2023年12月26日

マリー・アントワネット自叙伝 15

 デュ・バリー夫人との衝突

デュ・バリー夫人の怒りをかって宮廷から追放されたグラモン公爵夫人は、ルイ15世の側近で有能な大臣ショワズール公爵の妹です。
 
オーストリアとフランスの間で長年戦いがくり返され、その最良の解決策は、両国を結婚という形で結ぶことだと提案したのはショワズール公爵だったのです。お母さまはこの進言をとても喜び、一刻も早く正式にしたいとルイ15世に催促したほどでした。末娘の私が未来のフランス王妃になるのは、ハプスブルク帝国にとって有利だったのでしょう。
有能な軍人であり、外交にも長けていたショワズール公爵

ですから私はショワズール公爵の根強い説得で、フランス皇太子さまに嫁ぐことになったのです。その後も慣れないフランスの宮廷生活で、いろいろお世話になっていました。
その内、グラマン公爵夫人追放事件が起き、原因がデュ・バリー夫人にあるとわかると、ショワズール公爵はデュ・バリー夫人に対して、はっきりと軽蔑と嫌悪の態度を示すようになったのです。

デュ・バリー夫人はもともと名のない貧しい家に私生児として生まれたそうです。子供の頃はジャンヌ・ベキュとかジャンヌ・ベキュ・ドゥ・カンティニー、あるいはジャンヌ・ゴマール・ドゥ・ヴォベルニエと呼ばれていたようです。母親の結婚相手が度々変わったからでしょうか、詳しい事情は分かりません。でも、母が裕福な人と再婚したお蔭で、きちんとした教育を受けることができ、その後洋裁店で働いている間に、稀に見る美貌のお陰で支持者と言うか、愛人をたくさん持ったのです。
その中のひとりの貴族、貪欲なジャン=バティスト・デュ・バリーは、長年連れ添った愛妾ポンパドゥール夫人を亡くした国王に、新たに公式愛妾を薦めようと悪だくみを働きます。もちろん、地位と莫大な報酬が目的です。そして選んだのは、自分の愛人のジャンヌだったのです。
国王の公式愛妾になるためには貴族の称号が必要でした。その称号を得るために、ジャン=バティスト・デュ・バリーは独身だった彼の弟、ギヨーム・デュ・バリー伯爵とジャンヌを書類上の結婚をさせます。兄ジャン=バティストには妻がいたので結婚できなかったのです。
紙の上だけの夫ギヨームは、多額の礼金を受け取るとすぐに、遠方に行って姿を隠したそうです。一方、ジャンヌはデュ・バリー伯爵夫人の称号をもらい、晴れてルイ15世に紹介されたのです。
ルイ15世の心をとらえたデュ・バリー夫人。

愛らしい顔、優美な物腰、そして何よりも明るく楽しい性格に魅了されたルイ15世に、またたく間に気に入られ、1768年9月、25歳のときに公式愛妾として認められ、晴れてヴェルサイユ宮殿に暮らすようになったデュ・バリー夫人でした。ところが、由緒ある高位の貴族ショワズール公爵は、当初から気に入らなかったのです。


聞くところによると、ルイ15世の再婚相手として、ショワズール公爵は、後にグラモン公爵夫人になる自分の妹を薦めていたのです。それに反対したのは、枢機卿であり政治家のリシュリュー公爵でした。
枢機卿であり、才知に富んだ政治家のリシュリュー公爵。

ショワズール公爵とリシュリュー公爵は様々なことで対立していました。私の結婚をショワズール公爵が薦めたときにも、リシュリュー公爵は反対したのです。グラモン夫人追放の件があってから、ショワズール公爵は今まで以上にデュ・バリー夫人を毛嫌いし、それを彼女はまたまた国王に言いつけました。でも、ショワズール公爵は誰もが認める有能な外務大臣。いくら愛妾が何とかしてと甘い声で頼んでも、簡単に免職するわけにはいきません。

そうしている間に、国王に好都合なことが起きました。ある日ショワズール公爵は、スペインと力を合わせてイギリスを打倒するために戦いを挑むべきだと進言します。それはルイ15世の意向にそぐわず、意見が大きく別れます。それを口実として、国王はショワズール公爵を免職し、ヴェルサイユ宮殿から遠ざかる命令を出したのでした。
そればかりでなく、ショワズール公爵の後任として、デュ・バリー夫人に味方しているリシュリュー公爵の甥デギュイヨンを選んだのです。宮廷から追放された私の味方のショワズール公爵は、ロワール地方にあるご自分のシャトーにひっそりと暮らすようになり、デュ・バリー夫人の味方は重量な職に就き、勢力を増していったのです。
そうなると、さすがの私も、もはや傍観者でいられなくなりました。叔母さまたちも
「ほらご覧なさい、私たちが言っていたように、あの女性は危険なのです。一刻も早く何とかしなければならないのです」
と大合唱。私の対抗心は一挙に燃え上がりました。