2023年9月26日

マリー・アントワネット自叙伝 7

さようなら、我が祖国

4月21日、予定通り私は馬車に乗りました。そうです、フランス国王ルイ15世がプレゼントしてくださった、あのゴージャスな馬車です。
大好きな家族とのお別れは本当につらく、思い出したくありません。たくさんのお花で飾られた馬車は、ウィーンをあっという間に離れ、郊外のシェーンブルン城が見えてきたときには、涙がポロポロ出てしまいました。

そんな私の気持ちに同情することもなく馬車は走り続け、8時間後に最初の目的地、メルクに到着しました。そこにはヨーゼフ2世お兄さまが待っていて、やさしく迎えてくださり、その日はベネディクト派の修道院に泊まりました。
この修道院はもともと居城として建築されたので、素晴しいフレスコ画が描かれ、バロックの装飾でとても豪華です。窓から見えるヴァッハウ渓谷の美しさも格別。そこでお祝いのオペラや演奏がありましたが、正直言うと疲れていたので、どれも退屈で早く終わってベッドに入りたいと思うばかりでした。
メルクのベネディクト派修道院。
ここでヨーゼフ2世お兄さまが迎えて下さり、
豪華な祝賀がありました。

翌朝、ヨーゼフ2世お兄さまにお別れを告げ、馬車はまた走り続けました。町や村では、私が通るたび教会の鐘が鳴り、道路に花びらがまかれお祝いしてくれましたが、毎日、数時間馬車で移動するのはとっても疲れます。馬車はどんなに豪華な椅子でも、揺れ動いているので座り心地は最悪。それに、道は舗装されていなく、適当に石を並べたり、砂ぼこりがあがる粗野な状態ばかり。

木が多くてお天気がいい日でも暗いので、「黒い森」と呼ばれている深い森を通り、ドイツとフランス国境に面したライン川のほとりに着いた時には、心からほっとしました。その川の中ほどの小さな島で、私はフランス入りの儀式を行い、フィアンセが待つパリの北にある宮殿に向かうのです。

ドイツとフランスの間を流れているライン川に架けられた橋を渡ったのは、5月7日11時時半でした。川の中ほどにあるエピ島行くためです。その島は中立の立場にあるとされ、そこで私はオーストリアからフランスに渡されることになっていたのです。そのための儀式は何と「引き渡し」と呼ばれ、それを知った時には聞きなれない言葉なので、正直言ってびっくりしました。何だか自分が品物になったような印象を受けました。

島には儀式にふさわしい建物がないので、急遽、造られたというのだから、またびっくり。それだけではありません。島に行く橋もなかったので、それもこの日のために架けたのです。木造の建物の内部は家具やタペストリーの飾りがあったとはいえ、いたってシンプルでした。右端にオーストリアの入り口があり、オーストリアの二つの控の間が続いていました。中央が儀式が執り行われるお部屋で、長方形の素朴なテーブルがあっただけ。それが国境なのです。
 
「引き渡し儀式」が行われた建物。
上が外観で下が内部の様子。
中央が儀式の間で、右はオーストリアの入り口、二つの控の間、
左は儀式後に入る二つのフランスの間とフランスへの入り口。

建物の立体的なデッサン。儀式が終った後、取り壊されました。

それまで着て来ていたドレスをオーストリアの間で脱ぎ、フランスのドレスに身を包んだ私は儀式の間に入りました。オーストリアが確かに私を引き渡し、フランスが間違いなく受け取ったといった内容の奇妙な文が読み上げられ、サインを終えるとオーストリア随員は引き下がり、私はフランスの間に入って行きました。そこには女官長ノアイユ伯爵夫人をはじめとするフランス人随員が待っていました。これがオーストリアとの永遠の別れだったのです。悲しみと感動が入り混って、私は思わず涙ぐんでしまいました。
その後馬車に乗り、フランスのストラスブールの街中へと進みます。この日のために、わざわざ立派な凱旋門を造ってくださったと聞いてとても感激しました。道路にはバラの花びらがまかれ、大勢の子供たちがアルザス地方の衣装で迎えてくれ、その姿があまりにもかわいいので、疲れもとれてしまったほど。すっかり気に入った私は、ドイツ語での歓迎の言葉を途中で止めて、
「今後はフランス語だけでお話してください」
とお願いしたほど、フランス大好きになってしまいました。
私のフランス入りお祝いのために、
立派な凱旋門まで造ってくれたストラスブール。
街をあげての大歓迎でした。

豪華な馬車で凱旋門の下をくぐる私。
感激しました。

その日もまた会食、劇、ダンス、花火など盛り沢山のスケジュール。でも、心地よい一日でした。お父さまはアルザス=ロレーヌ地方を支配していた、由緒あるロレーヌ公国の君主の家に生まれた人。そうしたこともあり、その主要都市のストラスブールが居心地よかったのかも知れません。
歓迎の儀式も立派でした。