2024年7月29日

パリならではの画期的聖火台

 オリンピックのオープニングセレモニーの興奮が続いているパリで、前代未聞の気球形の聖火台がすごい人気。8月11日のクロージングセレモニーまで、チュイルリー公園で見られるとあって、連日すごい人出。行くか行かないか迷ったけれど、これは歴史的なことだからと、出かけて行くと、なるほど大変な人気。もっともずっと近づくのには事前の許可が必要なので、行けるところまで行くことに

ナポレオンが建築させた
カルーセルの凱旋門の中央から見える聖火台。
歴史的建造物と最新技術の素晴らしい融合がある。
さすがフランス人だと、ここでまたまた感激。
行ける所まで行こうと進むと、頑丈な鉄柵がありココでストップ。
でも、ユニークな聖火台はしっかり見える。
誰もが競って記念の写真を撮る。

私も、もちろん一枚。


燃料を使うことなく、水と光で作られる炎が日暮れ時に灯され、空高くのぼる。昼間は地上に降りた太陽であり、夜は60メートルの高い空から人々を見守る灯台だという発案者の解説を知ると、興味がますます高まる。

パリのシンボルのひとつエッフェル塔もかなたに見える。

緑に囲まれた聖火台。どの角度から見ても美しい。

暗い海を漂いながら見えてくる灯台の光に安堵したり、遠くからも見える教会の尖塔に心が癒される人々の姿が浮かんでくるようだ。それにしても、フランス人の才知に再び驚かされないではいられない。このような、世界に類をみない試みを許可する精神も称えたい。
と書いている間も、絶対に夜に聖火台がのぼるのを見に行こうと決意。夜10時になるのを待って出かけると、想像以上の人、人、人・・・
こんな光景は2度とみられない。
歴史に残る1ページを目の前にしているような感動。

2024年7月27日

オリンピックの歴史に残るほどの、感動的なオープニングセレモニー

 4時間にも及ぶ夏季オリンピックのオープニングセレモニーは、時間が経つのを忘れさせるほど変化に富み素晴らしかった。パリの歴史を見続けてきたセーヌ川を、世界の選手たちが90の船に分乗し約6キロに渡って行進すること自体が、前代未聞のこと。これはパリ・オリンピック開催が決まった時にマクロン大統領が発表し、当時はあまりにも野心的で、現実離れしていて果たしてその実現が可能かどうかと疑う人が多かった。

街中を飾るパリオリンピックのポスター。
メインストリートのウインドーや壁もオリンピック一色。

ところが、意表をついたオープニングセレモニーは息を呑むほどの卓越した内容で、これこそオリンピック精神の理想的な表れだと感慨深かった。それは、フランス主催のオリンピックとはいえ、フランスの祭典ではなく、世界のアスリートたちの祭典だということを、はっきりと形あるもので表したためだ。アメリカのレディ・ガガが華やかにセーヌ河畔で歌い踊り、カナダの歌手セリーヌ・ディオンがエッフェル塔で絶唱したり、聖火ランナーにスペインのナダルやルーマニアのコマネチ、アメリカのカール・ルイスなど様々な国のスポーツの偉大なレジェンドも登場し国際色豊か。

もちろんフランスを代表するオペラ座ダンサーたちの優美なバレーも欠かさないし、元気いっぱいのフレンチカンカンも祭典のムードを盛り上げる。過去のオリンピックの映像が流れるかと思うと、フランスの歴史で必ず語られる革命は,、頭を手にするマリー・アントワネットや真っ赤に染まるコンシエルジュリ―に表現され、ルーヴル美術館の展示作品の主役たちの大きな顔のパネルが、セーヌ川から顔を出してセレモニーを見ている。グランパレの屋根の上でフランス国旗をまとったオペラ歌手が国家を高らかに歌い、橋の上ではショパンコンクールで優勝したピアニストが清涼なクラシックを奏でる。若いデザイナーたちのファッショーも長い間続き、セーヌ川の上に浮かぶ刹那的な島の上では、ジョン・レノンの「イマジン」を女性歌手が透き通るような声で歌い、感動の輪が広がる。

