2024年6月10日

マリー・アントワネット自叙伝 30

 フェルセンさまがフランスにお戻りになりました。

 

アメリカ独立戦争に参加していたフェルセンさまが、フランスに戻られたと知って、私は胸の高鳴りをおさえることができませんでした。待ち焦がれていたあの方にまたお会いできる、そう思うだけで心が浮き立って、大嫌いな公務さえも楽しくこなせました。1783年のことです。


フェルセンさまのお父さまは、しきりに息子に結婚を薦めていたようです。由緒ある伯爵家のご長男ですから、当然でしょう。しかも、フェルセンさまは28歳になられていたのですから結婚適齢期。お父さまは数人の候補者を考えていて、スイスの銀行家のお嬢様やイギリス貴族令嬢などが有力だったとか。でもフェルセンさまには当時、結婚の意思がなかったようで、お妹さまのソフィさまにお手紙でそう打ち明けていらしたのです。ソフィさまは憂いに満ちたお顔と優雅な立ち振る舞い、豊かな教養で多くの殿方の心を捕らえていた女性で、フェルセンさまがもっとも信頼を寄せていました。おふたりは頻繁にお手紙を書き合っていました。そのためにフェルセンさまの行動や考えをすべて把握していたのです。

フェルセンさまのお妹さま、
優雅で教養豊かなソフィさま。

3年ぶりにヴェルサイユ宮殿にお姿を見せたフェルセンさまは、たくましさが加わり、男性の魅力が全身からほとばしっていて眩しいほどでした。以前にも増して魅了された私は、視線が合ったり挨拶を交わすだけで動揺し、顔が紅潮し、それを隠せないほどでした。もはや宮廷人は、皆、私がフェルセンさまに心を奪われていることを知ってしまったのです。当然、夫も気が付いていたことでしょう。それにもかかわらず、私を咎めることはありませんでした。彼はそういう人だったのです。繊細な面も持ち合わせる私は、もちろん多少心が痛みましたが、あの方への加速度的に深まる愛を止めることは不可能でした。


寝ても覚めてもあの方のことしか考えていなかった私は、プティ・トリアノンにご招待したり、裏庭に特別に造った小劇場にもお招きしました。そして私がもっとも気に入っていた村里にも。


彼がアメリカに行っている間にインテリアや庭園を整えていたプティ・トリアノンは、ひとりの自由な女性としての生活を満喫できる憩いの場でしたが、日が経つに連れてもっと自然に触れたいと熱望するようになりました。たしかにプティ・トリアノンの周囲にはイギリス式庭園が広がり、種類豊富な木々や花々が心地よい香りを放っていましたが、私が求めたのは本格的な田園生活です。できるだけ早くそれを実現したかった私は、信頼を寄せている建築家リシャール・ミックと毎日のように会って、詳しい計画を練りました。


わらぶき屋根の小さな家がいくつもある村里が私の理想でした。それだけでなく、鯉やカマスが泳ぐ小川も作って、そこに簡素な橋をかけ、ガチョウやカモの親子が連れ立って泳ぐ湖も欲しいと思いました。ちょっと離れた所には広い牧場があり、牛やヤギがのんびり動き回り、ニワトリが毎日新鮮な卵を産む。その卵をいただいたり、乳牛の搾りたての牛乳で作ったチーズも味わう。庭園の一番奥まった所にある土地を、夫が私に快く提供してくださったことには、とても感謝しています。夫は私の計画に反対したことなどありませんでした。それどころか、私の機嫌を損ねるのをおそれているようでした。

ヴェルサイユ宮殿の庭園の一番奥まった所に、
村里を設けました。ノルマンディー地方の田園のような雰囲気です。

これほど目立った優遇をしていたのですから、フェルセンさまにも私の気持ちが伝わったようです。でも、それを避けたり、迷惑がったりしたことは皆無でした。それどころか、ヴェルサイユでの生活を満喫していたようです。正直言ってほっとしました。あの方に嫌われたくないと思っていたのですから。

 

