2024年7月11日

マリー・アントワネット自叙伝 32

 首飾り事件

私が知らない間に仕組まれた詐欺事件は、前国王ルイ15世が注文なさった、前代未聞の豪華なネックレスにまつわることです。


ルイ15世は最後の愛妾となったデュ・バリー夫人にプレゼントするネックレスを、宝石商ベーマーとその同僚のパサンジュに依頼したのです。クオリティの高いダイヤモンドを集めることと、絶妙な細工を必要とする制作に時間がかかり、ネックレスが完成する前にルイ15世が逝去されました。そのためにジュエリーの買い手がいなくなり、宝石商は経済的に最悪状態におちいったのです。多額の借金をして貴石を買ったのですから当然です。


窮地に追い込まれた2人の宝石商は、私に目を付けて売り込もうとしたことがありました。でも、価格を聞いてあまりにも高価なのでお断わりしました。何しろ使用したダイヤモンドは大小合わせて540個。価格は160万リーヴル。私の年金ではとても買えなし、国王に頼むのも気がひけたし、それ以上にデュ・バリー夫人のために作ったジュエリーを身に付けることなど、考えただけで嫌でした。私の自尊心はかなり傷つきました。プレゼントすると言われても躊躇したと思うのに、買って欲しいなどとずいぶん無神経な宝石商だと思いました。

このような感じの
ネックレス。

借金で身動きもできない状態になっていたベーマーとパサンジュの前に、突如、救い主として名乗り上げたのがドゥ・ラ・モット=ヴァロア伯爵夫人だったのです。ここから事件はさらに複雑化したのです。私は名前も知らない女性なのですが、伯爵夫人は王妃と大変親しいと言いふらしていたようです。

  

聞くところによるとドゥ・ラ・モット=ヴァロア伯爵夫人は、フランス国王アンリ2世の庶子アンリ・ドゥ・サン=レミの子孫、ジャック・ドゥ・サン=レミの娘として生まれ、ジャンヌと名付けられたようです。後年に二コラ・ドぅ・ラ・モット伯爵と結婚し、それ以降ドゥ・ラ・モット=ヴァロア伯爵夫人を名乗ります。

ジャンヌ・ドゥ・ラ・モット=ヴァロア伯爵夫人

ニコラ・ドゥ・ラ・モット伯爵

なぜヴァロワが彼女の名に加えられているかというと、アンリ2世がヴァロア王朝の国王だったからです。私の時代のブルボン朝前の王朝で、アンリ2世の妃はかの有名な女傑カトリーヌ・ドゥ・メデイシス。両親を早く亡くし、ブローニュの森近くで暮らしていたジャンヌには、兄ジャックと妹マリー・アンヌがいました。ジャンヌが7歳のとき「ヴァロア家の血をひく、この哀れな孤児にお慈悲を」などと道行く人に呼び掛け、人々の施しを受けてその日暮らしをしていたのです。


そうしたある日、そこを通りかかった、裕福なブランヴィリエ侯爵夫人の注意をひくことに成功しました。このころからすでに人をどのように利用するか知っていたのです。心優しいブランヴィリエ侯爵夫人との出会いは、ジャンヌたちの運命を大きく変えました。侯爵夫人が暮らしていたのは、セーヌ川を見下ろせる豪華なシャトーでした。ブランヴィリエ侯爵夫人が調べると、確かにジャンヌたちがヴァロア家の血をひいていることがわかり、このままにしておくわけにはいかないと、パッシーの丘の上にあった自分の豪奢なシャトーに招きます。その後、ジャックを軍事学校に入れ、ジャンヌとマリーアンヌはシャトーから遠くない所にあったロンシャン修道院に入れます。ところが、やはり育ちがよくなかったのか、自由を求めて規則が厳しい修道院から逃げ出し、生まれ故郷のバル・シュール・オヴで暮らすようになったのでした。そこでニコラ・ドゥ・ラ・モットに出会い結婚し、悪賢い夫婦が出来上がったのです。

 

ジャンヌの夫ドゥ・ラ・モットは、バル・シュール・オブ生まれの大した財産もない小貴族で、憲兵でした。結婚後直ちに双子の子供が生まれましたが、直ぐに亡くなったとのこと。