クライマックスは聖火台の点火。これがナンと気球の形。私の推測では、熱気球を発明したのはフランス人だからだと思う。最大の感動は、チュイルリー公園内の気球の聖火台に火が灯された瞬間。気球はゆっくりとパリの空高くのぼり、その時エディット・ピアフの「愛の賛歌」のメロディーが静かに流れ、その後そのメロディーはエッフェル塔に向かい、無数のシルバービーズや刺繍の白いドレスに身を包んだセリーヌ・ディオンに受け継がれ、熱唱となり、セレモニーの最後を飾ったのです。

チュイルリー公園内の聖火台は気球の形。
聖火が灯された瞬間ゆっくりと舞い上がった感動的な一瞬。

100年ぶりのパリオリンピックのオープニングセレモニーは、期待をはるかに超える感動の連続。すべてが心の奥深くに響くほど。とりわけ、金属製の馬に乗った旗手が、オリンピックの旗を風にひらめかせながらセーヌ川を勢いよく走る姿は忘れられない。これには意味がり、「友情と連帯感に満ちたオリンピックの精神を広めるため」。

4時間という長い間テレビで実況中継をみたのは初めて。途中で目を離せないほどの内容が濃いセレモニー。政治的混乱が続いているフランス。でも、反対派の議員たちでさえ褒めているパーフォマンスでした。階段を上り聖火を点火したり、派手な花火で終える従来のセレモニーが、古く感じられるほど斬新。多くの発明を世界に先駆けてしてきたフランス人ならではの発案、演出。これで国がしっかり団結し、政権争いを止めるといいのに・・・

2024年7月23日

鉄柵と金網ばかり。檻の中に閉じ込められたみたい。

3日後に迫ったオリンピックのオプニングセレモニー 。選手たちが船でセーヌ川を通るから、その両サイドやコンコルド広場、チュイルリー公園界隈のセキュリティーが驚くほど厳重。車の通行禁止だけでなく、橋によって人の通行さえも禁止。それに加えて至る所に背の高い金網や鉄柵が張り巡らされている。車の渋滞はあちこちで起きているし、歩行者が通れない個所もある。QRコード付きのパスがないと、例え目的地が1メートル先でもダメ。

「まるで檻の中に閉じ込められたようだ」
「これじゃ猿の惑星だね」
「ピーナツでも投げて欲しいよ」
などと不満も多いけれど、
「前代未聞の祭典だから、ちょっとは協力しなくては・・・」
と理解する人もいる。
本当に檻の中に捕らわれているみたい。

通行許可のパスの検査があちらこちらで。
セーヌ河畔の観客席は準備完了。

アスリートたちは続々入国し選手村に入っているし、要人も100人ほど出席するから飛行場も大変。もちろんツーリストもいっぱい。セキュリティーは当然24時間体制。屋外の会場が多いから、これはかなり複雑。セーヌ川の川底まで検査が必要だし、世界情勢が不安なため、数か国から特捜部隊も到着しテロ対策もマキシマム。
完全武装のたくましいセキュリティーの男性が、
至る所で見張っているので安心、安心。

ともあれ、パリでしか実現出来ない世界に類をみないオプニングセレモニー。フランス人特有の才知の結集の見せどころ。かなり華やかなはず。期待で気分が高まる一方の今日この頃。

2024年7月17日

アタル首相 暫定内閣

7月16日、マクロン大統領は首相の辞表を受け、ガブリエル・アタルは首相を辞任。ただし次の首相がいまだに決まらず、ガブリエル・アタルは大統領が必要と判断する限り、暫定内閣の首相として最後の瞬間まで職務を継続すると発表。右派からも左派からも評価されているのだから、このままずっと継続でいいのではないかと思う。彼の演説と説得力の素晴らしさには人の心を動かすものがある、と私はずっと思っている。

35歳の若さが煌めく年齢だし、清々しい印象を与えるイケメン。服装の趣味もいいし、姿勢も歩き方も絵になる稀有な政治家。近い将来にフランス大統領になる可能性も大きいのでは。彼によって政界に新風がもたらされると信じている。ルネサンス党の党首になったばかりで、名前も「共和国のために共に」と変更し、マクロン色から脱出し新たな道を進もうという意気込みが感じられる。

首相官邸。ここに入るのは誰?

