セント・ヘレナからフリゲート艦でシェルブールに到着したナポレオンは、街をあげての大歓迎を受けます。英仏海峡に飛び出た半島にあるシェルブールは、小さな港でしたが、重要な位置にあると判断したナポレオンは、大規模な工事を行わせ、要塞化させたのです。
シェルブールでナポレオンは、ラ・ベル・プール号(右))から蒸気船ノルマンディー号(左)に 移されました。 |
ナポレオンの遺骸はシェルブールでラ・ベル・プール号に別れを告げ、蒸気船ノルマンディー号に移され、ル・アーヴル港へと向かいました。そのル・アーヴル港からセーヌ川に入り、パリを目指すのです。途中から川幅が狭くなるので、ノルマンディー号よりさらに小型の蒸気船ドラード号に移り、12月14日パリ近郊のヌイイに到着。ナポレオンがアンヴァリッドに埋葬されるのは、その翌日の12月15日と決まっていました。
船をおり霊柩車に移ったナポレオンの棺。 高さ10メートル、幅5メートルの霊柩車の上には、ナポレオンの時代の輝かしい14の勝利を祝う女神像が美しい姿を見せ、16頭の馬はムラサキ色のベルベットで華やかに装いながら、 ジョアンヴィル公の後ろに続きながら霊柩車をひいていました。 |
棺の四隅は元帥と将軍が固め、ラ・ベル・プールの400人の水兵が霊柩車を取り囲みながら、ナポレオンが建築を命じた凱旋門の下をくぐり、シャンゼリゼを華々しく下り、セーヌ川を横切り、左岸のアンヴァリッドへ葬列行進は進んで行きました。
ナポレオンは建築を命じた凱旋門の完成を見ずに、セント・ヘレナに送られたのです。 12月15日、フランスに帰還したナポレオンは、「皇帝バンザイ」の声と大砲の音に包まれながら、栄光の凱旋門をくぐったのでした。 |
アンヴァリッドに着いたナポレオン。 |
アンヴァリッドに到着したナポレオンは、ミサを受けるためにドームに隣接するサン・ルイ教会に入ります。国王と軍人たちが多数出席する中で、モーツアルトのレクイエムが歌われ、祈りが捧げられました。
アンヴァリッドのサン・ルイ教会でミサがあげられました。 |
ドームの真下に葬られる予定のナポレオンでしたが、完成に長い年月が必要なために、アンヴァリッド内にある聖ジェローム礼拝堂に安置されます。現在見られる皇帝の墓が完成し、そこに移されたのは1861年4月2日で、ナポレオン3世の時代でした。
墓が完成するまでの間、 聖ジェローム礼拝堂に安置されていました。 |
ナポレオンを安置するために、 アンヴァリッドのドームの下に6メートルの深い穴を開けました。 セント・ヘレナで4重の棺に納められた皇帝は、 新たに作った長さ4メートル、幅2メートルの赤メノウの重厚な棺の中に、 4重の棺のまま葬られ、緑の花崗岩の土台の上に置かれ現在に至っています。 |
1861年4月2日、ナポレオンはドーム真下の墓に移されました。 遺骸の帰還を実現させたルイ・フィリップ国王は政変で失脚し、 埋葬に出席したのはナポレオン3世でした。 |
イギリスのヴィクトリア女王(1819-1901)とフランスのナポレオン3世(1808-1873)の間での交渉の結果、ナポレオンが1815年12月10日から1821年5月5日まで暮らしていた、セント・ヘレナのロングウッドの館と葬られた墓所を、1858年にフランスが買いとり、以後、フランスの国旗が飾られています。
1925年8月4日には、セント・ヘレナを訪問したイギリスのエドワード皇太子が、 ナポレオンが19年間葬られていた墓に行き、記念の植樹を行いました。 |
時が経ち、1925年になると、イギリスのエドワード皇太子がセント・ヘレナを訪れた際に、ナポレオンのお墓で植樹をしました。
エドワード皇太子は後に国王エドワード8世(1894-1972)になりますが、離婚歴があるアメリカ女性シンプソン夫人と結婚するために、王位を捨てウインザー公となります。公爵夫妻を暖かく迎えたのはフランスで、パリの西にあるブローニュの森の中の瀟洒な館を提供し、そこでウインザー公も夫人も生涯を閉じました。
15年ほど前にナポレオンに関する本を2冊執筆し、講談社+α文庫で出版されました。この機会に読んでいただけたらうれしいです。
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