出世を夢見る野心の固まりの2人は、故郷を後にし、パリに向かい、何とかしていい地位に就きたいと、ブランヴィリエ侯爵夫人に取り入ります。人がいい侯爵夫人は、ヴァロワ家の末裔の希望をかなえようと、名門のロアン枢機卿に紹介し、枢機卿の計らいで、私の夫の末弟アルトワ伯の護衛兵の地位を得たのでした。その後もさらなる地位と報酬を枢機卿に頼んでいたようです。飛びぬけた美貌に恵まれたジャンヌは、ロアン枢機卿の愛人でもあったので、上手く利用していたのです。

ロアン枢機卿

ジャンヌの夫も、自分が出世さえすればいいと、2人の関係を見て見ぬふりをしていたと聞いています。このようなことは頻繁にありました。特に宮廷につかえる貴族たちがそうでした。本当に見苦しい限りです。それに比べて夫は何て純粋だったのでしょう。歴代の国王がまるで当然のことのように複数の愛人を持っていたのに、夫は私一筋でした。他の女性に関心を抱いたことなどなかったのです。「ルイ16世は愛人を持たなかった唯一のフランス国王である」と、歴史家が書きましたが、その通りです。


ロアン枢機卿は、ロアン=ゲメネ公家に生まれた贅沢好みの人で、派手で出世意欲が強く、愛人も多く、私が嫌っていた人でした。ストラスブールの枢機卿の地位だけで満足できないで、財務総監になりたがっていたようです。顔を見るのも嫌だった私は、挨拶もしませんでした。枢機卿も、私が毛嫌いしていることを察していたようです。彼はウィーン大使だったことがあるので、私のお母さまも枢機卿のいかがわしい行為を知っていて、あの人には十分に気を付けるようにと、私に注意の手紙を送ってきたほどです。そうしたロアン枢機卿を上手く操ることを思いついたのが、ジャンヌなのです。ベーマーが買い手のない高価なネックレスで最悪の状態にいたのを知って、一案を思いついたのです。信じられないくらい綿密で入り組んだ計画でした。

 

「王妃さまがベーマーが制作した素晴らしいネックレスをお買いになりたいと思っていらっしゃいます。でも、資金的な問題があるようなのです。それで、ロアン枢機卿に仲介の役目を果たしていただけないでしょうか」と、ジャンヌが枢機卿に語ったらしいのです。日頃、私から嫌われていることを察知していた枢機卿は、これは絶好のチャンス、王妃のお役に立つことによって、好意を抱いていただけるかも知れない、それによって、希望している地位も得られるかも知れないと喜んだようです。どこまでも軽く信用が置けない人。枢機卿の地位だって、代々先祖が任命されてきたのを引き継いだだけ。膨大な財産だって同じこと。本人には大した能力はなかったのです。


人をだますことを小さい頃から知っていたジャンヌは、自分がいかに王妃と親しいかを枢機卿にうえ付けるために、ヴェルサイユ宮殿の庭園で、私の偽物との出会いまで準備したというのですから、並大抵の詐欺師ではないです。私の偽物の役目を果たしたのは、パレ・ロワイヤルに出没していたニコル・ルゲイ・ドリヴァという女性で、私にそっくりだったそうです。彼女は1万5000リーヴルの大金と引き換えに、1784年年8月11日夕刻に、ヴェルサイユ宮殿の木立の中で王妃に扮して枢機卿に言葉をかけたのです。手には扇と一輪のバラを持つ演出まであったそうです。多分私の肖像画から伯爵夫妻がヒントを得たのでしょう。何て念入りなこと。一説ではニコルは娼婦だったとされています。パレ・ロワイヤルは怪しげな女性とお金持ちの殿方たちの出会いの場だったので、その可能性は大きいです。ヴェルサイユ宮殿の庭園にはたくさんの木立があって、夜には暗くなるので顔を見分けるのが難しいのです。それをうまく利用したのです。