2024年7月15日

いつもと異なる軍事行進

総選挙後きちんとした政府がなかなか決まらず、どうやら現状維持が続きそうなフランスではあるけれど、予定通り軍事行進は開催され、ほっと一息。選挙で第一位になった左派連合とはいえ、極右の勢力を弱めるために力を合わせただけで、実際には競争相手同士の左派連合だから、誰を首相にするか一向に合意しない。以前ブログに書いたように、オリンピック・パラリンピック終了までは、ガブリエル・アタルに首相を務めていてほしいというのが大統領の意向。アタル首相は中道派のルネサンス党の党首に選ばれたばかりで、大きな期待が寄せられている。ルネサンス党の元の名はエマニュエル・マクロンが設立した「前進」。

今年の軍事行進はシャンゼリゼではなく、住宅地のフォッシュ大通りで開催とあって規模はほぼ半分。選挙の影響で反対派の動きが懸念されていた上に、アメリカのトランプ氏襲撃があったばかりで、セキュリティはマキシマム。

今年はノルマンディー作戦80周年記念の年とあって、当時のジープもパレードに参加。オリンピック聖火も通るので規制が厳しいとはいえ大変な人出。私はテレビで実況中継をみるだけ。それにしても行進する人々がユニフォーに身を包み、引き締まった表情で一糸乱れず行進する姿は、何と素晴らしいことよ。見るたびに大感動。毎年同じような行進とはいえ、これをみないではヴァカンスにも行けない。

ノルマンディー上陸作戦80周年記念なので、
特別に軍事行進に参加したジープ。
グランアルメ通りで喝采を受け、
当時のユニフォームに身を包む軍人も満面のほほえみ。

 
フランス共和国親衛隊はいつ見ても凛々しく憧れを掻き立てる。
 
国旗を飾ったひときわ美しい凱旋門の上を、
三色のスモークを放ちながら飛ぶ、フランス空軍機。

この3枚の写真は友人がフォッシュ大通りの反対にある
グランアルメ通りで撮影。私がブログを書いているのを知っていて、
親切に送ってくれた貴重なもの。メルシー!!!

夜にはオリンピック聖火がルーヴル美術館に到着。その様子もテレビでみていたら、中にまで入るのでびっくり。聖火は数人にリレーされながらサモトラケのニケ、アポロンのギャラリー、モナ・リザ、ドラクロワの名作「民衆を率いる自由の女神」の前を通り炎を輝かせながら外に出る。さすが、今までにないオリンピックにするというフランスならではアイデイア。

いろいろなことがあった7月14日。でもまだ2024年は終わっていない。最大の関心は組閣。どうなることか気になる。

2024年7月13日

ルーアンのカテドラルの火災

パリのノートル・ダム大聖堂が大火災で世界を驚愕させたのは5年前。微妙で複雑な工事が絶えなく行われ、予定では12月8日に再オープンとなっている。マクロン大統領はステンドグラスの一部をコンテンポラリーにしたいと発表し、世界中のアーティストたちが公募に応じようと意気込んでいたのに、今回の予期せぬ総選挙で行く先が危ぶまれ、制作をストップした人もいるという。今の不安定な政情では、何がどうなるか分からないし、コンテンポラリーなステンドグラスなど12世紀のゴシック大聖堂に合わないと反対者も多い。多分実現しないと思うし、私も反対。

