デュ・バリー夫人との衝突
デュ・バリー夫人の怒りをかって宮廷から追放されたグラモン公爵夫人は、ルイ15世の側近で有能な大臣ショワズール公爵の妹です。オーストリアとフランスの間で長年戦いがくり返され、その最良の解決策は、両国を結婚という形で結ぶことだと提案したのはショワズール公爵だったのです。お母さまはこの進言をとても喜び、一刻も早く正式にしたいとルイ15世に催促したほどでした。末娘の私が未来のフランス王妃になるのは、ハプスブルク帝国にとって有利だったのでしょう。
有能な軍人であり、外交にも長けていたショワズール公爵 |
ですから私はショワズール公爵の根強い説得で、フランス皇太子さまに嫁ぐことになったのです。その後も慣れないフランスの宮廷生活で、いろいろお世話になっていました。
デュ・バリー夫人はもともと名のない貧しい家に私生児として生まれたそうです。子供の頃はジャンヌ・ベキュとかジャンヌ・ベキュ・ドゥ・カンティニー、あるいはジャンヌ・ゴマール・ドゥ・ヴォベルニエと呼ばれていたようです。母親の結婚相手が度々変わったからでしょうか、詳しい事情は分かりません。でも、母が裕福な人と再婚したお蔭で、きちんとした教育を受けることができ、その後洋裁店で働いている間に、稀に見る美貌のお陰で支持者と言うか、愛人をたくさん持ったのです。
ルイ15世の心をとらえたデュ・バリー夫人。 |
枢機卿であり、才知に富んだ政治家のリシュリュー公爵。 |
ショワズール公爵とリシュリュー公爵は様々なことで対立していました。私の結婚をショワズール公爵が薦めたときにも、リシュリュー公爵は反対したのです。グラモン夫人追放の件があってから、ショワズール公爵は今まで以上にデュ・バリー夫人を毛嫌いし、それを彼女はまたまた国王に言いつけました。でも、ショワズール公爵は誰もが認める有能な外務大臣。いくら愛妾が何とかしてと甘い声で頼んでも、簡単に免職するわけにはいきません。
そうしている間に、国王に好都合なことが起きました。ある日ショワズール公爵は、スペインと力を合わせてイギリスを打倒するために戦いを挑むべきだと進言します。それはルイ15世の意向にそぐわず、意見が大きく別れます。それを口実として、国王はショワズール公爵を免職し、ヴェルサイユ宮殿から遠ざかる命令を出したのでした。
「ほらご覧なさい、私たちが言っていたように、あの女性は危険なのです。一刻も早く何とかしなければならないのです」
と大合唱。私の対抗心は一挙に燃え上がりました。