フェルセンさまが戻られて、私にとってヴェルサイユ宮殿が希望の場になりました。アメリカからフランスに戻って半年もたたないうちに、フェルセンさまはルイ16世、つまり私の夫によって、フランスのスウェーデン王立連隊隊長に任命されました。あの方がそれを希望していることを知っていたので、私がこっそり陰で動いたのです。この連隊は1690年に創立された由緒あるもの。軍服姿のフェルセンさまは凛々しくて、高尚な輝きを放っていました。そうしたお姿をいつもお近くで見られるのです。それを知った私は幸せで幸せで毎日笑顔を振りまいていました。

フランスの
スウェーデン王立連隊のユニフォームと旗。
何度が変わってようですが、
フェルセンさまの時代の制服です。 

 スウェーデン国王グスタフ3世がイタリアとドイツを訪問なさることになり、その際フェルセンさまに同行を命じたのは、フェルセンさまがスウェーデン王立連隊隊長に就任した年でした。彼は1791年まで隊長を務めていました。しばらくの間、あの方のお姿を見ることができず、とても寂しい日々を過ごしていました。でも、その翌年にヴェルサイユに寄られたのです。有頂天になった私は、スウェーデン国王ご一行をお迎えするために、最高のおもてなしをしようと知恵を絞りました。

スウェーデン国王ギュスタヴ3世。

1784年6月7日に宮殿にお出でになったご一行のために、とういより、フェルセンさまに喜んでいただきたいために、オペラ、仮装舞踏会、晩餐会など可能な限り豪華にしました。ハガ伯爵という偽名を使っていた国王は、気品あふれる美しいお顔の方で、フェルセンさまを特別可愛がっていたようです。そのためにおふたりの間を疑う噂が立っていましたが、事実無根と確信しています。


プティ・トリアノンの庭園にある「愛の神殿」では、6月21日にイルミネーション灯してロマンティックな祭典を催しました。フェルセンさまは幻想的なイルミネーションをとてもお気に召したようです。6月23日には熱気球を飛ばしました。フランス人の発明家モンゴルフィエ兄弟が、世界で初めて有人飛行に成功させたので、熱気球をモンゴルフィエールとも呼びます。グスタフ三世もフェルセンさまもフランスの優れた技術に驚かれたようです。私と夫もご一緒していたので、おふたりの反応が手に取るようにわかり、とても誇らしく思えました。

プティ・トリアノン近くの「愛の神殿」で
6月21日にイルミネーションをお楽しみいただきました。

フランスが誇るモンゴルフィエールも
ご覧いただきました。

スウェーデンの国王ですので、フランスを代表するプレゼントをしなければなりません。急遽の訪問だったので何の準備もしていなく、考えた末、セーヴル焼きのセットを選びました。実はそれは私が以前に注文したもので、宮殿で使用したくて制作を急がせていたのです。でも、こうした事情ですし、しかもあの方の国王なので、私はいいところを見せたくて我慢しました。グスタフ3世は大変お気に召して、その後同じ模様の食器を12個注文したほどでした。私が発案した模様が気に入られて、とても自慢に思ったものです。

ギュスタヴ国王にプレゼントし、
その後、私自身のためにも同じセーヴル焼きを注文しました。

もちろん、その後、私用のも制作させました。その数は239枚にもなりました。ちょっと多いかとも思いましたが、お料理の種類が豊富だし、ティータイム用のセットもそろえたかったので増えてしまったのです。このようにして,同じセーヴル焼きの食器が、フランスとスウェーデンの王室で愛用されることになり、両国の絆がより深くなりました。


フェルセンさまはスウェーデンとフランスを行き来するようになり、その間フランス語でお手紙を書き合っていました。このころからどれほど多くのお手紙を書いたことでしょう。あの方からのお手紙が届くと女官がそっと渡してくれて、それを私室で読むのが最大の喜びになっていました。もちろん全て自分で保管して、何度も何度も読み返していました。万が一を考えて、私の名前はジョゼフィーヌにしました。