そうしている間に、11日朝、ルーアンのノートル・ダム大聖堂の尖塔が火災にあうという惨事に見舞われまた大騒ぎ。幸い消火され大事にはいたらなかったという。修復工事の最中だったとのこと。パリの場合も同じような理由で火災が起きたようだけれど・・・

ルーアンのノートル・ダム大聖堂と言えば、クロード・モネの連作が思い出される。個人的にはモネの作品の中で一番好きなのはこの連作。

1893年

1894年

1894年
それにしてもマクロン大統領任期中に、フランスが誇る2つのゴシック建築のカテドラルの尖塔が火災にあうのはなぜ? と、またまた話題が増えているフランス。

2024年7月11日

マリー・アントワネット自叙伝 32

 首飾り事件

私が知らない間に仕組まれた詐欺事件は、前国王ルイ15世が注文なさった、前代未聞の豪華なネックレスにまつわることです。


ルイ15世は最後の愛妾となったデュ・バリー夫人にプレゼントするネックレスを、宝石商ベーマーとその同僚のパサンジュに依頼したのです。クオリティの高いダイヤモンドを集めることと、絶妙な細工を必要とする制作に時間がかかり、ネックレスが完成する前にルイ15世が逝去されました。そのためにジュエリーの買い手がいなくなり、宝石商は経済的に最悪状態におちいったのです。多額の借金をして貴石を買ったのですから当然です。


窮地に追い込まれた2人の宝石商は、私に目を付けて売り込もうとしたことがありました。でも、価格を聞いてあまりにも高価なのでお断わりしました。何しろ使用したダイヤモンドは大小合わせて540個。価格は160万リーヴル。私の年金ではとても買えなし、国王に頼むのも気がひけたし、それ以上にデュ・バリー夫人のために作ったジュエリーを身に付けることなど、考えただけで嫌でした。私の自尊心はかなり傷つきました。プレゼントすると言われても躊躇したと思うのに、買って欲しいなどとずいぶん無神経な宝石商だと思いました。

このような感じの
ネックレス。

借金で身動きもできない状態になっていたベーマーとパサンジュの前に、突如、救い主として名乗り上げたのがドゥ・ラ・モット=ヴァロア伯爵夫人だったのです。ここから事件はさらに複雑化したのです。私は名前も知らない女性なのですが、伯爵夫人は王妃と大変親しいと言いふらしていたようです。

  

聞くところによるとドゥ・ラ・モット=ヴァロア伯爵夫人は、フランス国王アンリ2世の庶子アンリ・ドゥ・サン=レミの子孫、ジャック・ドゥ・サン=レミの娘として生まれ、ジャンヌと名付けられたようです。後年に二コラ・ドぅ・ラ・モット伯爵と結婚し、それ以降ドゥ・ラ・モット=ヴァロア伯爵夫人を名乗ります。

ジャンヌ・ドゥ・ラ・モット=ヴァロア伯爵夫人

ニコラ・ドゥ・ラ・モット伯爵

なぜヴァロワが彼女の名に加えられているかというと、アンリ2世がヴァロア王朝の国王だったからです。私の時代のブルボン朝前の王朝で、アンリ2世の妃はかの有名な女傑カトリーヌ・ドゥ・メデイシス。両親を早く亡くし、ブローニュの森近くで暮らしていたジャンヌには、兄ジャックと妹マリー・アンヌがいました。ジャンヌが7歳のとき「ヴァロア家の血をひく、この哀れな孤児にお慈悲を」などと道行く人に呼び掛け、人々の施しを受けてその日暮らしをしていたのです。


