2023年8月20日

マリー・アントワネット自叙伝 1

生まれたのはハプスブルク家

1775年11月2日の夕方でした。 母さまはいつものように、お仕事に熱中していました。外はすでに暗くなっていたのに、本当に自分の職務に忠実な方なのです。

それなのに、19時半ころ、私はお母さまのお腹をたたきながら、

「もう、こんな狭いところにいるのはイヤッ」

とばかりに勢いよく外に出たのです。


  何度も出産したお母さまは、少しもあわてることなく、生まれたばかりの可愛くもない私の顔を見ながら、

「思った通り女の子ですわ」 

と、満足な微笑みを浮かべました。


1755年11月日2日、
ウィーンのホーフブルク宮殿で生まれました。

お母さまはヨーロッパに名を轟かせている、ハプスブルク家の女帝と呼ばれるマリア・テレジアです。 ハプスブルク家は昔から、結婚によって領土を増やしたり、権力を増したりしているの子供は多いほど家の発展に役立つのです。それを「結婚政策」などと呼ぶ歴史家もいます。ですからハプスブルク家の帝国維持のために、お母さまも頑張って16人も子供を産んだのです。私はその15番目。それにしてもすごい数。


私が生まれるからには、お父さまもいるのに、なぜかあまり話題になっていませんでした。現在はフランスの一部になっている、ドイツに接するロレーヌ地方に、ロレーヌ公国がありました。その公国を治めるロレーヌ公の息子として生まれたお父さまには、フランス人の血が入っています。というのは、お父さまのお母さまは、かの偉大なフランス国王ルイ十四世の弟、オルレアン公フィリップの王女さまなのです。


 フランツと名付けられたお父さまは、整った顔立ちで、背も高く、お母さまは出会ったときにすっかり夢中になってしまったのです。そう、ひとめぼれだったのです。こうした両親の元に誕生した私は、翌日に洗礼を受け、マリー・アントワンヌ・ジョセフ・ジャンヌと名付けられました。 でもあまりにも長い名前なので、ラントワンヌとかアントニアと呼ばれるようになります