたが、文芸家協会はあまりにも侮辱的な姿だと非難し、受け取りを拒否。その代わりにファルギエールにバルザック像を頼んだのでした。

ファルギエールとロダンは友人で、この像を巡る外部の人の対決によって友情は壊されることはないと、それぞれが相手の胸像を作り、強い友情を彫刻で示したのでした。

ロダンによるファルギエール像。

ファルギエールによるロダン像。

2020年6月2日

テラス解放。飛び交う喜び。


6月2日、待ちに待ったカフェとレストランのテラスが開放され(中は6月末)、どこもかしこも人々で大にぎわいで、パリらしい雰囲気が空まで舞い上がっていました。

このレストランは本来は左側だけなのに、
向いにあるクローズしているショールーム前も活用して、
一大テラスを展開。
好天に恵まれ29度。
ヴァカンスムード満点。
この日をずっと待っていたんだよ、
と、ワンちゃんもゴキゲン。

この日は晴天で、しかも最高気温29度。こうなるとビーチにいるような軽装になりたくなる。たとえマスクをしていても、お洒落上手なパリジェンヌが薄い布地の夏服で颯爽と歩くと、まるで動く絵画のように魅力的。

ロックダウンで売れ残った服のバーゲンが目立つけれど、パリジェンヌが優先しているのは、ショッピングではなく、友人たちとテラスでおしゃべりや食事を楽しむこと。距離を保たなければならないけれど、再会の喜びはそれを大きく超えているようです。

ショッピングといえば、2ヵ月半の間身に付ける品を何も買わないでも、結構幸せに暮らせたものだから、物に関する観念が変わったみたい。私も同じ。長い間自由を束縛されていたから、それを取り戻せただけで十分。後は、親しい人とカジュアルな雰囲気のレストランでお料理を味わえればいい。経済的不安がすぐ目の前にあるようで、高級なものから離れなければならないような空気があるのも確か。そういえば、まだクローズしたままの高級宝飾店もあるし、オープンしていても人影もまばら。

狭い歩道もテラスに早変わり。

今はひたすらテラスライフを楽しみたい。