2021年5月2日

ナポレオン没後200年 ④ アンヴァリッドへ向うナポレオン

セント・ヘレナからフリゲート艦でシェルブールに到着したナポレオンは、街をあげての大歓迎を受けます。英仏海峡に飛び出た半島にあるシェルブールは、小さな港でしたが、重要な位置にあると判断したナポレオンは、大規模な工事を行わせ、要塞化させたのです。

シェルブールでナポレオンは、ラ・ベル・プール号(右))から蒸気船ノルマンディー号(左)に
移されました。


ナポレオンの遺骸はシェルブールでラ・ベル・プール号に別れを告げ、蒸気船ノルマンディー号に移され、ル・アーヴル港へと向かいました。そのル・アーヴル港からセーヌ川に入り、パリを目指すのです。途中から川幅が狭くなるので、ノルマンディー号よりさらに小型の蒸気船ドラード号に移り、12月14日パリ近郊のヌイイに到着。ナポレオンがアンヴァリッドに埋葬されるのは、その翌日の12月15日と決まっていました。

船をおり霊柩車に移ったナポレオンの棺。
高さ10メートル、幅5メートルの霊柩車の上には、ナポレオンの時代の輝かしい14の勝利を祝う女神像が美しい姿を見せ、16頭の馬はムラサキ色のベルベットで華やかに装いながら、          ジョアンヴィル公の後ろに続きながら霊柩車をひいていました。

棺の四隅は元帥と将軍が固め、ラ・ベル・プールの400人の水兵が霊柩車を取り囲みながら、ナポレオンが建築を命じた凱旋門の下をくぐり、シャンゼリゼを華々しく下り、セーヌ川を横切り、左岸のアンヴァリッドへ葬列行進は進んで行きました。


ナポレオンは建築を命じた凱旋門の完成を見ずに、セント・ヘレナに送られたのです。
12月15日、フランスに帰還したナポレオンは、「皇帝バンザイ」の声と大砲の音に包まれながら、栄光の凱旋門をくぐったのでした。


アンヴァリッドでは、イギリスとの7年もの長い交渉の結果、かつてのフランス皇帝の祖国への帰還を実現したルイ・フィリップ国王が待ち構えていました。国王はジョアンヴィル公を先頭に近づいてくる壮麗な葬列行進が見えてくると、アンヴァリッドから数歩前に進み、出迎えました。

アンヴァリッドに着いたナポレオン。

アンヴァリッドに到着したナポレオンは、ミサを受けるためにドームに隣接するサン・ルイ教会に入ります。国王と軍人たちが多数出席する中で、モーツアルトのレクイエムが歌われ、祈りが捧げられました。

アンヴァリッドのサン・ルイ教会でミサがあげられました。

ドームの真下に葬られる予定のナポレオンでしたが、完成に長い年月が必要なために、アンヴァリッド内にある聖ジェローム礼拝堂に安置されます。現在見られる皇帝の墓が完成し、そこに移されたのは1861年4月2日で、ナポレオン3世の時代でした。

  
墓が完成するまでの間、
聖ジェローム礼拝堂に安置されていました。

ナポレオンを安置するために、
アンヴァリッドのドームの下に6メートルの深い穴を開けました。
セント・ヘレナで4重の棺に納められた皇帝は、
新たに作った長さ4メートル、幅2メートルの赤メノウの重厚な棺の中に、
4重の棺のまま葬られ、緑の花崗岩の土台の上に置かれ現在に至っています。


1861年4月2日、ナポレオンはドーム真下の墓に移されました。
遺骸の帰還を実現させたルイ・フィリップ国王は政変で失脚し、
埋葬に出席したのはナポレオン3世でした。

イギリスのヴィクトリア女王(1819-1901)とフランスのナポレオン3世(1808-1873)の間での交渉の結果、ナポレオンが1815年12月10日から1821年5月5日まで暮らしていた、セント・ヘレナのロングウッドの館と葬られた墓所を、1858年にフランスが買いとり、以後、フランスの国旗が飾られています。


1925年8月4日には、セント・ヘレナを訪問したイギリスのエドワード皇太子が、
ナポレオンが19年間葬られていた墓に行き、記念の植樹を行いました。

時が経ち、1925年になると、イギリスのエドワード皇太子がセント・ヘレナを訪れた際に、ナポレオンのお墓で植樹をしました。

エドワード皇太子は後に国王エドワード8世(1894-1972)になりますが、離婚歴があるアメリカ女性シンプソン夫人と結婚するために、王位を捨てウインザー公となります。公爵夫妻を暖かく迎えたのはフランスで、パリの西にあるブローニュの森の中の瀟洒な館を提供し、そこでウインザー公も夫人も生涯を閉じました。

                                   ★★★

15年ほど前にナポレオンに関する本を2冊執筆し、講談社+α文庫で出版されました。この機会に読んでいただけたらうれしいです。