そうしたある日、そこを通りかかった、裕福なブランヴィリエ侯爵夫人の注意をひくことに成功しました。このころからすでに人をどのように利用するか知っていたのです。心優しいブランヴィリエ侯爵夫人との出会いは、ジャンヌたちの運命を大きく変えました。侯爵夫人が暮らしていたのは、セーヌ川を見下ろせる豪華なシャトーでした。ブランヴィリエ侯爵夫人が調べると、確かにジャンヌたちがヴァロア家の血をひいていることがわかり、このままにしておくわけにはいかないと、パッシーの丘の上にあった自分の豪奢なシャトーに招きます。その後、ジャックを軍事学校に入れ、ジャンヌとマリーアンヌはシャトーから遠くない所にあったロンシャン修道院に入れます。ところが、やはり育ちがよくなかったのか、自由を求めて規則が厳しい修道院から逃げ出し、生まれ故郷のバル・シュール・オヴで暮らすようになったのでした。そこでニコラ・ドゥ・ラ・モットに出会い結婚し、悪賢い夫婦が出来上がったのです。

 

ジャンヌの夫ドゥ・ラ・モットは、バル・シュール・オブ生まれの大した財産もない小貴族で、憲兵でした。結婚後直ちに双子の子供が生まれましたが、直ぐに亡くなったとのこと。

出世を夢見る野心の固まりの2人は、故郷を後にし、パリに向かい、何とかしていい地位に就きたいと、ブランヴィリエ侯爵夫人に取り入ります。人がいい侯爵夫人は、ヴァロワ家の末裔の希望をかなえようと、名門のロアン枢機卿に紹介し、枢機卿の計らいで、私の夫の末弟アルトワ伯の護衛兵の地位を得たのでした。その後もさらなる地位と報酬を枢機卿に頼んでいたようです。飛びぬけた美貌に恵まれたジャンヌは、ロアン枢機卿の愛人でもあったので、上手く利用していたのです。

ロアン枢機卿

ジャンヌの夫も、自分が出世さえすればいいと、2人の関係を見て見ぬふりをしていたと聞いています。このようなことは頻繁にありました。特に宮廷につかえる貴族たちがそうでした。本当に見苦しい限りです。それに比べて夫は何て純粋だったのでしょう。歴代の国王がまるで当然のことのように複数の愛人を持っていたのに、夫は私一筋でした。他の女性に関心を抱いたことなどなかったのです。「ルイ16世は愛人を持たなかった唯一のフランス国王である」と、歴史家が書きましたが、その通りです。


ロアン枢機卿は、ロアン=ゲメネ公家に生まれた贅沢好みの人で、派手で出世意欲が強く、愛人も多く、私が嫌っていた人でした。ストラスブールの枢機卿の地位だけで満足できないで、財務総監になりたがっていたようです。顔を見るのも嫌だった私は、挨拶もしませんでした。枢機卿も、私が毛嫌いしていることを察していたようです。彼はウィーン大使だったことがあるので、私のお母さまも枢機卿のいかがわしい行為を知っていて、あの人には十分に気を付けるようにと、私に注意の手紙を送ってきたほどです。そうしたロアン枢機卿を上手く操ることを思いついたのが、ジャンヌなのです。ベーマーが買い手のない高価なネックレスで最悪の状態にいたのを知って、一案を思いついたのです。信じられないくらい綿密で入り組んだ計画でした。

 

「王妃さまがベーマーが制作した素晴らしいネックレスをお買いになりたいと思っていらっしゃいます。でも、資金的な問題があるようなのです。それで、ロアン枢機卿に仲介の役目を果たしていただけないでしょうか」と、ジャンヌが枢機卿に語ったらしいのです。日頃、私から嫌われていることを察知していた枢機卿は、これは絶好のチャンス、王妃のお役に立つことによって、好意を抱いていただけるかも知れない、それによって、希望している地位も得られるかも知れないと喜んだようです。どこまでも軽く信用が置けない人。枢機卿の地位だって、代々先祖が任命されてきたのを引き継いだだけ。膨大な財産だって同じこと。本人には大した能力はなかったのです。