ニコル・ルゲイ・ドリヴァ

王妃に秘かに会って声までかけられたと信じ、すっかり有頂天になったロアン枢機卿は、ぜひ王妃のお役に立ちたいと、1785年1月24日にベーマーの家に行ってネックレスを確認。これほどの宝飾品であるからには、王妃はさぞかしお喜びになるだろう、仲介をした自分への感謝も、さぞかし大きいだろうと思ったようです。1月29日に、枢機卿はベーマーをマレの豪奢な館に呼び出し、契約書を作成しました。それによると支払いは6カ月ごとで、4回に分けるので2年で支払いが終わる。その1回目は8月1日としたのです。契約書が交わされ安心した宝石商は、2月1日にネックレスを枢機卿に届けます。それを枢機卿は、同じ日の夕方にジャンヌ宅に自ら届けました。ネックレスを受け取った伯爵夫人は、親しい王妃にすぐに届けさせると大嘘をついて、枢機卿を安心させたのです。目もくらむようなネックレスを手にした伯爵夫人は、すぐにそれをバラバラにして売ったのです。


その日から伯爵夫婦の贅沢な生活が始まったのは、言うまでもありません。でも、あまりにも目立つことをいつまでも続けているのは危険だと思い、ジャンヌの夫は多くのダイヤモンドをポケットに入れてロンドンに行き、そこで売りさばきます。その間にロアン枢機卿からの1回目の支払いがないので、心配したベーマーが私に催促したのです。


知らない間に、とんでもない事件に巻き込まれていることを知った私の怒りは、頂点に達しました。悔しくて夜も眠れないほどでした。ですから夫に全てを打ち明けたのです。私に心から同情した夫は、早速裁判にかけてくださいました。これであの嫌なロアン枢機卿も疑わしい伯爵夫婦も、厳罰を受け監獄に送られると信じていました。国民たちはこの事件の首謀者たちが裁判にかけられることを知って、興味津々で大騒ぎだったようです。何しろ大変高価なネックレスをめぐる事件に、王妃が巻き込まれているという前代未聞のことですから、小説よりも何倍も面白かったのでしょう。裁判にかけられることによって事が公になったのが、かえって王妃の不人気を増したなどと言う人もいましたが、私は自分が潔白であることを知って欲しかったのです。1786年5月22日に始まった裁判の後、31日に判決が下されました。驚くべきことにロアンは無実、ただしストラスブールの枢機卿の職は失う。ジャンヌはムチ打ちの後、フランス語の泥棒のイニシャルのVを両肩に焼き印し、生涯監獄に閉じ込める。当時ロンドンにいた彼女の夫は終身労働。あまり満足いく判決ではなかったのですが、パリ高等法院が決めたことですから仕方ないです。


それからしばらくして、驚くべきことを知ったのです。ジャンヌが捕らえられていたサルペトリエール監獄からの脱出に成功したのです。1787年6月5日でしたから、監獄にいたのはわずかな期間です。無事にロンドンについた彼女は、そこで夫に再会。悪人夫婦はまたもや悪巧みを思いつき、この事件に関する本まで出版したのです。もちろん私が稀に見る浪費家で、高価な首飾りを注文し、この事件のすべての責任は王妃にある、といった内容です。許しがたいのは私と彼女が、ただならない間柄だったとさえ書いたことです。嘘ばかり並べたこの本は飛ぶように売れ、それに比例して私の評判は落ちる一方でした。

監獄から脱出してセーヌ川を小舟で通り、
無事にロンドンに逃げたジャンヌ。


骨の中まで悪い女性だった伯爵夫人が、監視の厳しい監獄から脱出できたのは、私を敵視している貴族たちの援助があったからだという噂を聞きましたが、多分事実だと思っています。何しろ監獄の食事はまずいでしょうからと、差し入れが頻繁にあったそうです。援助金まで届ける人がいたのには驚きました。それもすべて伯爵夫人が、かの偉大なヴァロア王朝の血を引いているからです。でも、天罰というのでしょうか、ロンドンに暮らしている間にジャンヌは窓から落ちて急死したのです。1791年8月23日で35歳でした。噂では警察が訪れ、あわてた彼女が窓から飛び降りて逃げようとしたとのことです。借金取りが押しかけて逃げようとしたという説もあります。いずれにしても、彼女は亡くなり、夫二コラ・ドゥ・ラ・モットはそのままロンドンに暮らします。ロアン枢機卿に暴露本を書くとおどして、莫大なお金をしぼり取っていたのです。


被害者である私はなぜか、この事件以来、国民から嫌われるようになってしまいました。大半の人が日ごろの私の贅沢が招いた事件だと思ったようなのです。「赤字夫人」などと屈辱的に呼ばれるようになり、国民の反感が日に日に強くなるので、服装もジュエリーも地味にするようになりました。