2023年9月17日

マリー・アントワネット自叙伝 6

ウィーンで代理結婚式

私の結婚は1770年の春にと決まりました。最初にウィーンで、その後フランスのヴェルサイユ宮殿でと、結婚式は二度もあるのです。

4月15日、イースターの日、マリア・クリスティーナお姉さまと、ある伯爵夫人のシャトーの窓辺に立っていました。すごい行進があると聞いて、それを見るために伯爵夫人邸の窓に近づいていたのです。

その行進は、私のためにわざわざフランスからいらした使節団で、お姉さまと何度も歓声をあげたほど絢爛豪華でした。それが私の結婚のためだとは、とても信じられませんでした。第一、結婚する実感がまったくなかったのですから、まるで、国の重要な祭典のためのようにしか思えなかったのです。

豪華な行列の中で特に目に焼き付いたのは、二台の大型馬車でした。聞けば、その二台は私がフランスにお嫁入りするときに乗る馬車で、国王ルイ15世からのプレゼント。それほどの心配りをするなんて、何て優しい国王と感動しました。マリア・クリスティーナお姉さまもうらやましがっていました。

その一台の馬車は、深紅のビロードを張り巡らし、四季をあらわす精美なブロドリーがほどこされていました。そしてもう一台は、四大要素の装飾があるブルーのビロード張り。それだけではありません。ゴージャスな二台の馬車は私のための馬車なので、誰も乗っていませんでした。

それに続く46台の馬車には、結婚のために特別に派遣された、デュルフォール侯爵とお付きの人々が乗っていました。それを取り囲む117人もの随行人はブルー、イエロー、シルバーのきらびやかな色彩の服装。きっとフランスは、自国の偉大さを見せびらかしたかったのでしょうが、とにかくめまいを覚えるほどの豪華さでした。

その翌日の16日、フランス特使のデュルフォール侯爵が、お母さまとヨーゼフ2世お兄さまにお会いになって、正式に私をフランスの王太子妃に迎えたいと申し出ました。デュルフォール侯爵は、私のフィアンセからのお手紙とポートレートをうやうやしく差し出したのです。お隣の部屋でじっと事の成り行きをうかがっていた私は、呼ばれると急ぎ足でお母さまとお兄さまがいるお部屋に入り、それらを受け取りました。 

そのまた次の日の17日、フランスに嫁ぐ私は、オーストリアでのすべての継承権を破棄する宣告をしました、というか、無理やりさせられました。まるで、二度と生まれ故郷に戻ることがないかのようなその宣告は、後味の悪いものでした。

その後は、祭典に祭典が続き、そうした楽しいことが好きな私は有頂天。踊って踊って、また踊って、皆にちやほやされて、花火も上がるし、結婚ってなかなかいいものだ、と思わずにはいられませんでした。

そうしたすべての騒ぎが終わり、4月19日になると、今度は厳粛な結婚式。代理結婚と呼ばれ、フランスにいるフィアンセの代わりに、代理の人と結婚式をあげるのです。選ばれたのはフェルディナトお兄さま。私より一歳年上で、後に北イタリアのロンバルディ総督になります。

トランペットが高らかに鳴り響く中、着飾った宮廷人が、王宮ホーフブルクのギャラリーからアウグスティーナ教会まで華やぎを散りばめながら進み、儀式は夕方6時に始まりました。
シルバーのドレスを着た私は、お母さまとヨーゼフ2世お兄さまに付き添われて、祭壇に向かいました。そこで待っていたフェルディナトお兄さまと揃ってひざまずいて、お祈りを捧げ、誓いを交わしたのです。代理結婚とはいえ、兄妹で誓いを交わすなんて、ほんとうに奇妙でした。


ウィーンでの代理結婚式が行われたアウグスティヌス教会。
王宮に併設している14世紀の歴史ある教会。
ウィーンでの結婚式で
ルイ・オーギュストさまの代理をつとめた
フェルディナントお兄さま。

フランスへの出発は4月21日でした。それまでの残されたわずかな日々を、私はお母さまのお部屋で過ごしました。お母さまの寝室に折り畳み式ベッドを置いて、夜寝る前にこまごまと注意事項を嫁ぎ行く娘に述べるお母さま。あの貴重な日々を、どうしてもっと大切にしなかったかと、後悔しないではいられません。 お母さまには、その後二度と会うことはありませんでした。