人をだますことを小さい頃から知っていたジャンヌは、自分がいかに王妃と親しいかを枢機卿にうえ付けるために、ヴェルサイユ宮殿の庭園で、私の偽物との出会いまで準備したというのですから、並大抵の詐欺師ではないです。私の偽物の役目を果たしたのは、パレ・ロワイヤルに出没していたニコル・ルゲイ・ドリヴァという女性で、私にそっくりだったそうです。彼女は1万5000リーヴルの大金と引き換えに、1784年年8月11日夕刻に、ヴェルサイユ宮殿の木立の中で王妃に扮して枢機卿に言葉をかけたのです。手には扇と一輪のバラを持つ演出まであったそうです。多分私の肖像画から伯爵夫妻がヒントを得たのでしょう。何て念入りなこと。一説ではニコルは娼婦だったとされています。パレ・ロワイヤルは怪しげな女性とお金持ちの殿方たちの出会いの場だったので、その可能性は大きいです。ヴェルサイユ宮殿の庭園にはたくさんの木立があって、夜には暗くなるので顔を見分けるのが難しいのです。それをうまく利用したのです。

ニコル・ルゲイ・ドリヴァ

王妃に秘かに会って声までかけられたと信じ、すっかり有頂天になったロアン枢機卿は、ぜひ王妃のお役に立ちたいと、1785年1月24日にベーマーの家に行ってネックレスを確認。これほどの宝飾品であるからには、王妃はさぞかしお喜びになるだろう、仲介をした自分への感謝も、さぞかし大きいだろうと思ったようです。1月29日に、枢機卿はベーマーをマレの豪奢な館に呼び出し、契約書を作成しました。それによると支払いは6カ月ごとで、4回に分けるので2年で支払いが終わる。その1回目は8月1日としたのです。契約書が交わされ安心した宝石商は、2月1日にネックレスを枢機卿に届けます。それを枢機卿は、同じ日の夕方にジャンヌ宅に自ら届けました。ネックレスを受け取った伯爵夫人は、親しい王妃にすぐに届けさせると大嘘をついて、枢機卿を安心させたのです。目もくらむようなネックレスを手にした伯爵夫人は、すぐにそれをバラバラにして売ったのです。


その日から伯爵夫婦の贅沢な生活が始まったのは、言うまでもありません。でも、あまりにも目立つことをいつまでも続けているのは危険だと思い、ジャンヌの夫は多くのダイヤモンドをポケットに入れてロンドンに行き、そこで売りさばきます。その間にロアン枢機卿からの1回目の支払いがないので、心配したベーマーが私に催促したのです。


知らない間に、とんでもない事件に巻き込まれていることを知った私の怒りは、頂点に達しました。悔しくて夜も眠れないほどでした。ですから夫に全てを打ち明けたのです。私に心から同情した夫は、早速裁判にかけてくださいました。これであの嫌なロアン枢機卿も疑わしい伯爵夫婦も、厳罰を受け監獄に送られると信じていました。国民たちはこの事件の首謀者たちが裁判にかけられることを知って、興味津々で大騒ぎだったようです。何しろ大変高価なネックレスをめぐる事件に、王妃が巻き込まれているという前代未聞のことですから、小説よりも何倍も面白かったのでしょう。裁判にかけられることによって事が公になったのが、かえって王妃の不人気を増したなどと言う人もいましたが、私は自分が潔白であることを知って欲しかったのです。1786年5月22日に始まった裁判の後、31日に判決が下されました。驚くべきことにロアンは無実、ただしストラスブールの枢機卿の職は失う。ジャンヌはムチ打ちの後、フランス語の泥棒のイニシャルのVを両肩に焼き印し、生涯監獄に閉じ込める。当時ロンドンにいた彼女の夫は終身労働。あまり満足いく判決ではなかったのですが、パリ高等法院が決めたことですから仕方ないです。


それからしばらくして、驚くべきことを知ったのです。ジャンヌが捕らえられていたサルペトリエール監獄からの脱出に成功したのです。1787年6月5日でしたから、監獄にいたのはわずかな期間です。無事にロンドンについた彼女は、そこで夫に再会。悪人夫婦はまたもや悪巧みを思いつき、この事件に関する本まで出版したのです。もちろん私が稀に見る浪費家で、高価な首飾りを注文し、この事件のすべての責任は王妃にある、といった内容です。許しがたいのは私と彼女が、ただならない間柄だったとさえ書いたことです。嘘ばかり並べたこの本は飛ぶように売れ、それに比例して私の評判は落ちる一方でした。

