生まれたのはハプスブルク家
1775年11月2日の夕方でした。 お母さまはいつものように、お仕事に熱中していました。外はすでに暗くなっていたのに、本当に自分の職務に忠実な方なのです。
それなのに、19時半ころ、私はお母さまのお腹をたたきながら、
「もう、こんな狭いところにいるのはイヤッ」
とばかりに勢いよく外に出たのです。
何度も出産したお母さまは、少しもあわてることなく、生まれたばかりの可愛くもない私の顔を見ながら、
「思った通り女の子ですわ」
と、満足な微笑みを浮かべました。
1755年11月日2日、
ウィーンのホーフブルク宮殿で生まれました。
お母さまはヨーロッパに名を轟かせている、ハプスブルク家の女帝と呼ばれるマリア・テレジアです。 ハプスブルク家は昔から、結婚によって領土を増やしたり、権力を増したりしているので、子供は多いほど家の発展に役立つのです。それを「結婚政策」などと呼ぶ歴史家もいます。ですからハプスブルク家の帝国維持のために、お母さまも頑張って16人も子供を産んだのです。私はその15番目。それにしてもすごい数。
私が生まれるからには、お父さまもいるのに、なぜかあまり話題になっていませんでした。現在はフランスの一部になっている、ドイツに接するロレーヌ地方に、ロレーヌ公国がありました。その公国を治めるロレーヌ公の息子として生まれたお父さまには、フランス人の血が入っています。というのは、お父さまのお母さまは、かの偉大なフランス国王ルイ十四世の弟、オルレアン公フィリップの王女さまなのです。
フランツと名付けられたお父さまは、整った顔立ちで、背も高く、お母さまは出会ったときにすっかり夢中になってしまったのです。そう、ひとめぼれだったのです。こうした両親の元に誕生した私は、翌日に洗礼を受け、マリー・アントワンヌ・ジョセフ・ジャンヌと名付けられました。 でもあまりにも長い名前なので、ラントワンヌとかアントニアと呼ばれるようになります。
コメントを投稿