監獄から脱出してセーヌ川を小舟で通り、
無事にロンドンに逃げたジャンヌ。


骨の中まで悪い女性だった伯爵夫人が、監視の厳しい監獄から脱出できたのは、私を敵視している貴族たちの援助があったからだという噂を聞きましたが、多分事実だと思っています。何しろ監獄の食事はまずいでしょうからと、差し入れが頻繁にあったそうです。援助金まで届ける人がいたのには驚きました。それもすべて伯爵夫人が、かの偉大なヴァロア王朝の血を引いているからです。でも、天罰というのでしょうか、ロンドンに暮らしている間にジャンヌは窓から落ちて急死したのです。1791年8月23日で35歳でした。噂では警察が訪れ、あわてた彼女が窓から飛び降りて逃げようとしたとのことです。借金取りが押しかけて逃げようとしたという説もあります。いずれにしても、彼女は亡くなり、夫二コラ・ドゥ・ラ・モットはそのままロンドンに暮らします。ロアン枢機卿に暴露本を書くとおどして、莫大なお金をしぼり取っていたのです。


被害者である私はなぜか、この事件以来、国民から嫌われるようになってしまいました。大半の人が日ごろの私の贅沢が招いた事件だと思ったようなのです。「赤字夫人」などと屈辱的に呼ばれるようになり、国民の反感が日に日に強くなるので、服装もジュエリーも地味にするようになりました。

2024年7月8日

決戦投票の結果が明らかに

 今回の国民議会選挙はフランス中を熱狂させ、7日の決戦投票に向けての各党の戦略は日に日に激化。それに加えて著名人が公に意見を述べたり、呼びかけたり、デモも連日のように行われ、フランス全土が熱気に包まれ、投票日にはまるで非常事態のような警戒。内務大臣の発表によると、フランス全土に3万以上の警察官と憲兵を派遣。

新たな議員を迎える国会議事堂。

極右の国民連合が絶対多数を得るのを何が何でも阻止しなければならぬと、与党連合と左派連合がそれぞれの選挙区の候補者を一本化することに同意。そのために立候補を取りやめて犠牲になった人も多い。これが民主主義の国がすることかと非難もあるけれど、それが実って極右の絶対多数獲得を崩したと見られています。

内務省発表の総選挙の結果は、左派連合は182(180という報道もある)、与党連合は163、極右翼連合はわずか143となり、予想に反して左派連合が第一位。

それにしても、フランス、アメリカ、イギリスといった大国で、ほぼ同じ時期に選挙戦というのが不思議。日本も都知事選が・・・

イギリスは労働党が政権を握り、フランスの選挙戦ではマクロン大統領離れが目立ち、与党は大統領の名を出すことがかえってマイナスになると判断したようで意図的に控え、「彼」とか「国家元首」とか表現。

35歳のアタル首相を「私の弟」と親し気に呼んでいたけれど、その「弟」の解散反対の声にも耳を貸さず、二人の中は冷却。それでも大統領から与党連合の選挙戦のイニシアティヴを取るよう依頼され、ガブリエル・アタルは全国に足を運び、熱弁をふるい立候補者の応援をし、票の獲得に大きく貢献。一回目の投票の後の各党の党首はコメントを党本部から述べたのに対し、アタル首相はエマニュエル・マクロンが設立した党本部を避け、首相官邸を選んだことから、「兄弟」の関係悪化がいかに大きいかわかる。今回の選挙戦で大活躍し、与党連合の票を伸ばしたのはアタル首相。マクロン大統領は彼に感謝すべきという声が多い。

みんなに見放された
孤独なマクロン大統領
Le Frigaro Magazine

35歳のガブリエル・アタル首相。
今回の総選挙でその実力を発揮し、
与党連合に大きな貢献をしたと評価されている。

わずか7年前に66%もの支持を得て、画期的な勝利で39歳で大統領になり、次々と改革を打ち出し、新しいフランスを目指していたエマニュエル・マクロン。今や側近からも見放され四面楚歌の状態。どの写真を見ても疲れ切っていて、急激に年を取った感じ。

今後は内閣がどのような形になるか、それがヴァカンス先でも話題。どの党も過半数に満たないので、首相を誰にするかが大問題。通常は最大の議席を得た党から選ぶ。今回は左派連合がそれにあたるが、複数の党から成り立っていて、その間でも争いが生じているから複雑。

オリンピックも控えているので、国に混乱を起こさないために当面はアタル現首相に留まるようマクロン大統領が要請。本格的組閣はオリンピック後の9月になるのではないかと推測されている。ということで、今のところは未来の首相も、連立内閣になるのかも不明。マクロン大統領は選挙後は声明を発表しなかったし、姿も見せていない。7月14日の軍事パレードも、オリンピック準備のために今年はシャンゼリゼではなく、フォッシュ大通りで開催。いろいろな変化があるフランスです。

2024年7月4日

雅子皇后着用のティアラ

 チャールズ3世国王のご招待でロンドを公式訪問なさった日本の天皇ご夫妻の滞在中の様子は、フランスでも報道され、日英の関係がいかに友好的で素晴らしいか、多くのフランス人にも伝わったようです。

このご訪問でフランス人がもっとも興味を抱いたのは、バッキンガム宮殿での晩餐会。特に雅子皇后のダイヤモンドのティアラに関心が集まり、ロイヤルファミリー専門のジャーナリストが詳しく説明しているのには、驚いたり感心したり。

それによると、このティアラは1917年に御木本幸吉が大正天皇の后、貞明皇后のために制作した逸品。12世紀から日本の皇室の紋章になっている菊の花がモチーフ。16枚の花弁を持つ菊がホワイトダイヤモンドでほどこされていて、中央の花は大きめで、サイドに行くにしたがって少しずつ小さくなり、その間に葉が描かれているとのこと。

イギリスのエドワード皇太子、
後のエドワード8世国王が訪日したさいの写真。
豪華でエレガントな帽子を被っている貞明皇后。
1922年
チャールズ国王夫妻と天皇皇后両陛下。
雅子皇后の美しさと、
ティアラが大きな話題でした。

このティアラは第二ティアラと呼ばれ、良子皇后、美智子皇后が数回着用し、雅子さまが皇后になられて5年目にはじめて着用。きっと重要な機会を待っていたからに違いないとしています。このように皇后のティアラの詳細も報道されるのをみて、改めてフランス人のロイヤルファミリーへの強い関心を再認識。革命で王政を廃止したのに、今でもロイヤルファミリーに関心を持っている人が多いフランス。雑誌の表紙に王家の人々の写真をのせると、販売数が一挙にあがるようです。

2024年7月1日

国の一大事 高い投票率


 突然の議会解散で国中に嵐が吹きまくっている中で、昨日、6月30日に一回目の議員選挙が行われ、結果は予想通り極右党が大勝利し33%獲得、それに続くのが左派連合で28%、与党は21%。

この選挙にいかにフランス人が関心を抱いているか、というより、自分たちの国の行方を心配しているかは、66%もの投票率から分かる。これは1978年以来の歴史的投票率だそう。

7月7日に決選投票が行われ、それに向けて激戦が繰り広げられるので、この一週間は選挙の話が白熱化するばかりでしょう。左派連合と与党の目的はただひとつ。極右党に政権を握らせないこと。

独断で議会解散をしフランス中に大混乱を引き起こし、厳しく非難されているマクロン大統領も極右党阻止のために結束するよう呼び掛けています。オリンピックを目前に控えているのに、この騒ぎ。それに影響がないことを願うばかり。